出島誠一さん
1975年3月に島根県で生まれ、小学6年生からは大阪で育つ。
神戸にある大学を卒業してIT系コンサルに就職をしたのをきっかけに東京に出てきて、5年間勤める。
仕事を辞めて、東京環境工科専門学校に入学、2005年春に卒業。
最初はパートタイムとして日本自然保護協会に入り、現在は赤谷プロジェクトを担当している。
日本自然保護協会(通称NACS-J)は、日本の自然環境系NGOの草分けとして知られる。開発による自然環境破壊や影響を回避したり軽減したりするための運動や政策提言、そのベースになる調査・研究、また地域や日本社会全体の理解や世論を高めることにつながる環境教育の取り組みなど、多岐に渡る活動を古くから続けてきた日本屈指の老舗自然保護団体の一つだ。
そのNACS-Jが2003年から取り組み始めた『赤谷プロジェクト』が今回の主役、出島誠一さんが担当する仕事。群馬県みなかみ町北部、新潟県との県境に広がる面積約1万ヘクタールの国有林「赤谷の森」を対象に、地元の赤谷プロジェクト地域協議会と林野庁関東森林管理局、NACS-Jの3者が協働して生物多様性の復元と持続的な地域づくりをめざしたプロジェクトだ。NACS-Jにとっても、それまでの自然保護運動とは違った、新たな展開をめざした取り組みになっているという。
「もともとこの森には、ダムとスキー場の開発計画があって、1990年代は自然保護運動の現場になっていました。2000年に、ダムもスキー場も──時代の流れもあるんですが──計画が中止になりました。NACS-Jでは、それまでは問題が解決したりある節目を迎えたりすると役割を終えたということで、次の現場での取り組みに移行してきましたが、長期的な自然環境の保護と持続的な利用を実践していくことが新しい自然保護運動になると考えて、『AKAYAプロジェクト』が始まったんです」
地元で一緒に反対運動をしてきた方々も、守る事ができた自然の素晴らしさを実感できるような地域づくりを進めていきたいという思惑があり、NACS-Jへの期待も高かった。
国有林を管理する林野庁でも、90年代後半は経済林として木材生産を行うための林業から、水土保全や大気清浄、生物多様性の保全などの“公益的機能”(多目的機能ともいう)を実現するための森林管理へと政策転換する端境期を迎えていた。林業基本法(1964年)を抜本改正して2001年に制定した『森林・林業基本法』では、「林業の持続的かつ健全な発展」(第3条)とともに「森林の有する多面的機能の発揮」(第2条)を目的として掲げている。
ただ、スギ・ヒノキ等人工林の育林・施業のことは指導できても、生物多様性の保全や自然の持続的利用などに関する経験は必ずしも十分ではなかった。赤谷の森をモデルにして、新たな森林管理の在り方を模索していこうというNACS-Jと地元による提案は、林野庁にとっても願ってもないことだったといえる。赤谷プロジェクトは、そんな林野行政の新たな方向性を担う、官民協働の一大プロジェクトというわけだ。
大学卒業後に就職したIT系コンサルの仕事を辞めて、自然保護についての勉強を志した出島さんがNACS-Jに出入りするようになったのは、ちょうど『赤谷プロジェクト』の立ち上げの時期に重なった。専門学校で勉強する傍ら、調査の手伝いなどに参加したのがきっかけとなって、2年生の頃にはどっぷり入り浸っていたという。当時、白神山地や知床、小笠原など、日本を代表する自然の多くが自然保護活動によって守られた場所であることすら知らなかったので、地域の人たちと自然保護活動を展開してきたNACS-Jの活動に意義を感じたという。
「実は、特に自然を守る仕事を志すきっかけや原体験があったわけでもないんです。子どもの頃は島根の田舎町に住んでいて、それなりに虫などを捕ったりはしていましたけど、小学生からサッカーを始めて中・高とサッカー一筋の生活を送っていました」
大学の専攻も商学部だったし、卒業後に選んだ就職先も、自然保護や環境とはかかわりのない、IT系のコンサルだった。ただ、大学2年の頃からキャンプや山歩き、マウンテンバイクなどアウトドアのアクティビティをするようになって、自然で遊ぶ楽しさを実感するようになったという。就職のために上京して、遊びが高じて海も山も近い逗子に住んだ。自由になる時間は少なくなった反面、金銭的に余裕も出てきたから、アメリカやニュージーランドの国立公園を歩いたりもした。
「今思えば、何も見ていませんでしたね。もったいないことです」
30歳を目前にして仕事も忙しくなり、漠然とながら“これでいいのか”という思いを抱くようになったという。アウトドアの遊びをする中で、自然や環境問題に対する強い関心が膨らんできていたが、それに対する自分なりの答えは持てていなかった。
環境のことを本腰入れて勉強してみたい、それによって自分なりの答えを持てるようになりたい。そんな気持ちで専門学校の門戸をたたいた。5年間の仕事経験と、人手不足の実情を見てきたから、2年くらい休んでも元の仕事に戻れるだろうという自信もあった。
専門学校の授業は、“現場感”が強いのが特徴ではないか?と出島さんは言う。当時ちょうどハシリだった“保全生態学”の概念なども取り入れた実践的な授業を受けることができて、当時すでに出入りするようになっていたNACS-Jでも話についていけた。
専門学校を卒業して、でも自然保護の世界で仕事をしていくことに自信と確信を持てていたわけではなかった。
