毎年夏になり終戦記念日が近づくと、平和祈念番組の取材協力を依頼されます。今年は『落語家たちの戦争』という特別番組で、二代目林家三平師匠が館山を訪れ、私が戦争遺跡を案内しました。父上である初代林家三平は、戦争末期の本土決戦に備えた特攻要員として、九十九里浜で蛸壺や塹壕を掘っていたそうです。
特攻要員とは、資材不足で特攻兵器がなくなり、蛸壺や塹壕で身を隠して待機し、敵が上陸してきたら爆薬を抱えて突撃する攻撃隊のことです。沖縄戦終結から1週間後の1945年6月29日に、軍極秘資料『沖縄作戦の教訓』が発行されました。この教訓をどこで活かすのかといえば、まさに房総半島だったのです。この資料のなかに、「肉攻」作戦と書かれているのが特攻要員のことです。なんとも悲しい表現ですね。
番組は、2019年8月12日(月)正午からBSフジで放送されました。
幕末から台場が置かれた館山は、明治期から昭和初期にかけて「東京湾要塞」と位置づけられ、近代的な砲台が設置されました。関東大震災の壊滅を経てなお、館山海軍航空隊などの軍事拠点が開かれ、重要な軍都となっていきました。戦争末期には本土決戦にそなえて、特攻艇「震洋」・人間魚雷「回天」・人間ロケット「桜花」などの特攻基地も作られました。
千葉県と沖縄県を同じ縮尺で並べると、南北の距離がほぼ同じです。沖縄南部戦線には約11万の日本兵が送り込まれ、房総南部には約7万の兵士が配備されました。敵上陸を阻止するための頑強な陣地や塹壕、砲台などが次々と構築されました。
なかでも128高地と呼ばれた砲台山の中腹にある地下壕内には、「戦闘指揮所」「作戦室」の文字が浮き彫りになったコンクリート製の額や、天井に彫られた龍のレリーフ、敵を迎え撃つ銃眼などが今なお残っています。額には「昭和19年12月竣工」「中島分隊」と記され、本土決戦にそなえた抵抗拠点だとわかります。
1945年の「本土決戦の作戦配備計画(安房地区)」図面を見ると、外房沿岸にかけて「偽陣地」と記された印が目につきます。農民たちにも本物と思わせて「偽」の陣地を作らせ、敵の艦砲射撃を集中させて決戦部隊を温存させる水際作戦です。このために、住民を国民義勇戦闘隊に組織し、「偽」陣地の「偽」兵士として投入する計画があったといいます。戦争とは、兵隊が住民をまもるのではなく、住民が盾になるということなのですね。
1941年、食糧増産のため千葉県は「花作り禁止令」が出され、花の球根や種子は焼却されました。花畑はイモ畑や麦畑に変えられ、青年団による監視が敷かれました。命令に従わない花農家は「非国民」と呼ばれて処罰されるという密告社会構造でした。
そんななか、「花は心の食べ物」と考えていた一部の勇気ある農民たちは、人里離れた山奥に種苗をそっと隠しました。ささやかな抵抗でしたが、そのおかげで戦後の花作りがすぐ再開されたのです。敗戦直後、東京の市場で花が大量に売れました。不思議に思った花農家が尋ねると、帰れなかった兵士の供養祭だったようです。
この逸話にもとづき、田宮虎彦が小説『花』を著し、高橋惠子主演の『花物語』として映画化されました。千葉県のうたごえ運動から郷土の音楽物語『花とふるさと』が誕生し、全国に歌い継がれています。
房総沿岸の各地には、韓国済州島から戦前より出稼ぎに来ていた海女たちが住んでいました。慣れない異国で苦労しながらも、地元の房総海女と一緒に夏は海に潜り、冬は花を作りながら共生していました。
1941年8月、千葉県では海女たちにカジメ採取の命令が出されました。カジメやアラメなどの海藻を焼いてできるヨード灰(ケルプ)は、火薬の原料となる塩化カリを多量に含み、重要な軍事物資だったのです。この期間、アワビ獲りは一切禁止され、違反者は厳しく処分されました。乾燥した海藻の供出先は、ヨード製造で陸海軍から指定されていた昭和電工株式会社の館山工場と興津工場でした。
1943年の新聞報道には「全国の漁民を総動員して海藻採取の大運動を」、1944年には「カジメ・アラメ・ホンダワラ等の海藻は、決戦下の化学兵器だ。…一斉に『兵器海藻』採取に全力を」という記事が見られます。こうして漁民たちも戦争に巻き込まれていきました。
今は、栄養価の高いネバネバ食品として人気です。
下の旧制安房中学校(現千葉県立安房高校)の勤労動員作業日誌には、「海蛍採取」の記載が見られます。
ウミホタルとは、楕円形の甲殻をもつ3mmほどの介形虫で、海底の砂地に生息しています。体を発光させるホタルや夜光虫とは異なり、体細胞中にある発光性物質と酵素が水分と反応し、青白く美しい発光現象が起きるのです。軍は、子どもたちに採取させたウミホタルを乾燥して粉にして、再び水分を含ませて再発光させる研究開発を進めました。懐中電灯の代用照明や、夜間のゲリラ戦にそなえて敵味方を判別する夜光塗料、さらには夜間の特攻作戦で体当たりする敵艦船を目標に定めるための照明弾などを考えたようです。
「戦後60年」の節目となる2005年、合唱組曲『ウミホタル?コスモブルーは平和の色』が誕生し、160人の大合唱団で初演を披露しました。
旧制安房水産学校(現千葉県立館山総合高校)では、1933年に建立された初代校長・笹子治の銅像が金属供出の命令にあったとき、教員らは石膏で型を残しました。拒否はできないけれど、教育への魂だけは残そうというせめてもの抵抗だったのでしょう。戦後になり、同窓会はその型を用いて銅像を再建し、今に至っています。
もとの銅像の製作者は、長崎の平和祈念像の作者として知られる彫刻家の北村西望です。東京美術学校の教師であった北村は、次々と作品が壊され兵器に変えられてしまうことに怒りを覚え、職を辞して銅像救出運動をしていたといいます。芸術への思い、教育への思い、平和への願い…、そうした熱意が長崎の平和祈念像に込められていったのでしょう。それであるなら、熱意ある教師によってその精神がまもられ、戦後再びよみがえった銅像は、館山の平和祈念像といえるのではないでしょうか。
私たちは、地域に根づいた「平和の文化」を語り継ぎ、平和な未来を創造していきたいと望んでいます。
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