椎名亮太さん(右)
1984年6月、千葉県銚子市に生まれる。
専門学校を卒業後に大学に編入学。環境政策学を専攻。大学卒業を機に地元銚子に戻って、就職。09年3月に株式会社農活を立ち上げた。
従業員7名の会社(収集運搬のドライバーさんと堆肥づくりの作業員)の代表取締役社長。
増田哲朗さん(左)
1985年3月、茨城県古河市に生まれる。
椎名さんとは専門学校で同い年の同級生。卒業後は別々の大学に編入学して森林生態学を学ぶ。大学卒業後、屋久島でガイド業に就いていたが、思うところあって関東に戻ってくる。
椎名さんに誘われ、2012年2月から株式会社農活に就職。
千葉県は、日本の酪農発祥の地で、現在でも乳牛の飼養頭数は全国第3位。なかでも銚子市は県内随一の“畜産のまち”で、特に酪農ではなく肉牛生産が盛ん。
“畜産のまち”は、反面として家畜糞尿の処理に悩まされてきた歴史がある。畑に直接撒くにも量が多すぎるし、野菜が育つ間は梳き込むわけにもいかない。生の牛糞は臭いもきつく、野積みにしたままでは汚染物質が水系に流れ込む。
「この糞尿処理の問題を解決するために設立されたのが、農業資源活用生産組合です」
と、椎名亮太さん。いわゆる事業系廃棄物の処理業に当たる。組合の設立は1996年のこと。椎名さんのお父さん、正隆さんが当時も今も代表理事を務める。
当時、世間の環境意識は今ほど高まっていなかった。「リサイクルって何だ」「燃やして処理した方が早いんじゃないか」と新たな事業に対する風当たりも強かった。そんな中、“時間をかけて土に返して、最終的に畑に戻す”というコンセプトを打ち立て、周囲を説いていった。
肉牛はワラ主体のエサを食べているため糞の中にも発酵菌が豊富で、敷き料として入れているおが屑と混ざった状態で排出されるため前処理をしなくても発酵が進む。ただ、活発な分解によって水分が不足気味になる。牛糞が「乾き物」と呼ばれるゆえんだ。
もともとは海水を入れて水分とミネラル補給をしていたが、ここに動植物性残渣──いわゆる生ごみ──を投入すると、ほどよい水分補給になる。土からできた野菜くずなどの生ごみを牛糞と混ぜ込んで堆肥に加工して、土に還元する。さらに、その畑で野菜を育てれば、資源循環の環がつながる。
牛糞の発酵能力を活用した生ごみ処理の試みが始まったのは、2001年5月の食品リサイクル法施行に先立つこと1年半ほど前のことだったという。もともとは牛糞の処理からスタートしたが、今はむしろ生ごみリサイクルの面で注目を集めている。
銚子市高田町にある通称「高田プラント」。“循環社会形成協力先”と呼ぶ排出業者から堆肥化資源(生ごみ等)を受け入れ、牛糞と混ぜて発酵させて堆肥にする。右は、2列に区切ったレーン上を稼働する自動切返し機。往復で2時間ほどかけて撹拌しながら、水分調整と発酵促進をはかる。
この農業資源活用生産組合が進める堆肥生産による資源循環プロジェクトにおける原料調達部門を担うのが、椎名さんと増田哲朗さんが勤める株式会社農活(以下、農活)。設立は2009年3月。社長として経営をマネジメントする椎名さんが父親の基盤を受け継ぎ、発展させるために立ち上げた、いわば組合の子会社だ。今年の2月からは、専門学校の同級生だった増田さんを雇って、堆肥化作業の現場監理などの仕事を任せている。
千葉県内や東京23区内の事業者が排出する事業系廃棄物としての動植物性残渣を収集・運搬するのが、農活の主な仕事になる。これを近所の家畜農家から無償で引き取ってくる牛糞と混ぜ込み、約60-90日間発酵させて、堆肥をつくっている。
収集・運搬とともに、堆肥化工程の管理・運用作業や、できた堆肥を使ってつくる野菜の販売も行っている。野菜の販売先は、なるべく取引先の排出業者に引き取ってもらいたいと思っている。会社なら社員食堂で使ってもらったり、自治体には学校給食などで使ってもらったりして、資源循環の取り組みの環を広げていこうというのが、農活の目的とするところだ。
椎名さんは、生まれも育ちも銚子市。銚子は田舎まちのわりに高い山も大きな川もなく、自然あふれる環境で育ったという感覚はなかったという。ただ、“家業を継ぐ”という意識はずっと持っていた。“土に返す”というコンセプトは常に頭を離れず、学生時代、「社会に出て環境にかかわる仕事に就いたときに、自然環境の状態について一通りの説明ができなければとても務まらない」との問題意識や切実感があったという。だからこそ、そのための勉強ができる進学先や勉強の対象を選んできた。
