早春の南房総は、菜の花、水仙、金魚草、ストック、キンセンカ、百日草など、色あざやかな花畑が広がります。けれども戦争のときには花を作ることが禁じられ、花の苗は引き抜かれ、種や球根は焼き棄てられました。美しい花々にも、戦争の悲しみを乗りこえてきた歴史があるのです。
太平洋に面した和田町(南房総市)は、海からすぐに山がせまり、平らな土地が少ないため、漁業と林業を中心に暮らしていました。男の人は漁に出て、女の人はわずかな畑を耕したり海女として海に潜ったり、重いかごを担いで魚の荷揚げを手伝ったりしていました。子どもたちも、小さな弟や妹の子守をしながら、浜でワカメやテングサを拾う手伝いをしていました。
和田町の間宮七郎平は苦学して薬剤師になり、朝鮮にわたって薬草の研究もしてきました。はじめは薬になるケシや菊などを自宅の裏で育ててみました。耕作地の少ない和田町では、それまで綿花や麦しか作れなかったのですが、海に面して日当たりのいい段々畑は花作りに適していて、他所より早く出荷できるのではないかと、七郎平は考えました。
村の人たちは「食えない花を育ててもしょうがない」と笑っていましたが、近くに住む川名リンは一緒に花作りを始めました。苦労の末、1922(大正11)年に花の出荷は成功し、寒菊が1俵3円、キンセンカに5円の値がつきました。男の木こり仕事で1日50銭、小学校の先生の初任給が50円という時代のことです。
次第に村人たちも花を作るようになりました。冬でも色鮮やかな絨毯を敷いたように、美しい花々が咲きました。その年の暮れに鉄道が開通すると、花かごを背負って東京まで売りに行くようになりました。
翌年には関東大震災が起きて東京は焼け野原となり、一時は鉄道も止まりました。しばらくすると、震災慰霊祭のために花の注文が急増しました。再び花作りを志す青年が増え、和田町花園地区だけでも栽培面積は22ヘクタールになりました。生花組合を設立し、東京近郊だけでなく東北や北海道へと生花3万俵を出荷するほどになりました。
1931(昭和6)年から日中戦争が始まり、「ぜいたくは敵!」として日用品も制限されるようになりました。塩や醤油、味噌などの調味料も配給制になり、米が少なくなると芋や大豆をつぶして食べるしかありませんでした。
1941(昭和16)年の真珠湾攻撃を機にアジア太平洋戦争が始まり、和田町でも徴兵により戦地に行く人が増えてきました。漁師たちは、発動機のついた漁船が軍隊の徴用に取られ、魚を獲ることもできなくなりました。海に潜る海女さんたちは、アワビやサザエの代わりに、火薬の原料になるカジメやアラメなどの海藻を採取するように命じられました。となりの館山町(館山市)には、昭和電工という火薬工場もありました。
また、館山湾に多く生息しているウミホタルは、子どもたちに採取が命じられていました。乾燥してすりつぶして粉にしておいて、また濡らすと光るのです。暗闇の中で作戦会議の文字が読めたり、夜間戦で敵味方を判別できたり、照明弾にして敵艦を浮かび上がらせたりと、研究がすすめられました。
戦線拡大に伴い、戦意高揚のため盛大な葬儀がおこなわれ、花の需要が増加しました。寒菊・キンセンカ・ストックなどが作付けされ、栽培面積は450ヘクタール、40万俵を出荷するまでになりました。
しかし徐々に戦況の悪化に伴って食糧物資が不足しはじめ、食糧増産が最優先となり、農産物の作付割当が強制されることになりました。とくに千葉県と長野県では、花卉が禁止作物に指定され、花農家は壊滅的な打撃を受けました。花畑は苗を抜きとってイモ畑や麦畑につくりかえ、花の種も球根もすべて焼却しなさいという命令です。村の青年団が畑や納屋を見まわって監視し、花の種を持っている農民を処罰するようになりました。軍の命令に従わない者や戦争に反対する者は「非国民」「国賊」などと呼ばれて、冷たい目で見られるような密告社会になってしまったのです。
絨毯のように美しかった段々畑は、すっかり花が抜かれ、なぎ倒されてしまいました。泣く泣く種や球根を海にすてた人もいました。七郎平も国の命令にはさからえず、大切に育ててきた花々を抜きとったといいます。
けれども、花を愛するリンはどうしても命令に従うことができません。掘り出した水仙の球根を棄てるふりをして、人目につかない山奥の杉林にこっそりと隠しました。それが精いっぱいの抵抗だったのです。
サイパン島や硫黄島の日本軍が全滅しました。1945(昭和20)年4月には沖縄本島にアメリカ軍が上陸し、地上戦となりました。次はこの房総半島が「本土決戦」の場になるといわれ、7万人の兵士が配置されて、次々と陣地や特攻基地が作られていきました。兵器のない特攻要員は肉弾戦にそなえて、隠れて待機するための塹壕や蛸壺を掘りました。女も子どもも竹槍を持って戦う訓練をしました。花のなくなった段々畑には、敵の標的になるようなニセ陣地も作られました。
その年の8月15日、長く苦しかった戦争がようやく終わりました。季節が移り冬になると、リンが球根を隠した山奥の杉林には、一面にスイセンの花が咲きました。そこは土が深く、ふかふかとした布団のようだったので、球根が根をおろし生きのびることができたのです。
ほかにも、食べものと偽って種をナベに隠していた人もいました。残らず絶えたと思われた球根や種は、花を愛する人びとによって守られ、再び花作りがはじまりました。リンの台帳には、「1947(昭和22)年1月25日、エリカ16束、小菊110本」という記録があります。戦後まもなくから、花は毎日のように東京で売れていきました。
リンはいつも「花は食べることはできないけれど、口で食べるものだけが食べものではない。心で食べるものがなくなってしまったら、心は生きてゆけなくなってしまう」と言っていました。リンの子どもたちは「花づくりは平和産業だ」と考え、花が作れなくなるような戦争が二度とないようにと願いをこめて、出荷用のダンボール箱に「花は心の食べ物です」と印刷しています。今も和田町をはじめ南房総には美しい花畑が広がり、人びとの心に安らぎを与えています。
「平和の文化」を守ったこれらの実話は、和田小学校社会科研究部が発行した記念誌『間宮七郎平と和田の花』や田宮寅彦の小説『花』、映画『花物語』となり、語り継がれています。また、平和を願ううたごえ運動のなかでも、郷土の音楽物語『花とふるさと』や合唱組曲『ウミホタル~コスモブルーは平和の色』が生まれ、多くの人の生きる力になっています。
七郎平が開拓し、花木を植えた場所は抱湖園と呼ばれ、市民の憩いの場として観光客にも人気があります。近くには、七郎平の偉業を讃えた功労碑が建てられています。
リンさんのエピソードは心がふるえます。映画などを通じて子供たちに語り継いでいただきたい話です。
(2024.01.10)
とても勉強になった
(2023.10.24)
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