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「館山まるごと博物館」バックナンバー

0182023.08.08UP関東大震災と館山

海岸段丘

 安房北条駅(現在の館山駅)まで鉄道が開通した4年後、1923(大正12)年9月1日午前11時58分に激震(M7.9)が起きました。相模湾北西部を震源とし、安房では甚大な被害を受けました。なかでも館山湾に面した旧館山町・北条町・那古町・船形町などは、全半壊や火災焼失した家屋が98%にのぼりました。
 『安房震災誌』には、「房州沿岸の隆起は、北条館山約6尺、館山の高ノ島約7尺、沖ノ島約8尺、富崎西岬約8尺、船形約5尺、白浜和田約4尺、鴨川約3尺(1尺=約30cm)」「翌2日にも外房沖で大きな余震が続いた」と記録されています。


海岸隆起の沼面群


 平砂浦から巴川を逆流した津波は、河口部の相浜では9.33mで、家屋70軒と漁船119隻が流失しました。けれど220年前の元禄津波を教訓として語り継いでいた人びとは、高台に避難し、犠牲者は1人だったといいます。


相浜の被災した漁船

北条町の地割れ


安房郡震災復興会のあゆみ

瓦礫から救援する人びと

 千葉や東京への道路や鉄道が分断し、館山は陸の孤島となりました。翌日には、安房郡内の山間部より各村の青年団・軍人分会・消防組などの救援隊が、被害の大きい沿岸部へ駆けつけました。
 北条病院と諸隈医院以外の医療機関は倒壊しました。館山町の負傷者は水産講習所(現東京水産大学館山湾内支所)へ収容し、応急手当の救護所となりました。4日には千葉県赤十字社と銚子の医師団が到着しました。館山病院と鈴木病院は建物が倒壊しましたが、無償で傷病者の手当を行いました。住宅や家族を失った医師らも救護にあたり、住民も力を合わせて助け合い、心配された伝染病の蔓延は予防できたといいます。


大正関東地震時の住宅全潰率(気象庁)

 9月29日、安房郡長・大橋高四郎は町村の首長と各復興会の代表を招集して、安房郡震災復興会(小原金治会長)を組織し、地域を挙げての協力体制をとりました。海底隆起した館山湾は遠浅の海となり、干潟で歩いて渡れるようになった高ノ島や海岸沿いでは鉱泉が湧出しました。海水浴などの観光振興を通じて震災復興が図られ、宿泊施設は震災前を上回っていきました。


大正十二年関東震災地垂直変動要図
(国土地理院)

日本地図プレート


学校の被害

 各町村の小学校は、始業式後でほとんどの児童は下校し、校内における死傷者は多くありませんでした。しかし多くの校舎が一瞬にして倒壊し、図書や学用品なども一切失いました。新校舎が完成したばかりの北条小学校では、落成式の1時間半後に8棟が全潰し、児童と訓導各1名が亡くなりました。船形小学校の9月13日を皮切りに、各校では野外授業や神社の仮教場が漸次再開されています。
 安房高等女学校では、寮で2名、下校後の生徒が6名亡くなっています。安房中学校(現安房高校)では、「当日同刻、記念図書館二階広間では、数十名の生徒に対し、柳悦多【注1】氏の野球に関する講話が行われていた。…柳氏はすばやく全員の生徒を階下に避難せしめたため、生徒に事故はなかったが、…柳氏は倒壊家屋の下敷きとなって不帰の客となったのであった。氏は遠洋漁業に従事し、その基地として館山に在住の傍ら、大正4年から3年間、本校の柔道教師をもつとめ、柔道部の興隆にも尽くし野球部の強化にも援助を惜しまなかったのである」と『創立八十年史』に記されています。

大震災を語り継ぐ

大正地震紀念碑

 関東大震災から3年後の1926(大正15)年6月には、千葉県安房郡教育会から『千葉県安房郡誌』が発行された。もともと大正天皇即位の記念事業として、1919(大正8)年出版予定でたが、財政問題や郡制廃止で出版が延びていたところ、震災に遭遇、大変な苦労のなかで完成したと記されています。その意味でも関東大震災後の復興期に発行された『千葉県安房郡誌』が果たした意義は大きく、なかでも巻末に記載されている『震災誌』は、貴重な記録といえます。
 同年9月には、高ノ島に「大正地震紀念碑」が建てられました。高さ4.4m幅1.75mで、篆額は徳川家達、撰文は千葉県知事元田敏夫によります。「…震源在相模洋以房総相武四州沿海之地受其殃甚如東京横浜猛火随起都市大半帰焦土死者十余万傷者不知数資材失四十億円政府布戒厳令置救護事務局…」とあり、安房郡の被害や復興支援などの詳細、安房郡震災復興会を組織して官民一体となって復興に努力したことなどが記されています。


