大石淳平(おおいし じゅんぺい)さん
1989年12月、静岡県掛川市生まれ。実家は造園業で、今の職場からは30kmほど離れた沖之須という海沿いのまちで幼少期から高校時代までを過ごした。物心ついた頃から野山を駆け回り、川や海で釣りをして、いろいろな生き物を飼ってきた。中学1-2年の頃までは家業を継ぐ気でいたが、一方でものづくりにも興味を持っていた。高校は地元の農業高校と工業高校で悩んだ結果、工業高校に進学し、卒業後は、愛知県にある自動車部品工場に就職。職場環境も人付き合いも気に入っていたものの、このまま工場で働き続けることに違和感を抱くようになった。漠然とながらも自然とかかわる仕事をしたいという思いが強まり、一から学びなおそうと仕事を辞めて、2011年4月、東京環境工科専門学校に入学。野生生物調査学科で鳥類を専攻した。専門学校時代のアルバイトやインターン経験の縁で、卒業後は日本野鳥の会に就職し、公園レンジャーとして2年ほど勤務したのち、2015年に一念発起して故郷の掛川市に戻ってきて、丸3年が経った。今の職場、時ノ寿の森では、ヤギの世話を担当していることもあって、ペーターと呼ばれている。
静岡のお茶は、宇治茶・狭山茶と並ぶ日本三大茶として知られる。中でも、駿遠地域と呼ばれる静岡県中・西部地域(川根本町、島田市、掛川市、菊川市、牧之原市)は、世界農業遺産として認定された「静岡の茶草場(ちゃくさば)農法」【1】が点在するお茶処として近年注目を集めている。代表的な茶草場の一つ、茶文字の里・東山(掛川市東山)では、山の斜面に植栽された「茶」の文字が地域のランドマークになっている。
そんな「茶」文字の里からほど近い山の中に、「時ノ寿(ときのす)」と呼ばれる山村集落跡がある。掛川市大字倉真(くらみ)小字時ノ寿だ。1975年に最後の住民が一家揃って山を下りたことで、集落は消滅。以来、山は荒廃し、川の水は枯れ、野鳥をはじめとする動物の姿も消えていった。
荒廃した森を整備して再生し、未来へと引き継ぐ取り組みをしているのが、2010年に法人化したNPO法人時ノ寿の森クラブ。20年ほど前に現理事長の松浦成夫さん個人の活動から始まり、任意団体を経て法人化した。
「時ノ寿の森は、ほとんどが民有林です。もともとこの地域では林業が成り立っていなかったので、地主さんは1人1haに満たないくらいの所有で、400人くらいいます。その一人ひとりと交渉して、森林整備の承諾を得てきました。間伐作業の原資は、主に静岡県の森づくり県民税による森の力再生事業という制度を活用しています。地主さんには、お金としては還元できないんだけど、荒れてしまった森を間伐して、陽が射すように明るくして、土砂災害の防止もしたいから、とにかく山に入らせてもらえないかということで、ご了承いただいています」
そう話すのは、同NPOの専従職員、大石淳平さん。2015年に東京での仕事を辞めて、故郷の掛川市に戻ってきて、丸3年が経った。
NPOの会員は現在200人ほどを数えるが、そのうちの30人ほどがコアなメンバーとして、月2回の定例活動日でさまざまな作業に携わっている。
日によって、散策道の整備をしたり、休憩所のベンチを作ったりするほか、年に3回ほど実施している植樹祭で植えた広葉樹林の下草刈りをしたりとやるべき作業はいくらでもある。
NPOのメンバーの多くは、活動初期にはチェーンソーはもちろん、鉈や鋸すら持ったことがない人たちがほとんどだった。森林保全の技術やノウハウを持っていたわけでもない。荒廃した森林の再生には間伐が不可欠だが、素人が簡単にできることではない。広範囲の間伐作業は、市内で林業事業体として登録している造園会社と連携して進めている。
