2018(平成30)年、私たちNPOでは画家・寺崎武男の遺族から多数の作品とともに、膨大な書簡と数十冊の手帳やスケッチ帳等の寄贈を受けました。作品については、エコレポN0.004で既報のとおり、2019(令和元)年GWに「海とアートの学校まるごと美術館」を開催し、館山ゆかりの画家の一人として紹介しました。この様子はYouTubeでも見ることができます【注1】。
それから3年半が過ぎ、資料の分類整理・調査に取り組むことにしました。イタリア語を含むハガキ2,000枚のうち530枚を解読し、手帳やスケッチ帳を解析したところ、国際的に活躍した寺崎家のファミリーヒストリーや壮大なネットワークが見えてきました。そこで、2023(令和5)年春に生誕140年のシンポジウムと資料作品展を開催しました。
1904(明治40)年に東京美術学校を卒業した寺崎武男は、農商務省の実業練習生としてイタリアに留学しました。フレスコ画やテンペラ画・エッチング・壁画・版画など様々な技法を学び、日本に紹介した近代洋画の先駆者です。3回にわたる渡伊でヴェニスを中心にヨーロッパ各国をめぐり、特にルネサンス壁画の描画や保存方法を研究し、東西文化の融合を目ざしました。
1930(昭和5)年に横山大観を中心に開かれた「羅馬開催日本美術展覧会」(イタリア政府主催・大倉喜七郎後援)では、通訳・コーディネーターを務めています。同時期に、観音を描いたテンペラ作品『幻想』は、ヴェニス・ビエンナーレ国際展で日本人初の入賞を果たし、イタリア政府の買上となりました。王立高等商業学校の日本語教師を務め、『日本のことば』などを発行しています。多年の日伊交流に貢献した功績から芸術名誉賞はじめ、イタリア国王や政府からコメンダトーレ賞など多数の勲章を授与されました。
留学初期に『天正遣欧使節』の行跡に出会って感銘を受けました。16世紀に日本から海を渡り、ローマ法皇に謁見して外交を果たしながらも、禁教から鎖国へ向かう時代に翻弄された少年たちの姿を後世に伝えようと、生涯にわたりこのテーマを描き続けました。
一方、日本国内でもフレスコ画『飛鳥朝の夢』が第11回文展で入選したほか、精力的に作品を制作しています。テンペラ画『黄帆船図』は大正天皇の病室に飾られ、崩御後は東京帝室博物館に納められました。創作版画協会やテンペラ画会、壁画協会などの設立に関わり、東京大学病院や日本医師会館、目黒サレジオ教会などに壁画を描きました。
明治神宮奉賛会より絵画館開設準備のために壁画調査を依頼されて再渡欧し、イタリア各地で模写をしながら画材や画質の研究をし、7回の報告書を提出しています。そして、開設された聖徳記念絵画館に『軍人勅諭下賜ノ図』が納められましたが、緻密な構図研究を重ねた様子がスケッチ帳の分析から見られます。
早くから法隆寺の壁画研究に取り組み、防火設備のないことを危惧する論文を大正期に書いています。後に、彼の懸念どおり火災が起きて金堂壁画が焼失してしまった時には、激怒し落胆したといいます。師であり交流のあった法隆寺管主の佐伯定胤上人に懇願し、焼け残った輪堂(旧経堂)に壁画を描く許可を得て、聖徳太子の哲学と人生をテーマにして、9年がかりで輪堂の全壁面を描き上げました。残念ながら現在は公開されていないようです。
海外で高い評価を得て、日本美術史にも大きな影響を与えた寺崎ですが、その画績はあまり知られていない“幻の画家”です。親交のあった三島由紀夫は、「無理解と孤立には少しも煩はされずに、悠々と、晴朗に、芸術家たるの道を闊歩していた。あくまで走らず、跳ばず、悠揚たる散歩の歩度で。氏こそ、真の意味で、芸術家の幸福を味わった人ではなかろうか」と、回顧展にメッセージを寄せています。
館山には、美校の師でありイタリア留学の先輩である彫刻家・長沼守敬【注2】が先に移住していました。彼を慕って訪れるうちに、館山の西ノ浜に別荘を建て、やがて定住しました。房総の神話を数多く描き、安房神社や布良崎神社、下立松原神社などに奉納しています。
大正期に東京女子美術学校洋画科主任を2年務め、戦後には千葉県立安房高校(館山市)の講師となり、先進的な美術教育をおこないました。安房高校では兵藤益男校長の理解ある支援のもと、テラコッタ(土焼)で『自由の女神像』を制作しました。生徒も教職員も「まるで外国のようだ」と驚いたといいます。翌年の校長交代に伴い取り壊しが命じられたものの、懇意にしていた千倉の七浦中学(南房総市)の栗原幸太郎校長の配慮で移設することができ、解体はまぬがれました。しかし数年後、残念なことに側溝工事の重機で破壊されてしまったとのことです。