朝鮮人を保護せよ

 『安房震災誌』によると、震災直後、郡当局が最も苦心したのは、不安と失望に満ちた人心を平静に導くことであったといいます。食料略奪などの流言飛語を鎮静化し、住民に安心を与えました。特に東京の朝鮮人騒ぎ【注2】が伝わり、その影響を危惧した大橋高四郎安房郡長は、この不穏な噂を打ち消し、「この際朝鮮人を恐れるは房州人の恥辱である」「もし朝鮮人が郡内にいるなら恐怖しているに相違ない、十分の保護を加えるべし」という旨の掲示を出し、この配慮により「安房に忌まわしき朝鮮人事件の一つも起こらなかった」と特筆されています。

孤児に愛を与え、震災を救済したクリスチャン

光田鹿太郎

 岡山生まれの光田鹿太郎(1880~?)は、福祉の父と呼ばれた石井十次(1862~1914)のもとで岡山孤児院の事務を執り、鎌倉・東京を経て、1916(大正5)年、北条町新塩場に千葉県育児園(県内初の孤児院)を開園しました。
 関東大震災の直前、園庭にヘビが現われました。それを見ようと園児たちが外に出た瞬間に、大きな揺れが起きて園舎は倒壊しました。園児が助かったのは神の御加護と感謝し、光田は被災者救済のため、炊出しや寄付があると自ら背負って配給に奔走しました。特に激しい余震のなか、被害甚大な町村の実情を精査し、教育上・歴史上・科学上有効な材料とするために危険を冒して震災状況の写真撮影をしました。


 医薬品や配給物を補うため、館山湾に停泊していた軍艦に直訴して大阪まで乗船、関西方面の知人を頼って救援物資依頼の演説会を各地で開催、布団など1千点余の支援を仰ぎ、熱意と犠牲的精神をもって被災者の寒さと飢えを救いました。キリスト教徒として聖アンデレ教会の再建にも尽力しました。『安房震災誌』では善行表彰されたと記録があるものの、その後、育児園は館山町沼(館山小学校裏手)に移転し、戦争の混乱を経て、戦後の消息は残念ながら不明です。


炊き出し

青空教室


日本彫塑界の創始者と震災供養レリーフ

長沼守敬

 岩手県一関生まれで彫刻家の長沼守敬(1857~1942)は、イタリア王立美術学校に私費留学し、伝統的な彫刻を学び、東京美術学校に彫塑科を開きました。引退後の1914(大正3)年に館山町の館山小学校そばに移住しました。
 親友で建築家の辰野金吾も、晩年をともに館山で暮らそうと約束し、徒歩3分の距離に別荘をもっていました。イタリア留学の後輩であった画家の寺崎武男は、長沼を慕って館山を何度も訪れ、徒歩10分の西の浜に別荘を建て、のちに移住しています。


長沼レリーフ

 関東大震災に遭遇した体験は、孫娘・澤田浦子の著書『長沼守敬のことども』に記されています。城山に避難し、振り返ると海の色が変わっていたので、津波がくるかと思ったが、そうではなく、隆起によるものだったとのこと。
 親しくしていた近所の堀口家では老婦人と2歳の孫娘が亡くなりました。ふたりを悼み、北下台(ぼっけだい)の観音堂墓所に供養レリーフを制作しています。


震災観音堂

館山市立博物館企画展
「関東大震災と館山」


注釈

【注1】柳 悦多(やなぎ よしさわ)
 水産講習所(現東京海洋大学)を卒業後、実習場のあった館山に在住し、遠洋漁業に従事するかたわら、1915(大正4)年から3年間、県立安房中学校(現安房高校)の柔道教師をつとめた。柔道部だけでなく、野球部の強化にも援助を惜しまなかった。父の柳楢悦(ならよし)は、測量学者で航海術や海防の発展に尽くし、海軍水路部長、貴族院議員などを歴任。母は加納治五郎の姉。早く父を亡くし、幼い頃から叔父の加納塾で柔道を学んだ。兄は民芸運動で知られる柳宗悦(むねよし)。
【注2】朝鮮人騒ぎ
 大震災の直後、朝鮮人が暴動を起こすという流言飛語により、東京や千葉県北で多くの朝鮮人が殺害された事件で、その数は6,000人を超えるといわれる。

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