間伐は企業との連携で進めている一方、植樹活動はほとんどが時ノ寿の森のスタッフと会員でノウハウを持って進めている。源流域に広がる時ノ寿の森の植樹の他、市の委託事業として、松くい虫被害で荒れてしまった海岸防風林の再生のための植樹も行っている。苗木は、土地の潜在自然植生をもとにして、その中で防災面や潮に強いものを抽出して、地元や近隣の苗屋から調達している。
ただし、植樹活動自体は、NPOメンバーだけの活動ではなく、市民や企業が参加して実施するイベント形式の植樹祭・育樹祭として仕掛けている。ダイナミックな森林整備は企業と連携して行い、人と森をつなげるようなフィールドづくりは広く地域住民等にも呼びかけて実施する、そうやって時ノ寿の森づくり活動を広めていこうというわけだ。
NPOの活動自体、地域の人たちや地元の事業者を巻き込んで創り上げてきた。象徴的なのが、『夢マップ』と呼んでいる、時ノ寿の森で将来実現したいイメージを絵にしたイラストマップだ。
「この『夢マップ』というイラストマップは、この森の将来像を描いたものですが、これを作るときには、会員さんや企業の人たち、地域の方、これから関わりを持ってくれそうな人たちを招いて、ワークショップで話し合いをしました。会員さんや地域の人たち、それとぼくたちスタッフみんな共通の目標として見える化した、この森の設計図です」
夢マップには、人工林として残すエリアもあれば、潜在自然植生の天然林に戻すエリアもある。果樹の森、春に咲くヤマザクラや秋に紅葉するイロハモミジ、子どもたちが喜ぶドングリのなるコナラなど季節に応じて森を訪れる人々が楽しめる樹種を多く植える構想だ。「炭」と書かれた箱を積んだトラックの脇で煙を出す炭焼き窯は、この森で最初にできた施設だった。森の中心で集まる拠点となる建物も建ったし、散策路は一部現在リニューアルをしているものの、すでに開通している。森のようちえんのフィールドもできていて、毎月第1・3土曜日の活動日には、市内を中心に隣の菊川市や少し離れた浜松市など近隣地域から、普段は普通の幼稚園や保育園に通っている子どもたち18人が通ってきて、この森の中で過ごしている。農園も、ブルーベリーの苗木を植えて、動き始めたし、動物は1頭残ったヤギがみんなのアイドルになっている。3頭飼っていたが、先日の台風で2頭は亡くなってしまった。
馬はまだ飼っていないが、イラストに描かれたようにパークアンドライドの移動手段として馬車を走らせるなど、より多くの人が訪れてくるための仕掛けづくりも工夫していきたいと大石さんは話す。
NPO時ノ寿の森クラブの定例作業日にて。活動当初は森の整備の道具を扱ったことも知識やノウハウもなかったという。
源流の森の植樹祭。より多くの人たちが森にかかわる機会として、大事にしている。
時ノ寿の森の将来設計図をイラストイメージに込めた、夢マップ。NPOの会員・スタッフだけでなく、地域住民や地元企業などに集まってもらい、時間をかけて話し合った結果を抽出して1枚の絵にした。
現在、時ノ寿の森の活動は、森づくりにとどまらず、森を活用した地域づくりへと発展してきている。持続的な活動として森を守っていくには、里で暮らす人たちとの関係性を作っていくことが必要だからだ。
そのためには地域のことも知らないといけないし、地域の一員として活動することが大事になってくる。森づくりと地域づくりを一体化させる必要性を感じた大石さんは、今年2月、実家暮らしを引き払って、時ノ寿の麓にある倉真地域に引っ越してきた。
「掛川市は南北に長い形をしています。時ノ寿の森は北の端に位置しますが、これまで約2年半、30kmほど離れた南端の海沿いの沖之須地域にある実家から車で通っていました。運転は苦じゃないので困ってはなかったんですけど、ずっと引っかかっていたのが、地域との付き合いができないことでした。沖之須での付き合いもない、時ノ寿では倉真地域で仕事をさせてもらっているもののそれ以上の付き合いはできていなかったから、どこか宙ぶらりんな気分でした。思い切って倉真に引っ越してきて、消防団にも入ったことで、生活は大きく変わりました」