「自然保護を仕事にしていくことの厳しさは感じていました。ただ、一方では自然科学を専門にする人たちが多い中で、違うバックグランドから見てもっとこうしたらいいんじゃないかという思いもありました。生物多様性という概念が世に出てきはじめ、企業もCSR(企業の社会的貢献)という言葉を使うようになってきていました。生き物のことに軸足がなくても、この業界で力を発揮できる余地があるんじゃないか、そんな思いも芽生えてきていました」
最初はパートタイムのアルバイトとしてNACS-Jに入ることになった出島さんは、学生時代の延長線上でフェードインできたようなものだと苦笑するが、IT業界での経験があるからなんとかやれているという。
赤谷プロジェクトは、日本における自然保護の先進事例であり、これだけ広いエリアで、国の施策にも直結するプロジェクトだから、当然やりがいもある。
“赤谷型”の森林管理は、今後のモデルケースとして波及させていくことが想定されている。そのキモは、「生物多様性を軸にした科学的管理」と「多様な主体よる意思決定」という2本柱だ。
科学的管理では、例えば、イヌワシやクマタカという大型猛禽類が定期的に子育てができているかどうかを指標として森林の状態を判断している。また、増やしすぎた人工林を自然林に戻すための大規模な実験も行っている。森林を相手にした取り組みで、成果を得るのにも時間がかかるが、プロジェクト開始から9年を経て、「科学的な管理」が具体的になってきている。
もう一つの、多様な主体よる意思決定では、国有林そのものがこれまでの特別会計による企業的運営から、公益的機能の維持増進を目的に2013年度からの一般会計化が決定したことで、名実ともに“国民の森林”としての管理運営が求められている。その具体的な進め方として、「赤谷型」は一つのモデルになる。ただ、実際にはまだまだ手探りの部分も多い。2010年に地域住民を対象にヒアリングしたところ、「赤谷プロジェクトの存在は知っていたが、よくわからない存在」「自分とは関係ない」などの声が聞かれた。日本の森をいい状態で管理するためには、様々な形で森と人との繋がりを再構築する必要。そのためには、地元自治体との連携や、地域の方々との地道なコミュニケーションを少しづつ積み上げていくことが重要だと感じている。
こうした、多様な主体の合意による意思決定の場づくりには、IT業界で働いてきた時の経験も役に立っている気がすると出島さんは言う。
「ITは、基本的には0と1の世界ですから、曖昧さをなくさないとITにならないんです。いろんな人の期待やニーズがあって、それに対応したITシステムを作るわけですが、使い方なども含めて、大きなシステムになればなるほどいろんな人が関わってくることになります。いろんな人に意見を聞いて、妥協してもらったり、納得してもらったりしながら、これでいいですねとものごとを決めていくというプロセスがないと、システムにならないんですね。そのシステムを作るときに、多様な人と意志決定していくということ自体は、今の仕事と同じだと感じています。」
出島さんは、これまでずっと赤谷プロジェクトを中心に仕事をしてきた。逆に言えば仕事で携わった自然環境は「赤谷の森」だけになる。自然保護の仕事をしていく上では全国各地の自然を自分の目で見て、歩いて、より広い視野の中で自然を語れるようになりたいという出島さんだ。
・エコバッグ
リュックも背負っているが、フィールド参照する資料など出し入れするものを入れて、手に提げて持ち歩くのに重宝する。
・フィールドノート
歩きながらメモを取るのに、サイズ・紙質ともに最適。
・カメラ
自然の魅力を伝える為には、様々な種類の写真が必要。
・双眼鏡
・ツールナイフ
ついこの間は、もぎ取っていただいた柿を切って、みんなで食べたりした。
・ファストエイド
誰かを案内して歩くことが多いので、最低限のファストエイド・セットは欠かせない。
・パンフレット(『AKAYAプロジェクト』、NACS-J、寄付申込書)
出会った人にすぐに説明し、お渡しできるよう、パンフレット類等は常に持ち歩いている。
早朝、都内発、上越新幹線で現地に向かう。
8:00 上毛高原駅 到着
9:30 現地集合 レンタカー等で車で移動。
毎回10名ほどの地域の人たちが参加している。
旧三国街道をハイキングルートコースとして活用をすすめるため、地元温泉宿の方々や観光に関わる方々といっしょに歩いている。
・その日の作業内容とスケジュールを説明。
・地図の配布。
地形図だとわかりにくいので、イラストマップを白黒印刷して書き込んでもらう。
三坂線入口P(駐車場)から歩き始める。峠を越えた新潟県側Pに車を回しておく。
V字型に幹が二股に分かれるミズナラの大木や、根が二股に分かれたブナ、ナツツバキの大木など、コース中でチェックポイントとなるような特徴的な自然を設定して、探しながら歩くと飽きがこない。
11:00 三国峠でお昼(お弁当)
13:30 新潟県側Pにおりてきて、散策終了。
温泉街に戻って、ふりかえりとミーティングで意見交換。
赤谷プロジェクト関係者は季節ごとの自然の状況については話ができるが、現在の観光客の趣向などは温泉宿や観光に関わる人たちの方がよくわかっている。
15:30 打合せ終了
日帰りで東京に戻ることも少なくないが、空いた時間があれば、地元のお店や宿を訪ねるのも楽しい時間。
翌日、クマタカのモニタリング調査を行うために、地域協議会のメンバーの温泉宿に宿泊。
21時頃 夕食後、片付けなどを終えた宿のご主人たちとお酒を呑みながら話をする。
23:00 就寝。
農家の生まれで、薪でお風呂や料理をして育った57歳です。親と一緒に山で仕事手伝いしたり、あのころの精神はもっています。私も参加したいです。
(2013.02.04)
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