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「館山まるごと博物館」バックナンバー

0082020.12.15UP百年前の東京湾台風とパンデミック

はじめに

「東京の大暴風雨」を報じる東京日日新聞の紙面(1917年10月1日)

「東京の大暴風雨」を報じる東京日日新聞の紙面(1917年10月1日)

 2019(令和元年)9月9日に房総半島を直撃した甚大な台風災害から1年が過ぎました。今なお、屋根にブルーシートがかかったままの住宅もあり、荒れた山林も手つかずの状態です。年が明けて、2020(令和2)年初頭に海外から始まった新型コロナウィルス感染症は、春先からまたたく間に広がり、国内でも緊急事態宣言とともに休校や影響自粛など思わぬ展開となりました。台風の傷跡も癒えないまま、強烈なダブルパンチとなり、社会生活や経済活動への影響は計り知れず、1年が過ぎました。

 歴史をひもとくと、1917(大正6)年10月1日に「東京湾台風」と呼ばれる大型台風が襲来しました。千葉県の市川・船橋・浦安や東京都の深川・築地・品川など沿岸部では、大変な高潮水害が起きており、「大正6年の高潮災害」ともいわれています。


 さらに翌1918(大正7)年秋から、未知のウィルス蔓延によるパンデミック(世界的感染拡大)が起こっています。不思議なほど現代社会と近似している状況が、ちょうど100年前にあったのです。1921(大正10)年春までの2年半にわたる感染症は、「スペイン風邪」の名で知られるスペイン・インフルエンザでした。当時の世界人口20億人のうち5億人以上が感染し、死亡者数は2,000万人とも4,000万人ともいわれています。

 日本国内では、1921(大正10)年春までに3つの流行の波があり、大正期の人口5,500万人のうち半数近い2,500万人が感染し、推定38万人が亡くなったといいます。第一波は1918(大正7)年秋から翌年3月にかけて、第二波は1919(大正8)年12月から翌年3月にかけて、そして第三波は1920(大正9)年12月から翌年3月にかけて起こりました。

 未曽有の出来事であった割に、あまり知られることもなく、地域での伝承や資料もほとんど聞きません。安房地域でもそれぞれ大きな被害が出たようですが、記録はあまり残されていません。数少ない資料より、かつての災害について読み解いてみたいと思います。

『鋸南町史』にみる東京湾台風

 令和元年房総半島台風で最も甚大な被害を受けた鋸南町。1995(平成7)年に発行された『鋸南町史』をひもとくと、1917(大正6)年の東京湾台風について記載があります。

10月1日午前零時頃は折柄仲秋の名月で、(中略)世に言う嵐の前の静けさであった。やがて南東の暴風雨となり、2時過ぎいよいよ暴威をたくましうし、木を抜き家を倒し、同時に高潮を伴って、漁船・運搬船を粉砕して、名状すべからざる惨害を引き起こした。
保田町について述べれば、沿岸家屋約350戸の内全壊58戸、半壊47戸、浸水240戸、漁船運搬船の破壊41隻、即死4人(家屋倒壊による圧死)、負傷7名、山間部でも住家3戸の倒壊を出した。
 駐在所や橋梁が流出したり、道路決壊で不通が2キロとなったなど、凄惨な記録は続きます。
路上には家屋倒伏、器具・木材・破船の横たわるもの塵芥と混交堆積して、全く足の踏場もなかった。箪笥流れて田中に漂い、寝具翻って樹上にかかり、鶏死して半ば土中に埋まり、墓地崩壊して白骨砂上に横たわるもの等、全く酸鼻を極めた。
台風経路図(鋸南町史)

台風経路図(鋸南町史)

 波の高さは12、3メートルと推察されており、台風の規模は、沼津で952.7ミリバール、館山測候所で970.7ミリバールと記録されています。単位が異なるものの、令和元年房総半島台風は955ヘクトパスカルと発表されており、ほぼ同等のようですが、東京湾台風では高潮が重なった分、被害がより大きかったのかもしれません。