倉真地域は、人口約1,500人。地元のことが好きで、地域を盛り上げるためにも倉真に人を呼びたいという気持ちを持った若者たちがたくさんいた。消防団に入って、そんな同世代とのつながりができた。半年間ほどともに訓練もしてきたことで、時ノ寿の活動も理解してくれるようになった。
「季節ごとに実施している里山体験プログラムの一環として、この夏、倉真の祭り体験ツアーを企画・担当しました。今年で3年目になるプログラムでしたが、それまでは地域の人たちとの意思疎通が難しいところも正直ありました。ところが今年は消防団に入ったことで、『おい、淳平! お前、何で法被着てないだ?』『今年(ツアー体験者は)何人来たん?』などと声をかけてもらえるようにもなりました。祭りを仕切るのは青年団だから、こちらの意図を汲んでツアー参加者に体験してもらえることも広がっていきました」
祭りというと、地域外の人たちが関われる機会は通常それほどないが、ここ倉真地域では大石さんたちの仲介も功奏してか、外部の人たちが祭りに関わることを歓迎してくれる。過疎になってきて引き手が減少している地区があるから、関係人口として人手の提供やお金が落ちる仕組みができれば、互いにウィン-ウィンの関係にもなる。結果として、地域の文化が次世代にも継承されていけば、NPOのミッションとも合致する。
そんなことを思いながら、地域に入り込み、地域の人たちと連携して、さまざまな体験プログラムを仕掛けている。
12年前に会員の集うクラブハウスとして建てた時ノ寿の森の最初の拠点施設は、今年の8月にゲストハウスとしてリニューアルオープンした。「森の駅」という名称は、森と人とが行き来するためのプラットフォームにするという意味でつけた。
建設当時は大石さんがこの会とかかわりを持つようになる前のことだったが、会員に名を連ねた左官や設計士、建具屋たちの協力でセルフビルドした建物だ。素人の会員たちも壁塗りなどの作業を手伝った。釘を一本も使わない昔ながらの伝統工法で、古民具などもまだ使えそうなものを利活用した。1階は土壁、2階には漆喰を塗って、床下には森の中の炭焼き窯で焼いた木炭を敷き詰めてある。すぐ目の前に生えていた木を使った大黒柱をはじめ、材木も周辺から伐採してきた。
森の駅専用のホームページも立ち上げ、現在は和室とフローリングの2つの部屋をゲストハウススペースとして、宿泊希望者に貸している。一般の宿泊客もいるが、森林活用の宿泊プログラムを企画して、1棟貸し切りで参加者とスタッフが泊まっていくこともある。会員を中心に月に2組ほどの利用があるが、平日の利用を増やすのが当面の目標だ。
ゲストハウスは補助金だけに頼らない自立的な運営をめざした自主事業の一つとして始めた事業だ。この他、現在展開している事業には、ガイドウォークや森のようちえんなどのプログラム提供と、森の恵みを生かした商品開発事業がある。
これまでにも、間伐材を使った生ごみ処理容器や六角机、内装材などの製造・販売をしてきたが、新たに『Grace of Forest』という合成化合物無添加の化粧石鹸を開発した。ヒノキの葉っぱとクズの葉からフローラルウォーターを抽出して、モンモリロナイトというグリーンクレイ(海泥)もブレンドした手作りの商品だ。厚生労働省の認可も得て、化粧品登録している。
「この石鹸は、森で捨てられているヒノキの葉、森林整備の際に木々に巻き付いてやっかい扱いされるクズの葉などを有効活用して作っている商品です。掛川市では、もともと葛布(くずふ)が特産品になっているので、そのクズを何とか活用できないかというのが最初の発想でした。女性に手に取ってもらいたいと、ネーミングやロゴマーク、パッケージなどすべて自分たちでデザインしました。まさにNPOの関わりの中で作られた石鹸です」
