房総半島南端の館山市布良(めら)は、房総開拓神・天富命(アメノトミノミコト)が上陸したとされる神話の里です。阿由戸の浜には女神山・男神山がそびえ、水平線上には伊豆大島・利島・新島…と島影が並びます。天富命を祭神とする布良崎神社では、2つの鳥居の間から霊峰富士を拝むことができます。この景観は多くの画家を惹きつけ、この地からたくさんの名画が誕生しています。
布良はマグロはえ縄発祥の漁村として江戸期から栄え、明治初期には布良型改良漁船の建造に成功し、その名を全国に知られるようになりました。青森県大間の漁師さんたちも、「マグロ漁は布良から教わった」と言っているそうです。
厳しい冬季の沖泊まり漁は眠気と寒さの闘いで、励まし合うために歌われた舟歌が「安房節」です。危険な漁は水難事故が絶えず、冬になると真南の水平線上に赤く輝く星(カノープス)は、亡くなった布良の漁師の魂であるとされ、全国で「布良星」と呼ばれています。
しかし近年は水産業の衰退に伴い、少子高齢・過疎化が進み、館山市立富崎小学校は閉校となってしまいました。
そこで、富崎地区(布良と相浜)コミュニティ委員会とNPO法人安房文化遺産フォーラムは、2005年から協働してまちづくり活動を始めました。
古くから多くの画家が来遊し名画を描いたことから、布良は「美術界の聖地」とも呼ばれています。今年のゴールデンウィーク10連休には、旧富崎小学校の校舎を活用し、「海とアートの学校まるごと美術館」を開催します。布良の海を愛した画家たち(青木繁・寺崎武男・倉田白羊)の複製画や原画を展示し、地域の魅力や誇りを再発見する企画です。
1904(明治37)年夏、東京美術学校(現東京芸術大学)を卒業した青木繁は、友人の坂本繁二郎・森田恒友、恋人の福田たねらと布良を訪れ、40日にわたり小谷家に滞在しました。神話に造詣の深かった青木は、海や神話をテーマに多くの作品を描きました。なかでも、西洋画として日本最初の重要文化財となった『海の幸』は、布良崎神社の神輿がイメージソースとなって描かれたと考えられています。もう1作の重要文化財である『わだつみのいろこの宮』は、布良の潜水体験から構想し3年がかりで完成したと書き残しています。
多くの画家に影響を与え、28歳で早逝した青木繁の没後50年に、阿由戸の浜を見下ろす高台に「海の幸」記念碑が建立されました。設計した生田勉は、ル・コルビジェを日本に紹介した建築家です。国有地にあったため、一時は解体されそうになりましたが、住民運動により保存され、現在に至っています。
2008年には地域活性化を目ざして、「青木繁《海の幸》誕生の家と記念碑を保存する会」を設立し、NPO法人安房文化遺産フォーラムが事務局を担っています。小谷家住宅の保存・活用に賛同した全国の著名な画家の皆さんも、NPO法人青木繁「海の幸」会を設立し、チャリティ展覧会や館山市ふるさと納税を通じてともに保存基金を集めました。
2016年春、修復を終えた小谷家住宅は、青木繁「海の幸」記念館としてオープンしました。市民ボランティアによる民間運営のため、公開日は毎週土・日曜日ですが、平日でも事前の団体予約で見学を受け付けています。
同館では、代表作『海の幸』『わだつみのいろこの宮』『海』『海景(布良の海)』『朝日』の迫力ある複製画を堪能できます。製作者の島田吉廣氏(布良在住)は、原画に忠実な色彩を再現できる日本屈指の印刷技術者です。
GW期間中は「海とアートの学校まるごと美術館」の会場(旧富崎小学校)に展示されます。
青木繁より3年遅れて、1907(明治40)年に東京美術学校を卒業した寺崎武男は、農商務省実業講習生としてイタリアに留学し、フレスコ画やテンペラ画、エッチングなどの多彩な技法を学びました。版画家の山本鼎らと日本創作版画協会を設立するとともに、壁画・版画・テンペラ・エッチング・水彩画・油彩画など様々な技法を研究し、日本美術史に大きな影響を与えました。
1930(昭和5)年には、日本人初のヴェニス・ビエンナーレ国際展に入賞しました。1949(昭和24)年に法隆寺の金堂壁画が焼失したために国宝の輪堂に壁画を描き、明治神宮の聖徳記念絵画館には『軍人勅諭下賜ノ図』が収蔵されています。
先に移住していた彫刻家・長沼守敬(ながぬまもりよし)を慕って館山を訪れるうち気に入って別荘を建て、スケッチに来遊し、その後館山に定住。戦後は、旧安房第一高校(現安房高校)の美術講師として、館山の若者たちに芸術の大切さ伝えました。
安房開拓神話に惹かれ、安房神社や諏訪神社(館山市波左間)、下立松原神社(南房総市白浜町)などに多くの神話作品を残し、とくに布良崎神社(館山市布良)には鳥居型に額装した『天富命と忌部一族の布良上陸』や『素戔嗚尊(スサノオノミコト)』などが奉納されています。
このたびご遺族から多数の作品を寄贈されたので、「海とアートの学校まるごと美術館」では、神話シリーズのほか戦争と平和など約40点を公開します。また、スケッチなども描いてある手帳には、青木繁や横山大観などに関わる記述もあり、調査を進めています。東西の文化の融合を願い、画材や技法をち密に研究し、精力的に作品を制作していた様子が明らかになってきています。
日本近代洋画の先駆者・浅井忠の親戚にあたり、早くから指導を受け、1901(明治34)年に東京美術学校を卒業しました。学生時代より房総を来遊し、1910(明治43)年、写生旅行中に根本村(南房総市白浜町)の小谷英子(こだにひでこ)と出会い、結婚しました。館山に居住し、富崎小学校はじめ安房の児童自由画教育に尽力し、千葉師範学校(現千葉大学教育学部)でも研究会を開催しました。
1922(大正11)年、自由画教育の先駆者である山本鼎(かなえ)に招かれて長野県上田市に移住し、日本農民美術研究所の副所長として活躍しています。その後も、全国で自由画教育を実践しました。今でも佐倉市立美術館には、倉田の指導した児童たちの自由画作品が収集されています。
また、森田恒友や山本鼎、坂本繁二郎らが発行していた美術雑誌『方寸』第5号では、倉田夫婦が青木繁追悼特集の編集にあたりました。妻の英子にとっては、となり村の布良で、旧姓と同じ小谷家に滞在した青木繁は、少なからず縁深く感じたに違いありません。
英子の兄は、米国モントレー湾域に渡ったアワビ漁師の小谷源之助・仲治郎です。仲治郎の旧宅(南房総市千倉町)には、倉田の描いた襖絵が残されており、今回の学校まるごと美術館で公開します。
Copyright (C) 2009 ECO NAVI -EIC NET ECO LIFE-. All rights reserved.