安房高女の記録にみる東京湾台風

 1982(昭和57)年発行の『安房南高校75年のあゆみ』にも台風の記録がありました。千葉県立安房南高校は現在、安房高校に統合されていますが、1917(大正6)年当時には安房郡立安房高等女学校でした。

午前1時頃より午前4時ころにかけて台風襲来す。体操室屋根が吹きとばされ、寄宿舎は大きく傾くなど多大の被害を受く。郡内の被害状況は死者・行方不明者41人、家屋全壊923戸、学校全壊8を数えた。寄宿舎生は荒れ狂う強風のなか、暗闇のなかで帯と帯とに手をかけあって、安全な場所へと命がけで移動し、幸いにも負傷者を出さずに済んだ
安房南高校記念誌「75年のあゆみ」より台風の記録

安房南高校記念誌「75年のあゆみ」より台風の記録

 『鋸南町史』以外には記録の少ないなかで、安房郡内の被災状況が記された貴重な情報です。甚大被害が起きた関東大震災6年前にも、大変な惨事が起きていたということに心が痛みます。


安房高女の記録にみるパンデミック

 冒頭で紹介したように、東京湾台風の翌年には世界的なパンデミックが起きているのですが、各市町村史にはほとんど記録がありません。数少ない学校資料から記録を見つけました。前述の『安房南高校75年のあゆみ』と1967(昭和42)年発行の同校『創立60周年記念誌』に掲載された年表を照合し、貴重な記述を拾い上げてみます。これらは大正期に発行された校友会雑誌や日誌などの資料からまとめられています。

 大正7年11月20日流行感冒で欠席者多し。20日より27日まで臨時休校とする
 大正9年1月19日流行感冒予防のためマスクを使用
 1月23日流行感冒予防ワクチンの接種を行う
年表(大正6年)

年表(大正6年)

年表(大正9年)

年表(大正9年)


 1917(大正6)年には、鋸山の掘削に成功し鉄道が安房郡内に入って勝山に通じ、1919(大正8)年4月には安房北条駅(現館山駅)が開業しました。人びとの往来と感染症の拡大が同時期に重なったことも注目すべき点です。

 1919(大正8)年12月発行の校友会雑誌『10周年記念号』のなかに、「流行性感冒の猖獗(しょうけつ)」という記事が掲載され、第一波での安房高女の罹患概要が報告されています。猖獗とは「悪い物事がはびこり、勢いを増すこと、猛威をふるうこと」の意であり、当時「スペイン・インフルエンザ」に関わる新聞見出しの定番でした。

安房高女校友会雑誌(大正8年)より

安房高女校友会雑誌(大正8年)より

大正7年の秋に入るや我國各地方に悪性の感冒流行し死者頗多し。此病たるや當に我國のみならず歐洲を始め各國に流行するが故に世界感冒(せかいかぜ)の名さへ負はせて之を恐るゝこと一方ならず。本縣にては先づ東京に近き方面より入り來り次第に各地に蔓延し猖獗を極めたり。我房州はその侵入比較的遅く10月末頃より患者の續出を見るに至りしが、本校にては11月上旬まで格別にそれらしき患者もあらざりしに、11日の運動會過ぎて後、生徒の缺席著しく增加し其缺席者は流行性感冒に罹りしもの多數を占めたり。是に於て極力豫防を圖り衛生上の注意怠らざりしか其傳染力は非常に迅速にして11月13日には缺席生徒10名なりしが、18日には56名となり、翌19日には生徒64名職員2名の缺席を見るに至り、かくては全校生徒職員に及ぼさんと無きにあらず又社會衛生上より見るも適宜の豫防策を講ずべきの必要に迫りしかば、11月20日午後より斷然臨時休校する事に決したり

 1週間の休校中に職員が校内を消毒し、再開後しばらく欠席者が多く続いたものの、1ヶ月ぐらいで平常に戻ったようです。その間、精勤者が著しく少なくなったうえに、満足な授業もできなかったので、年度の成績に多大な影響があったとも記されています。ただ、生徒には1名の死亡もなく不幸中の幸いであったと報告では締めくくられています。