ヒノキ葉には抗菌効果があるし、クズの葉にも血止めなどの有効成分がある。適度な油分を残しながら、汚れ落ちもよく、抗菌効果や保湿効果もある石鹸となった。低刺激だから、アトピーや敏感肌の人でも安心して使える。女性にとっては肌にやさしい美容石鹸としても最適だ。
実際に使ってみたところ、洗った後も肌が突っ張らず、具合がよい。それだけでなく、洗浄効果や臭い落としにも抜群の効果を発揮する。時ノ寿の森ではヤギを飼っていて、オスが発情した時の臭いは普通の石鹸ではまったく取れないほど強烈な臭いがこびりつく。ところが、たまたまこの石鹸を使ったところ、きれいに落ちた。加齢臭など臭い対策にも効果的だ。
石鹸製造そのものも、集会場の裏側に生産設備を作って、スタッフが手作りで作っている。原料のヒノキやクズの葉っぱを調達するところから、フローラルウォーターを抽出して、混ぜて、一つひとつ型に流し込んでいくところまですべての工程を手作りしている。化粧品づくりの知識もノウハウもNPOにはなかったが、理事の中にもともと化粧品会社を経営していた人がいて、化粧品会社の協力も得ながら、森の資源の有効活用を実現した。
価格は、1個2,500円という高級石鹸だ。掛川市のふるさと納税の返礼品の対象品にも申請して認定された他、全国各地にいる会員からの紹介で販売したり、市内や近隣のセレクトショップにも置いてもらったりして、認知度とブランド価値の向上を図る。
ヒノキ葉やクズ葉など森の資源を活用して商品開発した、高級石鹸『Grace of Forest』。セレクトショップなどで販売しているほか、掛川市のふるさと納税返礼品でも選択できる。女性向けを意識したおしゃれなパッケージやロゴマークもNPOで独自にデザインした。
NPO法人時ノ寿の森クラブ理事長の松浦成夫さん(右)と。43年前の1975年に、静岡県掛川市の山村集落、大字倉真(くらみ)小字時ノ寿(ときのす)の最後の1軒だった松浦家が山を下りたことで、集落の消滅に直面。以来、集落跡は荒廃し、松浦さんが青春時代を過ごした頃とは全く異なる姿へと変貌していった。なんとか、かつてのような明るく生物が棲めるような森林・自然の姿を取り戻したいという思いで、個人の活動から取り掛かり始めたのが、今から20年前の出発点だった。
大石さんが高卒で就職した先は、愛知県の自動車部品工場だった。当然実家を出て独り暮らしをすることになったが、故郷の自然に対する特別な思いは、実はまったくなかった。“中途半端な田舎”というほどの認識で、そんなところに戻ってくるつもりはなかった。
仕事も職場の人間関係も気にいっていたが、工場の建屋という閉鎖空間の中では外の景色も見えず、夜間勤務もあったから昼夜の区別もわからずに働く毎日には違和感も残った。自分が携わる製品の届け先のこともわからず、時間稼働率何%という数値だけを追い求めながらロボットのように働き続けることに疑問も抱くようになった。重ねて、1年目の年にリーマンショックに直面し、衝撃的な解雇の波を目の当たりにした。大企業だからといて安心できない現実はそれまでの価値観を覆すものだった。
もっと自然とかかわる仕事をしたいという思いは漠然とながらも強まっていったが、工業高校出身だったから自然や生物に対する知識も経験もなかった。一から学びなおそうと、工場の休憩時間にスマホで調べて、東京環境工科専門学校の存在を知った。工場の仕事を辞めて、専門学校に入学したのは、2011年4月だった。
専門学校で学んでいくうちに、自然とかかわって生きていきたいと思うようになったルーツに気付き始めていた。幼い頃から遊び親しんだ掛川の自然とそこでの原体験が頭に浮かんでいた。近所の子たちとバケツやタモ網を持って、自転車で川に魚を捕まえに行ったこと、カブト・クワガタを捕まえに行ったこと。海で泳いだし、河口でハゼ釣りもした。秘密基地を作ったことや、台風が迫る中泳ぎに行って溺れかけたのも今ではいい思い出になっている。