「本当は、農学系の大学で学びたかったんです。受験に失敗して、浪人するか専門学校に進むか悩みましたが、1年間だけとの約束で浪人させてもらいました。結局、希望の大学には合格できず、東京環境工科専門学校に入学することになりました」
専門学校は通常、卒業すればすぐに仕事に就くことが多い。その分、学生たちも意識の高い人が多かったという。
「社会に出る、就職するという前提で来ている人が多いんですよ。なおかつ環境の専門学校なので、当然のように意識も高い。2年間という凝縮された中で、互いにコミュニケーションを取りつつ、自分のスキルアップにもつなげていかないと取り残されてしまうという危機感ある学校でした」
その分、学ぶものは大きかったという。
今の仕事に直結する、堆肥化や野菜づくりについては、NPOの活動に参加したりしながら外に出て学ぶことが多かった。学ぶのは教室の中だけではない。明確な目的意識を持って、そのために役立つ活動を探して参加する。そうした中で、例えば「自然の中で自然環境を大事にしながら農業をしている」という有機野菜を育てている人たちに出会って、そこでいう“自然”の意味について考え、議論してきた。
専門学校でもその後に編入した大学でも、自然の中に分け入って自然を守るよりも、都市部など自然を壊す場の中でこそ人々に自然を守る大切さを伝えていくことを意識しながら学んできたという。
一方の増田哲朗さんは、自然環境に興味があって専門学校の扉を叩いた。出身地の古河市は、古くから渡良瀬川の渡し場として賑わった街で、市域南部には利根川が東流する。幼い頃から父親に連れられて、海から渓流までさまざまなところへ釣りに出かけたのが原体験となり、自然の中で遊ぶことが多い幼少時代を過ごした。
高校卒業後に入った専門学校で同級生となった椎名さんとは、奇しくも1年浪人して入ったという経歴も重なる同い年だった。
専門学校に入って、ガイドやインタープリテーションという仕事を知る。ゆくゆくはそんな仕事をしたいと思ったが、高卒で進学してきて、もう少し専門的な知識を持っておきたいと、大学に編入して学ぶことを選択した。大学の卒業研究では、渓流の地形によって植生はどう変わってくるのかという、どっぷり自然に浸かった調査・研究をしてきた。
卒業後の就職先はガイドを希望していたが、一般企業ばかりでガイドの仕事なんて見当たらない。大学の同級生たちがリクルートスーツに身を固めて就活に励む中、かつて世話になった専門学校に足繁く通って、屋久島でのガイドの職を得ることができた。
専門学校では、大学よりもはるかに多様な人たちが集まってきていたのが印象に残っているという。年齢も、考え方もさまざま。その中で自分の意見も出していかなければならないし、相手の意見も聞いて摺り合わせていかなくてはならない。いろんな考え方があるということを知ることができたのが大きかったと実感している。
屋久島では、縄文杉をはじめとするヤクスギの森を案内し、お客さんたちに屋久島の自然を満喫してもらう。ダイレクトに反応が返ってくる手ごたえは確かなものだった。
その反面、ガイドで伝えられる対象は、お客さんとして来てくれる人たちに限られる。それも屋久島を訪れるような人たちだから、もともと環境への関心や意識の高い人が多い。一方で、都会から島に来た人たちは、弁当のごみなどを捨てていく。それは島で処理することになる。自然を守るためには、生活環境を変えていく必要があるのではないか。
ガイドを始めて3年半ほどの月日が経ち、屋久島のような非日常にある美しく貴重な自然への意識だけでなく、もっと身近な環境──生活環境も含めて──にも幅広く目を向けてもらえるような、そんな仕事をしたいという思いが次第に募っていった。
屋久島にいた頃から、椎名さんの仕事について聞いていた増田さんは、関東に戻ってきて、はじめてその仕事場を訪れた。広く開けた土地で稼働する堆肥化プラント。「ごみ処理の仕事をしている」と誰にでも胸張って言える椎名さんの仕事に対するプライドには素直にすごいと思えたし、10数年も前に始めて今も続いていることに新鮮な感動を覚えたという。と同時に、今後こうした資源循環の仕事の果たすべき役割はますます大きくなっていくと感じたし、むしろそうしていかなくてはならないという思いがふつふつと湧いていた。屋久島の中で感じていた、自分が今後進んでいくべき道に対するモヤモヤとした疑問に一筋の光明が射した思いもあった。