 当時の新聞は、10月下旬になって世界各地の大流行の状況を記事にし、「世界的感冒」を伝えるとともに本格的に東京や地方の流行、学校や軍隊での罹患の広がりを報道していきました。そのなかで行政当局も動き出し、安房高女資料には「北条警察署から流行性感冒に罹りたる生徒幾人ありやと電話にて尋ね越したり」「郡役所ヨリ流行性感冒ニツキテノ注意要項通牒シ越シタルニツキ生徒一般へ告知セリ」という記載をみることができます。

 未知の感染症には、確固たる予防法や治療法がありませんでした。瞬く間に「スペイン・インフルエンザ」は全国に広がり、第一波では11月に死亡者数のピークを迎えましたが、年末には小康状態となり、千葉県では罹患者が約18万人、死亡者は640余名となっています。

 1919(大正8)年12月から翌年3月にかけて第二波がはじまり、安房高女の新年最初の職員会では「流行性感冒豫防注意」を協議して、翌日には生徒向けに校医の講話「流行性感冒豫防ノ注意」を開催しました。1月16日には、「流行性感冒豫防ノ為メ生徒ニ成ルベク『マスク』ヲ使用スル様」にという呼びかけから、すぐに「生徒ハ口覆器ヲ必ズ使用スルコトヲ命ズ」という強い伝達に変わっています。この時期、欠席が20余名(うち感冒10名前後)と増え、1月23日には校医が生徒や職員、その家族に第1回目の「豫防ワクチンノ注射」、5日後には第2回目の注射が実施されました。第3回目は「家庭ノ意見モ聞カシメテ志望者ノミ」となっています。

 日誌で注目されるのが「教場内ニテハ特別ノ授業ノ外必ズ呼吸保護ヲ使用セシムル如ク注意スルコト」であり、冬場であっても教室の換気を促していることです。

 また、学校行事などについては、「新聞記者ヨリ学藝会及父兄会ノコトニツキ問合セ来リタレバ流行性感冒ノ為ニ公開セズ單ニ学校内ニテ開ク旨ヲ行フ」とし、大勢の人が集まる機会を制限しています。

 罹患が下火になったのか、2月16日になると、「ますくヲ学校内ニテ強制的ニ使用スルコトヲ止ムル旨ヲ生徒ニ通告ス 但シ汽車通学生ハ車内ニテハ必ズ使用セシム」

 とマスク使用を緩和したものの、3月に入ると「生徒中ニ流行感冒ニ罹レルモノ増加シ本日ノ欠席33名ニ達セリ」とあります。再び増加したなかで、学校長は午前授業を短縮するたけでなく午後は休業とし、急遽「マスクヲ用ヒ含漱ヲ勵行スルコト」を指示しています。含漱とは「うがい」です。その後に生徒の欠席が少なくなったようで、日誌には「流行性感冒」に関わる事項がありません。罹患が急速に下火となり、安房高女の第二波は収束し、年度が終了したと思われます。

「流感豫防注射からの變事件」の見出しが躍る大阪朝日新聞の紙面(1920年1月17日)

「流感豫防注射からの變事件」の見出しが躍る大阪朝日新聞の紙面(1920年1月17日)

 1920(大正9)年1月、東京ではスペイン・インフルエンザの第二波が猛威を振るい、死者数が激増して「地獄の3週間」と呼ばれました。新聞紙上には予防や治療の記事があふれたものの、基本的な対策は「マスク」「うがい」「手洗い」「人ごみを避ける」以外にはなかったようです。

 安房高女でも、急性期には休校しながら、感染拡大を防ぐため、「密閉・密集・密接」を避けるよう伝達指導したのでしょう。こうして、2年半におよぶ嵐のようなパンデミックは過ぎ去りました。

 科学技術が進歩しても、逆にそこから生まれる未知の病もあり、どんな時代でも決定的な対処法は困難なようです。先人たちがどのように災禍と向き合い、対処してきたのか。歴史の記録から学び、私たちも今の危機的状況を乗り越え、未来に教訓を残していきたいものです。


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