上京してからもたまに帰省することはあった。故郷・掛川への意識が変わっていったのは、そんな時だったのかもしれないと、大石さんは振り返る。
「ある時ふと、新幹線の車窓から眺めた景色がすごく心地よいことに気付いたんです。それまで、自然が好きだと言いながら、故郷の掛川にあえて注目することはなかったんですが、『掛川っていいところだなあ』と思うようになっていたことに、いつしか気付かされたのです」
2年間ほど東京で働いたが、掛川に戻って暮らしたいという思いは日々募っていった。思い切って仕事を辞めて掛川に戻ってきたのは、時ノ寿の森で働くためではなかった。とにかく、住まいを掛川に戻したかったのが一番の動機だった。自然とかかわる仕事を探したが、掛川周辺ではなかなかそんな仕事も見つからなかった。だったら、高校を卒業した時のように製造業に勤めに出てもいいと思っていた。とにかく地元に帰って住めることと、週末には当時会員として参加していた時ノ寿の森でボランティアの作業ができること、その2つがあれば満足だと思って、就職先はハローワークを通じて面接を受け、内定ももらった。
「そんな頃、ふと、松浦さんには掛川に帰ってきたことだけでも報告しておこうと、連絡を取ってみたのです。そうしたら、『ちょっとあんた、話すか』と自宅に呼び出されて、そのまま面接が始まって、いろいろな覚悟を確認されました」
当時、NPOの事務局は、代表の松浦さんが仕事勤めをしながらアフターファイブと週末作業でこなしていたが、規模も大きくなって、新たに事務局体制を強化する必要性に迫られていた。ただ、人を雇うだけの財力はなかった。半分別の仕事もしながら、とにかくいっしょに汗をかいてみないかと誘ってもらい、アルバイトとして時ノ寿で働くことになった。最初のうちは実家の造園業の手伝いをしながら、半分は時ノ寿の森で仕事をする、そんな関わり方だった。
大石さんが関わり始めた3年前、時ノ寿の森を訪れる人は、週に数名くらいだったのが、ここのところ森を訪れてくる人が増えて、子どもたちの声が森の中に響くことも多くなってきた。
3年目となった、森のようちえんには、長く通い続けてくれる子もいれば、入れ替わりで新しく入ってくる子もいるが、どの子も皆、最初に来た時と比べて、身のこなしや遊ぶ姿、表情や発想など、多くの面で著しい成長を感じる。
一般向けのガイドウォークでも、参加者がふと、森の気持ちよさや地域の文化・歴史を知って、納得の表情を見せるのに気付くことがある。帰り際に満足そうな姿が見られるのはとてもうれしいと大石さんは話す。
毎年、近くにある市内の中学校の出前授業で話す機会があるという。本当はフィールドにも来てほしいが、カリキュラムに組み込むのは時間的にも難しいので、大石さんが学校に行って森の話をしている。
「ある日、時ノ寿の森まで自転車を漕いで遊びに来てくれた子がいました。出前授業で話をした学校の子で、『この間話を聞いておもしろそうだったから、来てみたんだ』と言うんです。ここから一番近い学区の中学校ですが、それでも距離にして6-7kmはあるんじゃないですかね。話しただけで終わりではあまり意味がないので、実際に森に来てもらいたいというのは出前授業の一つの目的でしたから、森まで来てくれる子がいるといいなと秘かに思っていたんですけど、まさか自転車で来てくれるとは思いませんでした」
これだけ整備してきたこの森を未来に引き継いでいくためには、森と人を結び付けていく活動が引き続き大事になってくる。
幸か不幸か、日本社会はまさに転換期に差し掛かっている。人口は減少に転じ、働き方改革の一環としてオフィスに通わずとも仕事ができる従業形態も進んできた。暮らしを含む人々の価値観も変わってきている。
