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「館山まるごと博物館」バックナンバー

0122022.01.18UP東京養育院安房分院と館山病院の転地療養-渋沢栄一ゆかりの館山の人びと-

はじめに

 近代日本経済と福祉の基礎を築いた渋沢栄一は、生涯で約500企業の創設に関わり、約600の社会公共事業や民間外交に関わったといいます。2021(令和3)年末に放送されたNHK大河ドラマ『青天を衝け』の最終回には、館山にゆかりの深いエピソードが2つありました。
 1つは、日系移民排斥に関わる日米関係委員会とワシントン軍縮会議に出席するため、1921(大正10)年10月から12月にかけて、渋沢が4度目の渡米をしたことです。このとき、81歳の渋沢に侍医として随行したのは、館山病院の医学博士・穂坂与明(ほさかよしはる)でした。
 東京帝国大学医学部の内科講師をしていた穂坂は、半年前の4月、館山病院の初代院長の川名博夫の三女露子と結婚し、後に2代目院長となります。川名の妻とりは、銀座資生堂創業者・福原有信の長女であり、その妹美枝は渋沢栄一の三男武之助に嫁いでいるため、穂坂と渋沢は姻戚関係にあたります。
 ニューヨーク滞在中に、ロックフェラー医学研究所員の野口英世が渋沢一行の宿舎を表敬訪問し、面会したことが私家本『穂坂与明伝』に記されています。東京の穂坂家には、渡米時に使用したトランクケースとシルクハットが今も残っています。

渋沢栄一と館山病院をめぐる家系図

渋沢栄一と館山病院をめぐる家系図

渋沢栄一渡米団(1921年)

渋沢栄一渡米団(1921年)

穂坂与明のトランクとシルクハット

穂坂与明のトランクとシルクハット


 もう1つは、生活困窮者や障害者、身寄りのない子どもや老人などを救済するために設立された東京養育院のことです。なかでも、東京養育院安房分院は、虚弱児童の療養施設として船形町(現館山市船形)に開設され、現在は東京都船形学園として承継されています。
 当時、結核で死亡する児童が多かったため、渋沢は養育院の医長であった入沢達吉博士に予防方法を相談したところ、海浜に保養所を設立することが最も有効だと進言されました。1900(明治33)年に勝山町(現鋸南町)で房州保養所を試験的に開き、良好な健康改善が認められたため、1909(明治42)年に現在地へ移り正式に安房分院となりました。
 入沢と川名は東京帝国大学医学部の同級生であり、ともにベルツ博士【注1】の薫陶を受け、結核の研究者でした。安房分院が当地に開かれた背景には、渋沢と縁戚にあたる川名が館山病院長であったことも要因として考えられます。穂坂の結婚を勧めたのも入沢であり、渋沢の渡米時に侍医として推薦したのも入沢であったかもしれません。

東京養育院安房分院の磨崖碑

 渋沢は、1909(明治42)年に企業や諸団体の役職を辞任し、実質的に経済界から引退しましたが、東京養育院の仕事はライフワークとして生涯取り組んでいました。『青天を衝け』最終回でも、高齢となった渋沢夫妻が養老院の子どもたちを訪ねる場面がありました。妻の渋沢兼子は養育院婦人慈善会の会長を務めており、安房分院の開設時にもバザーで基金を募って、東京市会の議決で用意された1,500坪の土地の隣接地を購入し寄付したといいます。

東京養育院安房分院(絵葉書)

東京養育院安房分院(絵葉書)

東京養育院安房分院(全景)

東京養育院安房分院(全景)


