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「館山まるごと博物館」バックナンバー

0132022.05.24UP日韓友情の証(1)-大巌院のハングル「四面石塔」-

大巌院と開祖・雄誉霊巌上人

 館山市大網の浄土宗寺院・仏法山大巌院は、安房国主・里見忠義が寺領を寄進し、雄誉霊巌上人によって1603(慶長8)年に創建されました。檀林といって僧侶の学校であり、経典を印刷した版木など貴重な文化遺産が多くのこされています。本殿は朱や青など丹青の装飾に彩られ、東側の窓は蓮池の図、西側の窓は釈迦図が、まるで教会のような美しいステンドグラスになっています。

大巌院(山門)

大巌院


ステンドグラス東面(大巌院本堂)

ステンドグラス西面(大巌院本堂)


 大巌院の開祖である雄誉霊巌上人は、徳川将軍家と直接の関わりがあり、幕府の宗教政策上で重要な役割を果たした僧侶です。その出自は、1544年に今川氏一族である沼津氏勝の三男として駿河国沼津に生まれ、10歳で出家しました。若くして千葉大巌寺3世となり、その後、房総を中心に江戸湾沿岸から関西への海上交易ルートに関わる地域で、海上交易や漁業に従事する民衆などに布教活動をすすめ、数多くの寺院を建立したといわれています。

雄誉上人坐像(大巌院蔵)

 また、江戸の旗本や諸侯に招かれることが多くなり、そのたびに群衆が集うため、伝道拠点を設けることとなりました。熱心な信者たちが土石を持ち寄り、葦原の沼地を埋め立てて、1624年に霊巌寺が開かれました。江戸城の真正面に位置するその地は、寺の名に由来して「霊巌島」と命名されました。江戸初期の都市計画として湿地帯が埋め立てられて、大川(隅田川)が整備され、佃島・越中島・霊巌島などの出島が造られました。なかでも霊巌島は海上交易の湊となり、房州館山からは押送船で江戸前の魚を輸送し、江戸からは文化人がやってきました。明暦の大火で霊巌寺は焼失し、深川に移転し現存しています。現在の茅場町周辺(中央区新川)には、交差点の標識や橋の名に「霊巌島」とか「霊巌橋」と書かれ、その名残をとどめています。

 さらに雄誉上人は、京都知恩院の第32世となりました。3代将軍家光の庇護のもと、大火後の知恩院再建に尽力し、山門や御影堂、日本一の大梵鐘を再建しており、浄土宗中興の祖といわれています。全国に3,000人を超す弟子をもち、熱心な信者に支えられた高僧で、各地に多くの寺院を建てています。民衆は雄誉上人そのものを信仰の対象としていたといわれ、今でも上人直筆の名号や一枚起請文が数多く残されています。


京都・知恩院(山門)

京都・知恩院(大鐘楼)


四面石塔の謎

 大巌院の境内には、「四面石塔」と呼ばれる千葉県指定有形文化財があります。高さ2メートルを超える伊豆石で、江戸城の築城などに用いられた大変貴重な安山岩質の石材です。東西南北の各面に、朝鮮ハングル・中国篆字・和風漢字・印度梵字(サンスクリット)で「南無阿弥陀仏」と刻字されています。石塔の四面にそれぞれ水向けが施されていることから、すべてが正面であり、世界平等を表わしていると考えられます。
 南面の和風漢字の両側には、「門門不同八万四 為滅無明果業因 利剣即是弥陀号 一声称念罪皆除」と讃偈(経文)が刻まれています。その意味は、「いかに法門が多いとしても人間の果業を明らかにさせることが難しいので、それを克服しようとすれば、ただちに『南無阿弥陀仏』を一声唱えれば罪みな除かれる」と解釈され、人の苦しみを和らげる経文だといいます。

四面石塔(大巌院)

ハングル四面石塔


 北面の梵字の左側には「干時元和十年三月十四日房州山下大網村大巖院檀蓮社雄誉(花押)」とあり、元和10(1624)年に雄誉上人が大巌院に石塔を建立したことが分かります。実際には、同年2月30日付けで元和から寛永に改元されているため、3月14日の日付には謎がのこります。
 一方、同じ北面の右側には「寄進水向施主山村茂兵建誉超西信士栄寿信女為之逆修」とあり、水向を寄進した施主は山村茂兵であり、逆修のためとして夫婦の戒名が刻まれています。逆修とは、生前に自分の法要をおこない戒名を授かることと、逆縁で亡くなった若い者の冥福を祈ることという2つの意味があります。
 歴史背景をみてみると、建立された1624年は、秀吉の朝鮮侵略(文禄の役)から33年目にあたり、拉致した朝鮮人を帰国する外交事業(第3回朝鮮通信使兼刷還使)がおこなわれています。四面石塔のハングル面は東を向いており、日の出を浴びた文字は朝鮮やかに輝きます。

