東日本大震災から1年8ヶ月が経過しました。各自治体により復興のスピードはまちまちで、地域力の差がそのまま出ています。
今から遡ること8年前の2004年10月23日、新潟県中越地方を震源に最大震度7の大地震が襲いました。日本有数の地すべり地帯である山古志村(現長岡市)は、家屋倒壊だけでなく地滑りにより村外に通じる全ての交通が遮断され、ヘリコプターで全村避難を余儀なくされました。このとき村民のほとんどは、上空からふるさとの惨状を見て、二度と村には帰れないと覚悟を決めたのです。しかし「山古志に帰ろう」を合い言葉に、僅か3年で約7割の村民がふるさとに帰りました。震災前より人口2千人程度で過疎高齢化が進んでおり、震災では「錦鯉」生産の主要産業が壊滅しました。そんな状況を乗り越えて、人口3割減で踏みとどまったことは、他地域の過疎高齢化が進む地域でどう行動すれば良いかという羅針盤となります。
3m以上の積雪を記録する豪雪地で生き抜くため、力を合わせて暮らす重さを村民は自覚していました。この相互扶助や自立の考え方は、昭和55年から行った酒井省吾村長の“企画も村民、実行も村民”の村づくりでしょう。ここから皆で考え結束して生きることや自分が生まれ育った村に誇りを持ち、急激な過疎化を食い止め「かけがいのない村」を愛し守ろう、発展させようとする“村民の意志”が育まれました。そうした村づくり精神が国重要無形文化財に指定された「牛の角突き」や世界的に有名な錦鯉、美しい棚田の復活・再生だったのです。被災後、直ちに誰に言われ頼まれたわけではなく行動を開始した村民の成果だと言えます。
復興へのプロセスを辿る中で、震災前の2004年に開設した3カ所の小さな直売所が村民の帰村と連動しました。全村避難が解除された2007年以降も毎年開設され、2012年には13カ所となっています。復興の活力が満ちていったことが窺えますが、ミニ直売所が急増したキーワードは「恩返し」と「コミュニティ」です。
村民は、復旧・復興のボランティアや様子を見に来てくれた人に、お茶や食べ物を出したい、自分たちが元気ですと伝えたい、全国の支援者に対して恩返しをしたいという気持ちだったそうです。
一方で、コミュニティの再構築も火急の用でした。救援物資を分ける拠点が自然発生的に地場の野菜等を扱う場所になりました。
「自分が避難先から帰村した時は3軒しか住んでいなかった。皆、食べ物を取りに来いよと声をかけて励まし合う場だったのがこの直売所」
そう話すように復興の際の集落コミュニティの再生として生まれたのです。
人間は「土」に触れていることで生きられるということが仮設住宅暮らしで証明されました。
避難生活で心が折れかけたとき「こんな事じゃいけない。なんとか前を向こう」と、仮設住宅前で野菜を植え収穫を始めました。やがて仮設住宅付近の農地を借りて作るまでに至るのですが、食べる物を共につくることで艱難辛苦に立ち向かったのです。絶対に生きて村に帰るという信念は、まずは自分が心身共に健康でなければいけないと考えた結果であり決意の顕れでした。
この成果は東日本大震災で仮設住宅暮らしをする高齢者に活きました。避難生活で心肺機能低下や歩行困難、鬱などの症状を引き起こす「生活不活発病」の防止に効果があると、仮設住宅周辺の農地を借りて耕作をはじめたのです。
復旧・復興を進めた人々の精神的よりどころは、自己の存在意義を見出すための農産物の生産販売と都市部から嫁いできた女性たちが「この村の人は温かい。困ったことをいつでも相談できる」というコミュニティへの帰属意識であったのでしょう。
このように地域づくりが成果を上げ、村外からの受入や直売所などで成功したかに見えます。しかし、次世代の若者たちが帰ってきて暮らしが成立するだけの経済的な豊かさに至らず、過疎高齢化は止まっていません。このことは全国の地域が内包しているもので、東日本大震災の被災地や放射能汚染という二重の苦しみにある福島県にとって、地域・集落の共同の労働や暮らしの場を蘇らせること、地域文化を復活させられるかが重く大きな課題です。
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