 安房分院の敷地内には、高さ10m×幅6mという巨大な「磨崖碑」があります。一文字の大きさが30㎝四方で安房分院の由来が刻まれており、船形町有志によって1917(大正6)年に竣工されました。撰文は二松学舎創立者で文学博士の三嶋毅(号:中洲)、揮毫は青淵の号を持つ渋沢栄一の書です。岩質のもろい房州石は風化が著しく、判読が難しくなった数文字は1997(平成9)年に補修されています。
 1923(大正12)年の関東大震災で、旧船形町は93.7%の家屋被害があり、安房分院も全壊し、児童10名と職員1名が亡くなりました。子どもたちは東京巣鴨分院に避難しましたが、2年後には施設を再建し安房分院を復旧させました。
 渋沢は高齢にもかかわらず、1927(昭和2)年と1929(昭和4)年の記念会にも出席し、「天恵豊かな船形で、地元有志の熱心な援助により、児童が健やかに生育しつつある状態を見ることは真に喜びとするところ」と述べています。分院に近い船形漁港前に、水産業発展に尽力した船形町長・正木清一郎の胸像があります。開設当初より安房分院の重要な支援者であり、深い交流を育んだことから、渋沢の揮毫でその名が刻まれています。

磨崖碑

磨崖碑

磨崖碑(碑文)

磨崖碑(碑文)


<碑文のあらまし>

 明治維新の後、東京府は、自ら訴えることのない老人などを上野の護国院の土地に収容し擁護した。名付けて養育院という。養育院は、後に棄児を約40年間養育した。その数3万7千余人となる。現在(大正3年)は2千4百人余で、児童が最も多い。思うに養育院の元手は、白河藩主で老中の松平定信が寛政の改革時、江戸町民七分積金制度の蓄積が東京府に引き継がれていたものを充てて創始したものである。これに慈善家の寄付で増やし、養育院長の渋沢栄一男爵が公共のために身を顧みず尽くしてきたものである。規模は年毎に拡げられた。明治33年に身体の極めて弱い者を千葉県船形町に移し養育した。その数百余人である。建物を新築し、勉強ができるところを設けた。名付けて養育院支院という。約十年で子どもたちの多くは若死にを免れることができ、これを聞く者は本当に感心した。東京慈善会(院長夫人が会長)は、この事業を非常に大いに賛成援助した。土地の名望家で土地や金銭を寄贈する人が大変多かった。近頃、男爵が来臨視察され、大変喜ばれ、これからも一層この事業を拡充しようとされ、私を呼んでこれを崖に刻みつけられた。男爵は、そこで文章をつくって言われた。本当に哀しいことに、身寄りがなくて、さらに加えて身体が弱い児たちを同じ仲間としての心をもつ人が、これを養育院と相談し、このため房州の海辺に建物を作った。ここは冬は暖かく、夏は涼しい。病気の者は治癒し、身体の弱い者は強くなる。ここに生活のための仕事を授け、ここで物事の大綱を教える。常にかわいそうに思うべきである。これら多くの児が自立して、恩を思い、救済事業の志を持つ人が出ないと誰が言えようか。

  • 撰文:三島毅(従三位勲二等文学博士)
  • 書:渋沢栄一(従三位勲一等男爵)

(船形学園「磨崖碑概説」看板より)

 余談ですが、デジタル版『渋沢栄一伝記資料』で確認すると、1909(明治42)年5月16日、1917(大正6)年6月9日、1922(大正11)年6月17日に、地元の安房中学(現在の安房高校)で講演会を開催していることがわかります。それぞれ安房分院の開院式、磨崖碑の竣工式、安房分院記念会で来房のついでということのようですが、『安房高校百年史』等の資料からは、渋沢の来校に関する記述も見当たらないのが残念です。

正木清一郎翁寿像

正木清一郎翁寿像

渋沢栄一揮毫(正木清一郎像)

渋沢栄一揮毫(正木清一郎像)


館山病院と穂坂与明

館山病院初代院長・川名博夫

館山病院初代院長・川名博夫

 館山病院は、熱望する住民たちの募金によって、1891(明治24)年に開業しました。初代院長の川名博夫は富浦村(南房総市)に生まれ、1918(大正7)年から18年間、千葉県医師会会長を務めています。兄の川名吉太郎は富浦村長・千葉県議会議員を歴任しており、義兄の古市公威は土木工学の第一人者で帝国大学工科大学長・土木学会長・工学会理事長を務める人物でした。
 岳父の福原有信は松岡村(現館山市)の代々漢方医の家に生まれ、動乱の幕末に幕府医学所で西洋薬学を学び、維新後は海軍病院薬局長となりました。1872(明治5)年に退官して西洋風調剤薬局・銀座資生堂を開業し、日本初の医薬分業を実践しました。長男信一が結核であったため、故郷の館山病院で大気安静療法を実践する川名に長女とりを嫁がせたのかもしれません。