 たとえば仮説として、山村茂兵は拉致された朝鮮人である仮定するなら、自らは帰国できることとなったが、同胞戦没者の三十三回忌法要と平和祈願をこめ、雄誉上人に建立を依頼したのではないかと考えられます。また、「建誉超西信士」という戒名をよく見ると、日本から西側の海(日本海・東海)を超えたところは朝鮮であり、超西の音も朝鮮と似ていることなどを示唆している可能性が挙げられます。
 最もふしぎなことは、石塔に刻まれたハングルが建立当時の朝鮮ではすでに使われていない創制初期の「東国正韻式」という字形だということです。そもそもハングルとは、15世紀に李氏朝鮮の第4代国王・世宗(セジョン)によって公布された「訓民正音」という文字ですが、その字形はまもなく改変されています。現代の韓国にも、この古い字形が刻まれた碑は存在していないため、もしこの石塔が韓国にあれば国宝級の価値があるだろうと、韓国の研究者はいいます。


朝鮮通信使と大巌院

山号扁額(雄誉上人筆)

 本堂入口に、「大巌院」と書かれた立派な扁額が掲げられています。雄誉上人が自らの直筆ですが、宝珠様式といって、皇族など位の高い方が書くことを許されていた書体のようです。
 後年、弟子が記した伝記には『大巌院額の事』という記録があり、いかに素晴らしい書であるかがわかります。さらに、大巌院に立ち寄った唐人(朝鮮人)はこの額をしばらく眺めた後、雄誉上人の行跡を尋ね、「現身の仏陀なりと嘆徳」したと記されています。


 日韓交流史をひもとく上で、朝鮮通信使の正史には館山訪問の記録はありませんが、その可能性を示唆する記録として注目されており、1636年の第4回朝鮮通信使のときだと推察されています。
 1636年は知恩院の大梵鐘が完成した年であり、まだ京都にいた雄誉上人が江戸に戻ったのは1638年のことです。しかし、江戸の霊巌寺が創建されたのは、四面石塔の建立と同じ1624年であり、朝鮮通信使が来日した年でもあり、霊巌寺が通信使の宿坊となった可能性も高く、雄誉上人は朝鮮通信使と交流していたことも考えられます。
 史料も少なく、謎の多い地域資源ですが、現代に通じる「善隣友好と平和」を学ぶ魅力的な館山遺産といえます。


館山から善隣友好で新たな未来を

見学会ガイド(四面石塔)

 日本と韓国は隣国でありながら複雑な歴史を繰り返してきましたが、2002年は「日中韓国民交流年」として、人的交流・文化交流が促進されました。なかでも、サッカー・ワールドカップが日韓共催で開かれたことは記念すべきことでした。

 同年、館山では、日韓歴史教育交流会館山シンポジウムと日韓歴史交流シンポジウムを開催しました。韓国東国大学校人文科学大学の張榮吉(チャンヨンギル)教授による初期ハングル表記に関する講演や、研究者たちによるディスカッションがおこなわれました。さらに、大巌院では、韓国の伝統舞踊が披露されました。

雄誉霊巌上人の墓(大巌院)

 2005年は「日韓友情年」と定め、各地で様々な取り組みがおこなわれるなか、館山では日韓子ども交流を開催しました。日韓教育実践研究会の石渡延男顧問より紹介を受け、韓国の浦項製鉄西初等学校の児童20名・引率教師4名・通訳2名が来日し、館山では10組のホストファミリーがホームステイを受け入れました。
 奇しくもこの年は「竹島(独島)領土問題」が勃発し、全国で交流事業の中止や延期が相次ぎ、私たちも開催困難かと思われました。日本との交流を快く思わない教師たちもいたようですが、「こういう時期だからこそ、両国の相互理解を深めるためにも、肌で実感する交流体験を子どもたちに館山で味合わせたい」と、担当の金順福(キムスンボク)先生の熱意で意義深い交流が実現できました。
 館山の戦争遺跡や里見氏城跡はじめ日韓交流史跡をめぐり、音楽や茶道の文化交流をおこない、大巌院の本堂では寺子屋を開きました。歴史から何を学び、どんな未来を作りたいか、両国の子どもたちがお互いに語り合い、友情を育んだことは大きな体験となりました。


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