昭和9年、北海道の余市で竹鶴政孝が大日本果汁(株)を設立し、ウヰスキーの製造を始めました。これはNHKの朝ドラ「まっさん」をご覧になっていた方はご存知かと思います。この時、ウヰスキーを仕込み寝かせる数年間の会社維持のための収入として、リンゴジュースの製造販売をしました(ただし、相当に苦戦したそうです)。つまり当時、余市でリンゴの栽培がされていなければ、ウヰスキー製造の夢も遠のいていたことでしょう。
「余市町郷土史」によれば、栽培されていたリンゴは、明治5年、米国から輸入した苗を東京の官園で育成し、明治8年に札幌ほか道内各地に苗木が無償配布されました。
慶応4(1868)年、会津藩は新政府軍の総攻撃により降伏しました。そして逆賊とされた会津藩士と家族1万7千人は、故郷を追われ酷寒で不毛の地であった青森県むつ市(斗南)に移住させられますが、それとは別に会津藩士に北海道の開墾を命じられ入植したのが北海道の山田村(現在の余市市)でした。
その余市に500本配布されたリンゴは、ミシガン州原産のKing of Tompkins County(19号)という種類でしたが、農業としての可能性を見いだせなかったこともあり、苗木をほとんどの苗を枯らす中で、明治12年、旧会津藩士の庭に植えていたリンゴが国内で最初に実り、同時期に49号(国光)も結実。これが余市リンゴの始まりと言われています。
19号は食してみると非常に美味しかったため、これを特産品にしたいと研究し、さらに肥料など改良を加えた結果、会津のリンゴ侍が作るリンゴは旨いと評判を取り、いつしかその評判を伝え聞いた道内の商人も買い付けにくるようになりました。
19号と番号が振られたリンゴが『緋の衣』という名称に統一されたのは明治29年の帝国苹果(ひょうか)名称選定会でした。
名前の由来は孝明天皇が会津藩主松平容保に下賜した衣の色が「緋色」だったとの説が有力です。その後、40年間に渡り天皇家に献上したそうです。
明治30年代には東京やロシアまで販路を拡大、高値で販売される商品力で余市でも大規模栽培のリンゴ農家が増加するなど『緋の衣』は「水リンゴ」と呼ばれ、最高級のリンゴとしてピークを迎え日本の大品種リンゴに成長しました。
昭和20年代まで余市のリンゴの代表格であった『緋の衣』も、改良されていく他品種に押され、徐々に姿を消していきます。そうした中で、猪苗代出身の吉田清亥さんが園主だった吉田農園で、腐爛病に罹患したり雷で割かれたりしても、まだ大切に守り続けられていたのが、北海道最古の『緋の衣』でした。
現在、温泉なども経営する吉田観光農園の『緋の衣』の樹の前で、代表の吉田初美(83)さんに、福島県の会津から余市に開拓で入った時代から初美さん自身の生い立ちをたっぷり伺ったのが、前述した話です。
昭和59年、このリンゴが旧会津藩士の作りあげたものと知った当時の福島県知事松平勇雄氏(松平容保の孫)が来道し、余市町で記念植樹を行い、余市の人々や旧会津藩士の子孫たちに「藩主、容保のかわりに孫の私が皆様に会いに来ました。皆様の祖先は容保の命を助けるべく、北海道に渡ってくださいました。今日、私の命があるのも、皆様の祖先が自分の命を差し出して守ってくださったからです」と感謝の言葉を述べました。そして平成12年、そのことを知った会津若松・会津坂下のりんご生産者が「会津平成りんご研究会」を結成し、平成12年に「藩士ゆかりのりんごを会津でも」と農園から枝を譲り受け、復活に取り組みました。吉田初美さんも会津若松市に苗を寄贈、会津で復活した『緋の衣』は再び、吉田農園の土に帰り、現在、すくすくと育っています。
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