明治末期の館山病院

明治末期の館山病院

館山病院の大気安静療法

館山病院の大気安静療法


館山病院2代院長・穂坂与明

館山病院2代院長・穂坂与明

 東京府京橋区(現在の中央区銀座)出身の穂坂与明は、川名の三女露子と結婚し館山病院副院長に就任したときから、東京と房州の気候に関する種々の要因を比較しながら医学的な調査研究を始めました。医学誌に発表し、後に『房州風土記』として発行された著書には、「房州の気候は東京及びその付近の避暑避寒地に比して遙かに優秀であることを科学的に証明することができた」と記し、「とくに房州の外気は細菌量を比較しても空気が清浄で、結核の予防上重大な役目を果たしており、転地療養に相応しい場所である」と結論づけています。
 安房郡医師会が設立された1919(大正8)年には、鉄道が開通し安房北条駅(現館山駅)が開業しています。『千葉県安房郡誌』の衛生の項には、「近年鉄道の開通と共に、都人士の或は夏季海水浴に、或は冬季避寒てふ名の許に、肺結核患者の滞在せるものある」と記載されています。
 1923(大正12)関東大震災で、旧館山町は家屋被害率99.1%という甚大な被災でした館山病院は80床の病棟が倒壊し、看護職員2名が死亡し、多数の負傷者が出ました。『安房震災誌』には、館山病院について「建物倒潰の厄に遭ったのであるが、傷病者の手当に全力を尽くされ、寝食を忘れて、仁術の実功を挙げられた。而かも月余の間、治療費一銭もとらずに施療した」と記されています。
 翌年3月、福原は復興を見ずに逝去しますが、館山病院は資生堂の出資により20床ほどの病棟が7月に再建されました。私家本『穂坂与明伝』には、「大正十四・五年のころ、結核の治療法として気胸術が全国に先駆けて館山病院で行われている。‥ この気胸療法を日本で最初に試みた人は、東北大学教授故熊谷岱蔵か穂坂与明博士かのいずれである。‥患者の第一号は館山市西岬の人であった。結果は見事に成功をおさめ評判を呼び、館山病院の患者はそのためさらに増えたという」とあります。館山病院のパンフレットには東京案内所として銀座資生堂が記されており、経済界のネットワークを通じて近代的なサナトリウム(結核療養施設)として全国に知られていきました。


館山病院パンフレット(昭和初期)

館山病院パンフレット(昭和初期)

2022年に新築移転の館山病院

2022年に新築移転の館山病院


 2代院長であった穂坂与明の長男で4代院長となる穂坂博明は、1983(昭和58)年発行の館山病院誌『せいわ』のなかで、「この頃の病院の雰囲気もまさにサナトリウムという感じで、現在の第一病棟付近から南側にかけて、池のあるかなり広い公園があった。この池にうなぎを養殖して患者さんの栄養補給にしようという目算で父が東京から買ってきたものであるが、列車の中でうなぎが逃げ出し捕まえるのに大汗をかいたという珍談もある」と当時を振り返っています。
 創立130周年を迎え地域密着型の館山病院は、2022(令和4)年6月に移転オープンにむけ、現在新築中です。新型コロナウイルスが落ち着いたら、多くの皆さんが空気の澄んだ館山へ静養にいらっしゃるのをお待ちしています。

脚注

【注1】エルヴィン・ベルツ博士
 1876(明治9)年、お雇い外国人として東京医学校(現在の東京大学医学部)の教師に招かれ、27年にわたって指導し、日本医学界に大きく貢献したドイツ医師。温泉療法や海水浴療法、大気安静療法などを提唱した。1902(明治35)年、東京大学退官、宮内省侍医を勤める。旭日大綬章を受賞。

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