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「館山まるごと博物館」バックナンバー

0152022.11.29UP近代水産業のあゆみと海洋ネットワーク

北下台の遠望(明治期)

 逆さ地図で日本列島の頂点に位置する館山は、古くから海路の要衝でした。富士山を映し出すほど波穏やかで美しい館山湾は、鏡ヶ浦や菱花湾とも呼ばれ、温暖な保養地として好まれてきました。湾に面した北下台(ぼっけだい)は、館山で最初の公園として1886(明治18)年に整備されましたが、残念ながら現在は薮に覆われて海を見ることができません。古くは北下崎と呼ばれ、海に突き出た小岬でしたが、繰り返し起きる地震の隆起によって磯つづきの高台となりました。古代の海食洞穴や、中世に武士や僧侶の墓として作られた「やぐら」、館山湾の航路標識であった正木灯跡など、海に生きた人びとの痕跡が見られます。


正木灯跡

 湾内の新井浦(現〝渚の駅〟たてやま周辺)から柏崎浦(現自衛隊東側の岸壁周辺)にかけての浜は、物産の津出しの湊として江戸期より賑わいました。近代になると、館山湾を基地とした遠洋漁業や捕鯨などがおこなわれました。昭和中期以降、徐々に衰退してしまいましたが、近代水産業発展に関わった館山の歴史を見てみましょう。


関沢明清と水産教育の振興

関沢明清

 近代水産業のパイオニアといわれる関沢明清は、幕末の加賀藩に生まれ、大村益次郎らに蘭学・航海術を学び、藩の密命を受けて渡英しました。維新後は政府の事務官として、ウィーンやフィラデルフィアの万博に参加し、欧米の進んだ水産技術に衝撃を受けました。水産業の振興は日本にとって重要施策と考え、アメリカ式近代捕鯨銃やサケ・マスの人工ふ化、缶詰製造法を導入しました。また、鰯が不漁となった九十九里海岸で、アメリカ式巾着網と従来の揚繰網を折衷した改良揚繰網漁法を初めて実施しました。この漁法は旧来の地引網より効率がよいとされ、全国に広まり、沿岸漁業に大きな影響をもたらしました。


書簡(関沢明清から小谷喜録へ)

 関沢は水産教育の重要性を説き、1889(明治22)年に大日本水産会水産伝習所(現東京海洋大学)を開いて初代所長に就任し、後進の育成に精力を注ぎました。翌1890(明治23)年8月、水産伝習所は夏期 実習を太海(鴨川市)と白浜村(南房総市白浜町)で開きました。白浜に隣接した布良(館山市)では、後年に画家・青木繁の滞在を受け入れた小谷喜録が、マグロ延縄の漁具実習を指導しており、伝習所長の関沢から贈られた感謝状と「日本重要水産動植物之図(農商務省制作)」が今も同家に残っています【1】


書簡(石原重視から小谷仲治郎へ)

 根本(南房総市白浜町)の小谷清三郎は、同年4月~7月に開かれた第3回内国勧業博覧会の水産部門において乾鮑(明鮑)製造で褒賞されており、実習の指導を依頼されていたのではないかと思われます。このとき伝習所3回生に在籍していた次男の小谷仲治郎は、伝習所書記の石原重資より「実習生が無事に着いたことと内村教師も向かっているのでよろしく」という旨の手紙を受け取っています。仲治郎は、後年渡米しカリフォルニア州モントレーで採鮑業に活躍しました【2】


神田吉右衛門

 内村教師とは、伝習所教師であった内村鑑三のことで、この実習に引率同行していました。自著全集の「予が聖書研究に至りし由来」には、このとき布良の神田吉右衛門翁と出会ったことが契機となって教員を辞し、キリスト者として生きる決意をしたことが記されています。59歳の神田が29歳の内村に語ったのは、「アワビを繁殖させ、漁船や漁具を改良しても漁師は助けることはできない。漁師を改良しなければならない」ということでした。この言葉に衝撃を受け、人間教育の重要性を痛感した内村は辞表を出して宗教家へと転身したと書き残しています。


神田吉右衛門の顕彰碑

 内村に影響を与えた神田吉右衛門については、閉校となった館山市立富崎小学校に巨大な顕彰碑が残っています。これによると、1873(明治6)年に磯根アワビ売買の私有を廃し、1882(明治15)年、器械式潜水によるアワビ漁業を村営で興しました。収益を共有財産として、学校や病院を作り、道路や漁港などを整備する公共事業をまかない、残余金を329軒の村人に分与しました。漁船改良や水産増殖、海難救済に尽力し、遭難救助積立金制度をつくって漁師の相互扶助の道を拓きました。それまで荒廃していた村政を改善し、1893(明治26)年から6年間村長を務めました。館山市立博物館所蔵の「神田吉右衛門日記」には、米国遭難船救助のための通訳を内村鑑三に依頼したことなども記されています。


