先日、秩父市の上流、小鹿野町を視察する中で、あるダムの姿に目を奪われました。水面を見た瞬間、胸に走ったのは「少ない!」という直感。目の前に広がっていたのは、他地域なら確実に“水不足”と報道される深刻な状況でした。
とりわけ今は田植えの時期。田に水を引けなければ、稲作は成り立ちません。作付け不能となれば、今年も「米騒動」が現実のものとなる恐れがあります。小鹿野町自体は水田が少なく、また荒川流域には豊かな森林が広がっているため、現時点では深刻な危機感は覚えません。しかし、都市部の水道水の行方はどうでしょうか。今年、東京都内で「節水協力」のアナウンスがなされることは、ほぼ確実だと言えるでしょう。
地球は「水の惑星」と呼ばれていますが、人類が利用できる淡水は、全体のわずか0.01%と驚くほど少ないのです。日本は世界平均の2倍の降水量を誇り「水に恵まれた国」として知られています。それが私たちの「水不足」の意識を鈍らせているのでしょう。
しかし日本の国土はご存知の通り、山がちで急峻。降り注いだ雨は短時間で河川を駆け下り、あっという間に海へと流れ去ってしまいます。その結果、実際に私たちが利用できる一人当たりの水資源量は、世界平均の半分以下に過ぎません。
それでも多くの国民が水不足を感じないのは、私たちが大量の「バーチャルウォーター(仮想水)」を輸入しているからです。東京大学生産技術研究所の試算によれば、日本が1年間に消費する水の総量約800億立方メートルのうち、その8割に相当する640億立方メートルを、私たちは食品や製品のかたちで海外から“間接的に”輸入しているのです。
2050年には、世界の人口が90億人を超えるとされています。水資源をめぐる争い、水の奪い合い、いわゆる「水戦争」が現実となれば、今は見えない水の価値が、かつてないほど高騰するでしょう。
たとえば、世界人口の約20%を抱える中国が保有する水資源は、わずか6%に過ぎません。急激な工業化により、農地の20%が汚染され、水不足はさらに深刻化しています。だからこそ、中国資本による日本の山林や水源地の買収がニュースとして報じられるようになったのです。世界は、すでに水をめぐる争奪戦の真っただ中にあるのです。
私たち日本人にとっても、この「世界の水危機」は決して他人事ではありません。食料自給率が低く、かつ水資源に乏しい日本は、むしろ真っ先に追い詰められる立場にあるのです。
今回私が訪れた秩父の中山間地域には、人と自然の美しき共生の記憶が残っていました。新緑はまるで“神緑”とでも称したくなるほどの生命力を放ち、人工林でありながら、スギやヒノキの暗い森とは一線を画した明るさがありました。
かつてこの地の人々は、炭焼きで生計を立てていました。その営みが残した薪炭林は、今や美しい景観として地域の財産となっています。そして、こうした多様性に富んだ森こそが、荒川の源流域として豊かな水を蓄え、埼玉県民や東京都民の命を支える「水源」となっているのです。
かの田中正造は、足尾銅山鉱毒事件において命をかけて環境を守り、「真の文明は山を荒らさず、川を荒らさず、村を壊さず」と喝破しました。この言葉は今もなお、私たちの胸に深く刻まれるべきでしょう。
日本の歴史と文化は、農と林に支えられ、「水」とともに築かれてきました。いわゆる「手つかずの自然」と標榜する自治体もありますが、実際には多くの山林が、古来より人々の手によって育まれてきた“文化的自然”なのです。そうした事実を単に享受するだけではなく、きちんと理解し、尊重しなければなりません。
先人が苦労の末に築き上げた自然の果実を、私たちは無為に消費するのではなく、守り、次世代へと確実に引き継いでいく責任があります。
美しい風景に惹かれて旅をする。そうした旅人を惹きつける地域には、豊かな自然と人の温もりが共存しています。インバウンドが熱を帯びるいま、日本が単に“消費される観光地”になるのではなく、独自の歴史や文化、自然への配慮を活かしたエコツーリズムやサステナブル・ツーリズムへと舵を切ることが、未来の観光の在り方ではないでしょうか。
毎年1月~5月末及び9月~10月末に実施される緑の募金運動は、特に4月から5月のみどりの月間に重点的に展開されています。新緑の季節、行楽に訪れるその先で、どうか森の環境に目を向け、ほんの少しでいいので、思いを馳せていただければ幸いです。
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