キーワードは「百姓」じゃないかと最近感じるようになったと大石さんは言う。里山や自然の中で生きていくには、何でも屋になることが重要だからだ。
自然の中で生きる術を持った、地域の古老たちの技術と伝統を、話を聞きながら形に残していく活動をしていきたい。
「時ノ寿に関わって4年目になりますが、この活動を未来に引き継いでいくためには、地域への関わりを深くして、自分が仕事のできるフィールドも広げながら、ぼく自身もこの環境を活用した生業を作る覚悟が必要だと思うのです。それでも、もし時ノ寿の森で食えなくなったとしても、ぼくはこの倉真地域でずっと関わっていくと決めたので、時ノ寿の森の活動を育てながら、例えば倉真地域のお茶農家の手伝いをして稼いでいくのもいいんじゃないかと今は思っています」
専門学校で学んでいた頃、自然を守ることや未来に引き継いでいくには、その価値を人に伝えることが大事ということを教わった。自分自身が自然を守るためのプレイヤーとして活動するだけでなく、自然の価値を十分に感じ取れていない人たちに伝えていくことが大事だということ。人前で話すのはあまり得意ではなかった大石さんだったが、それじゃあだめだ、きちんとチャレンジしないといけないと思い知らされたことを思い出す。
掛川が戻るべきところだと思ったのは、年少期の体験があったからだ。生まれ育った土地で、自然環境や生きもの、その土地の文化や暮らし方などいろいろなことに触れて、人にかかわっていったことで、故郷・掛川への愛着が育まれていった。たとえ一時は首都圏や地域外に出たとしても、心の奥底にその種が残っていれば、ふと気付いたときに、戻りたいと思うことがあるかもしれない。そんな原体験を提供することが、自分たちの役割だと、大石さんは言う。
6時 | 起床 朝食と弁当の準備をしながら、朝の仕事についてイメージする。 |
7時半 | 出勤。ヤギの世話と集会所の掃き掃除から始める。 |
8時半 | 毎週月曜日の朝は、理事長を交えたスタッフミーティング。週の予定の確認、仕事の段取りの共有、全体での協議事項などについて話し合う。長い時は1-2時間ほどかかるため、効率化して時短したい。 |
10時頃 | 経理作業など総務系の仕事も多いが、日によってはイベントの準備をすることもあるし、現場に出て草刈りや伐倒などの作業をすることもある。 |
12時-13時 | 昼食。1時間の休憩を取れることはほとんどない。スタッフみんなでいっしょに食事をとることもあるが、デスクでメールチェックをしながら食べることもある。 |
午後 | 植樹地の現場確認をしたり、定例活動の準備でフィールドの確認に行ったりするほか、銀行や会計事務所をまわったり、市役所での打ち合わせや書類の提出などもあったりと、日によってさまざまだ。来訪者の対応や、森のようちえんや植樹祭などイベントの運営をする日もある。 |
19時 | 平均すると19時には終了。事務所の鍵を閉めて、帰宅の途に着く。 |
19時半 | 地元の消防団に入っているので、訓練や点検などの活動日には、仕事終わりの19時半に集合して、片付けなどを含めて22時頃まで活動している。平常時でも月4回ほど、大会前の訓練時は週に3-4日と体力的にもキツくなる。土日に実施することもあるが、NPOのイベントも多いため全部の活動には出られていない。ただ、大事な集会や緊急出動にはなるべく都合をつけて出席している。 消防団の活動がない日は、自宅で持ち帰り仕事をしたり、段取りを考えたりしていることも多い。食事は自炊が中心。 |
24時頃 | 就寝。 |
NPOの会員活動や主催イベントなどは週末中心に開催されるため、定休日はなく、交代で休みを取っている。
趣味は、釣り。ただし、最近は行けていない。年々、仕事とプライベートの区別がつかなくなっている気がする。
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