椎名さんにとっても、家族経営の閉塞感を打ち破る、いわば起爆剤がほしかった。ごみ処理業という世間一般のイメージに対して、親世代はどこか遠慮がちに縮こまるところがあって、反発しながら話合いを重ねていた。人に伝える仕事をしてきた増田さんの経験を糧にして、より広くこの仕事の役割と意味を伝えていけるきっかけを見出していきたい、そんな期待を寄せた。
普通、生ごみの処理の仕方はあまり理解されていないと椎名さんは言う。ごみ箱に捨てれば、もうその先への意識はなくなっている。
でも実際には、捨てられたごみの処理をするために多くの人の手がかかっている。その実態をまずは知ってもらいたいと思う。生ごみの分別はすべて人手でやっていること、その実態を知れば、それを意識した捨て方ができるようになるだろうし、ごみや環境に対する意識も大きく変わるはずだと思う。
人知れず、地道にコツコツと資源循環の“環”を作り上げていった親世代の仕事から、より多くの人たちの理解と協力を求めていく、そんな仕事の仕方へと転回させていくことで新たな道筋が開ける。その結果、循環の“環”はさらに大きくなり、それぞれのつながりもより太く、そして多角的になっていくのではないか。そんな期待や覚悟と責任感を胸に秘め、椎名さん・増田さんの新たな挑戦がはじまっている。
08:00 起床。たいてい朝食はとらずにそのまま出社の準備。
09:00 出社。家からは車で20分ほど。
10:00 堆肥化プラントへ。1日の生ごみ量を確認して、作業の指示。
レーンを通して撹拌を終えた状態の堆肥を確認して、乾きがあまいようなら再度撹拌作業をくり返すなど、全体の状況を把握して具体的な指示を出していくようにしている。
12:00 昼食
お昼は、なるべく従業員たち(搬送ドライバー)といっしょに食卓に付いて、雑談をしながら午後の作業の打ち合わせなどもしている。
13:00 排出事業者によるプラント見学の案内と対応。
ビニール袋や竹ぐしの混在による状況を実地で見学してもらいながら説明。竹ぐしは分解もしないし朽ちてもいかないので一番始末に悪い。鉄串なら錆びてボロボロになるからまだよいといった話を必ず盛り込んで、分別について意識してもらうように話をしている。
16:00 ミーティング
この日の反省点をふりかえるとともに、業務上の意識向上を図るための話をしたりしている。
例えば、中型(4トン車)の収集・運搬トラックが、道行く車や人にとって凶器だという意識を常に持って運転してもらうため、スピードを出し過ぎないことや遠回りになっても広い県道を通ることなど、地域の中で仕事をしていることを口酸っぱく話している。
17:00 業務終了。従業員には、残業はしないということを徹底させている。
17:30 退社
18:00 夕食。
無趣味を自認し、夜もこれといったことをしているわけではないが、仕事のことなどあれこれと構想(妄想?)していることが多いという。自宅にはテレビもないし、パソコンもネットにつなげていない。友達には「いつの時代の人間だ」と笑われるんですけど、新聞は読んでいるしメールもスマホで確認できるから、別に不自由もしていませんと笑う椎名さん。
0:00 就寝
06:00 起床、朝食を食べて、弁当を作る
07:30 出社。8時半頃まで、本社で事務仕事をする
09:00 堆肥化プラントへ。
機械の調整、作業打ち合わせで、作業中に生じる問題点とその対策について話し合う。
11:00 本社に戻って、事務作業
12:00 昼食
13:00 堆肥化プラントで、作業の指示出しと、問題の対処など
ほぼ完成状態の堆肥と届いたばかりの生ごみが混ざってしまわないように保管量の管理や搬入スペースの確保などについて指示を出したりする。
17:00 帰社。事務仕事を済ませて、退社準備。
17:30 退社
20:00 夕食
23:00 就寝
Copyright (C) 2009 ECO NAVI -EIC NET ECO LIFE-. All rights reserved.