近代捕鯨業への取組み

米式捕鯨銃(渚の駅たてやま)

 江戸時代には鋸山の麓の加知山村(現安房郡鋸南町)を拠点とし、おもに江戸湾を回遊するツチクジラを捕獲する鯨組がありました。リーダーの醍醐新兵衛は房総捕鯨の祖として名を馳せ、明治初頭にいたるまで代々襲名し鯨組を継承していました。

 一方、鯨の好漁場であった金華山沖はジャパングランドと呼ばれ、19世紀後半にはアメリカ式捕鯨銃を使う外国捕鯨船が集まって、数多くの鯨を捕獲していました。その後日本近海で鯨が急減し、小型和船を使った鯨組は沖合での操業が出来ず、従来からの古式捕鯨は衰退していきました。

 1889(明治22)年、関沢明清は渋沢栄一や大倉喜八郎らの資金援助を得て、10代目の醍醐新兵衛と組み、豊津村(館山市)において捕鯨と鯨油製造の日本水産会社を設立しました。しかし、鯨油製造技術の問題に加えて捕鯨の不振もあり、3年あまりで会社は解散となりました。水産業の先行きを案じた関沢は、自ら範を示すかのごとく農商務省の官吏を辞めて、一漁師として捕鯨船に乗り込んでいきました。

 1894(明治27)年、捕鯨銃の改良ボンブランスを配備した2隻の手漕ぎ舟を積み、帆船長寿丸(40トン)が館山から金華山沖に出漁しました。そして、関沢は日本人として初めてマッコウクジラ2頭を捕獲したのです。その後、日本水産会社の漁船や漁具などを引き取り、関沢水産製造所と改称して館山を拠点に活動を展開していきました。

先人の足跡を忘れない

 1897(明治30)年、関沢は志も道半ばの55歳で病のため早逝しましたが、生涯の功績に対して第2回水産博覧会では金賞が授与されました。

 同年、水産伝習所は官制の水産講習所となり、1901(明治34)年に講習所の館山実習場が北下台のふもとに開設されました。戦後に東京水産大学となり、後に東京商船大学と統合して東京海洋大学となっています。現在は、同じ場所と坂田(ばんだ)区の2ヶ所に同大学館山ステーションがあります。

館山の水産練習(明治期)

 農商務省令により国内に相次いで水産試験場と水産講習所が設置されていくなか、千葉県では1899(明治32)年に水産試験場が、1903(明治36)年には千葉県水産講習所が発足しました。当時の水産教育は、朝4時に起床し八丁櫓で漕ぎ出し、その漁獲物を朝食後の授業で加工し、時に嵐となれば漂着した海藻を焼いてヨードを採り、カリ肥料をつくったと記録されています。1922(大正11)年の安房郡立農業水産分校を経て、翌年千葉県立安房水産学校となりました。戦後の学制改革で安房水産高校となりましたが、2008(平成20)年の学校再編により館山総合高校の海洋科として水産教育が継承されています。


関沢明清の顕彰碑

 関沢が建造した「豊津丸」でベーリング海のオットセイ漁に成功した弟の鏑木余三郎は、神田吉右衛門らとともに1898(明治31)年に房総遠洋漁業会社(後の東海漁業)を興して、冬はマグロ漁、夏は捕鯨やオットセイ漁をおこないました。この会社には、安房銀行を創立した元衆議院議員の小原金治や元安房郡長の吉田謹爾らが役員に名を連ねていました。捕鯨は会社の変遷を経て、現在は南房総市和田町を拠点に関東唯一の捕鯨基地として外房捕鯨株式会社が操業しています。

 北下台には巨大な顕彰碑があり、「此碑は水産家関澤明清君の功績を不朽に伝ふる為、明治三十年同志四百六十名より拠出の資金壱千有余円を以て建碑に着手し、同三十二年五月に竣工す」と刻まれています。海とともに生きた先人たちの姿は、私たちに勇気と誇りを与えてくれます。


第1回水産伝習所卒業生(前列中央は関沢明清・3列右から4番目は内村鑑三)

北下台公園の鯨大漁祝賀会(明治期)


注釈

【1】エコレポ 館山まるごと博物館 No.010

青木繁「海の幸」誕生の漁村・布良

【2】エコレポ 館山まるごと博物館 No.009

明治期に渡米した房総アワビ漁師の古文書調査

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