日本は国土の12倍に及ぶ領海を持つ海洋国家です。その根拠となる島には、尖閣列島や小笠原諸島など有名な島々の他にも、誰も覚えてくれない島を含めて約500島に及びます。中でも日本国民が居住している有人国境離島は、漁業、海洋における各種調査から領海警備と言った国土防衛まで、極めて重要な役割を担っています。
しかしこれらの島々では、人口減少が著しく、将来的に無人島になる可能性もあります。
近隣諸国による海洋進出が活発化している現在、日本の主権が脅かされる事態にもなりかねません。このため政府は「有人国境離島法」を制定し、特定有人国境離島地域の保全を行っています。
日本国民で十島村(としまむら)と言ったらどこにあるのか、わかる人は少ないでしょう。十島村は、屋久島と奄美大島の間にある、有人七島と無人島五島からなる南北約160kmの「南北に長い村」です。最後の秘境といわれ、台風銀座と言われる「吐喝喇(トカラ)列島」の全12島により構成されます。
太平洋戦争前までは、現在の三島村を合わせた有人十島による村として「じゅっとうそん」と呼ばれていましたが、北緯30度以南(屋久島より南側)が米軍占領下に置かれた後、昭和27(1952)年に本土復帰を機に正式分村して、現在の十島村となりました。その頃は、有人7島の合計で3,000人弱の島民が暮らしていましたが、少ない島で約60人、多い島でも約150人足らずの小さいコミュニティーとなっていました。平成29年には694人(386世帯)まで減少し、無人島も増えました。
これらの島々に行くには、週2回運航している村営フェリー「とから」で、夜の11時に鹿児島港を出港し、最南端の「宝島」に到着するのは次の日の昼頃という約13時間の長大航路です。
有人島はそれぞれが個性豊かで、例えば悪石島では、盆の終わりに赤土と墨で塗られた異形の面を被り、葉の腰蓑を巻き、手首や足にシュロの皮を付けた「仮面神ボゼ」(国の無形民俗文化財に指定)が、ボセマラ(男根を模した棒)を持って女子どもを追い回す祭りがあります。
島の産業はトビウオやカツオなど豊富な魚種を水揚げする漁業で、船からトビウオが飛ぶ姿も見えました。島内はうっそうと茂った亜熱帯性の植物に取り囲まれ、農地などほとんどないと思われましたが、意外なことに農業も島の大きな産業になっています。中でもブランドの「鹿児島黒牛」となる繁殖が盛んで、放牧畜産が島の基幹産業となっているのです。しかし人口減や高齢化の波は島に容赦なく訪れ、島の暮らしや産業などに影響を与え始めたのです。
本州では考えられないことですが、役場が鹿児島市内にあり、役場に勤める40歳以下の島出身者がいません。聞くと採用試験を受けに来る島の若者がいないとのことで、いずれ島をふるさととしない職員ばかりになることを肥後村長(宝島出身)は心配していました。
ところがここ数年、十島村に移住者が現れ、人口増加に転じているのです。
私も数人のUターン者に会い話を聞きましたが、若い世代の後継者が帰島しつつあるのです。さらに他県から島に魅入られたように若者世代の移住が進んでいるのです。
暮らすためには、産業があって雇用や起業ができないといけません。若者たちは新たな農業や漁業の創出や島野菜、果樹の栽培、また保育園や福祉施設に勤務するなどして生計を立てています。村でも様々な支援を展開し、農業や漁業の活性化を図っています。
「一般社団法人宝島」を立ち上げた竹内功さんは、Iターンのリーダー的存在です。5年前に仕事を辞めて宝島に移住し、島ラッキョウの生産や漁業をしています。
社団法人では魚の漁から加工(トビウオや島カツオ、サワラの冷燻製生ハムほか)、販売まで10人のメンバーで手がけており、今年4月には、島バナナから繊維を取り出し織り上げる「芭蕉布」という昔の伝統工芸品の復活を展開しています。
和歌山県出身で2011年に移住した高木義浩さんは、海水を薪だけで約1週間かけて炊き上げる伝統的な天然塩づくりと、サトウキビを栽培して砂糖づくりを行っています。
ふらりとやってきて移住する人たちが現れる不思議な島。圧倒的に交通や流通に不便な宝島と比較したらまだまだ条件が良い本州の過疎山村は、何故なのか探りに行くと良いでしょう。
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