祖父の寺崎助一郎は幕末に長崎奉行の役人として外国要人の通訳に従事し、儒学者の渡辺崋山と交流があったといいます。影響を受けた武男は崋山について研究し、書籍を著しています。
父の遜は英国留学で学んだ電信技術を全国に広めた人物のひとりで、後に山縣有朋の洋行随員や山縣内閣総理大臣秘書官まで務めましたが、武男の美校入学直前に亡くなっています。
長兄の渡は渡欧留学を経験した林業研究の第一人者で、「寺崎式間伐技術」を考案しました。次兄の熊雄は弁護士になりました。母セツは夫亡きあと、武男の進学・留学を寺崎助一郎支えたゴッドマザーです。セツの実家松澤家からも、金融業・政治家・弁護士、そして一高水泳部から極東金メダリストや五輪監督となった松澤一鶴などを輩出しています。
寺崎の友人もそうそうたる顔ぶれです。城郭研究やルネサンス文化史の第一人者で歴史学者の大類伸。何度もノーベル賞候補にあがった医師であり文展・帝展に7度も入選した画家でもあった呉建。美校の同期で、ロンドンに学んだ南薫造やニューヨークに学んだ平井武雄。フランス文学者で美術研究にも造詣が深く、松方コレクションのアドバイザーとなった成瀬正一…などなど。
こうした家族や友人らと交わした書簡は、互いへの尊敬と芸術への情熱にあふれ、絵画制作や美術研究に影響し合ったであろうと推察され、寺崎のバッグボーンが読み取れます。
寺崎武男は、100年後までも色あせない不朽の絵画を探求しつづけた美術研究者でした。とくにルネサンス壁画を研究した寺崎の作品は、画面の対角線の7倍離れた距離から見ると焦点が合い、奥行きや立体感を感じるといいます。生誕140年展で私たちが注目した代表作を数点紹介いたします。
1つ目の『平和来たる春の女神』は、2m四方の屏風画で、
1946(昭和21)年に制作されました。ようやく戦争が終わり、訪れた平和な春を祝福し、戦没者を慰霊した作品です。舞台は、館山市布良の阿由戸の浜をイメージしたのではないかと推察されます。右手に女神山がそびえ、海の向こうには富士山・天城・大島・利島・新島・式根島‥を眺めることができる神話の里です。隣接する布良崎神社には、房総開拓神アメノトミノミコト(天富命)が忌部一族を率いてこの浜に上陸したという大作が鳥居型の額に納められており、騎馬のスサノオノミコトを描いた掛軸も奉納されています。
2つめの『天照皇大神(アマテラスオオミカミ)永遠の平和』は、まだ戦争が終わっていない1945(昭和20)年8月1日に、平和を願って制作しています。海の向こうに描かれた富士山は館山湾のようですが、当時はヤシの植樹がないので、南方諸島のイメージでしょうか。館山海軍航空隊は、中国への無差別攻撃やハワイ真珠湾攻撃、海軍初の落下傘部隊などの特殊訓練が行われた最前線の基地でした。それらを目の当たりにしてきた寺崎は、滞欧中の第一次世界大戦の体験が重なり、平和な社会をより強く願ったのではないかと思われます。
3つめの『館山に敵入る』は、天守閣様式の城を描いた軸装で、制作日は敗戦直後の1945(昭和20)年9月1日です。館山では、前日の8月31日に米占領軍の先遣隊235名が上陸し、物騒な事件が多発していました。寺崎が住んでいた館山市西ノ浜は、館山海軍航空隊と城山(館山城跡)の中間なので、占領軍の兵士を目撃したと思われます。もともと山城で天守閣はなかった城山は、戦時下には砲台山でした。翌々日には本土で唯一「直接軍政」【注3】が敷かれるという物々しさのなかで、画家として占領軍上陸の写実を描けないまでも、中世城郭になぞらえて敵の侵入を描いたのではないでしょうか。
シンポジウムを終えた1週間後、寺崎裕則氏が亡くなりました。昭和8年生まれで、父武男が美術講師をしていた同時期に安房高校に在学し、学習院大学から文学座演出部へ入りました。後に三島由紀夫とともに劇団浪漫劇場を立ち上げています。おもにオペラと歌舞伎の演出を手がけ、日本オペレッタ協会を設立しました。父武男の描いたヴェニスの風景画をもとに巨大な舞台幕を製作し、南総文化ホールでオペレッタ『ヴェニスの一夜』を上演しています。父子二代にわたり東西文化の融合を目ざすとともに、父武男に関する研究者でもありました。
私たちは氏の想いを受け継ぎ、託された調査研究の成果を報告できたことに安堵しています。詳しい報告書は、オンラインショップ「館山まるごと博物館」で販売していますので、引き続き、館山ゆかりの芸術家を多くの方に知っていただければ幸いです。
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