1904(明治37)年夏、東京美術学校を卒業した青木繁は、友人の坂本繁二郎・森田恒友、恋人の福田たねとともに、写生旅行で房州布良(館山市)を訪れました。路銀(旅費)がなくなり、漁家の小谷喜録宅に40日も滞在し世話になりました。後に日本で最初の重要文化財となる西洋画『海の幸』はここで描かれ、『わだつみのいろこの宮』の構想もここで生まれました。
青木は翌年、懐妊したたねとともに再来訪し、伊戸(館山市)の円光寺に逗留しています。その後、二人の間には幸彦という男児が生まれ、一時は幸せに暮らした時期もあったようですが、入籍をしないまま、青木は単身故郷の九州へ戻り、28歳で夭逝しています。幸彦は後に福田蘭童と名乗り、尺八奏者として一世風靡しました。
青木が滞在した小谷家住宅は、1889(明治22)年に布良村の74戸が焼失した大火後の建築と考えられています。2008(平成20)年に館山市指定文化財となり、青木繁を敬慕する全国の美術家とともに保存基金を募り、修復を経て、2016(平成28)年に青木繁「海の幸」記念館となりました。
近年、当家より発見された古い資料により調査研究が進み、さまざまなことが明らかになってきました。
布良滞在中、青木繁が友人の梅野満雄に宛てた4枚の絵手紙には、この地の素晴らしさを賛美し、精力的に取り組んでいる大作『海の幸』への自信と精神の高揚が伺えます。
「好い処で僕等の海水浴場だよ」と記しているアイド(阿由戸)の浜は、女神山・男神山がそびえ、水平線に伊豆諸島が並び、布良崎神社の2つの鳥居の間には富士山を拝むことができます。
布良は、房総開拓神・天富命(アメノトミノミコト)が布を織る植物の栽培に適した土地を求めてやってきたといわれる神話の里です。布良と相浜は「天富命が上陸した岬」に由来して、富崎村と呼ばれました。神話に造詣の深い青木繁は、ここで神話作品を描きました。
江戸期からは、マグロはえ縄船発祥の地として栄えていましたが、冬の荒海での漁は厳しく、海難事故が絶えませんでした。亡くなった漁師の魂は星になるという伝承になり、赤く輝くカノープスは「布良星」と呼ばれました。漁師たちは舟唄『安房節』で励まし合い、危険な漁撈に耐えました。
♪ アーエ 伊豆じゃ稲取 房州じゃ布良よ
粋な船頭衆の 出るところ
♪ アーエ 船頭させても とも取りやさせぬ
押さえひかえが まヽならぬ
先代当主の小谷治助(1837-1902)は、漁師頭で鮮魚仲買商のほか、村会議員等の要職を歴任し、日本赤十字社の社員(会員)や房総遠洋漁業株式会社の株主となっています。罹災窮民の救済や遭難救助、築港、漁業振興など、村政に大きな貢献を果たし、富崎村長の石井嘉右衛門より感謝状と銀杯を授与されていました。
青木繁が来訪したときの当主は小谷喜録(1864-1926)でした。10代から千葉や東京の私塾で和漢や算術、教育法などを学んでいます。24歳で富崎尋常小学校の授業生(教員)となりましたが、大火で住宅を焼失した翌1890(明治23)年に退職し、家業を継ぎました。
同年8月に、水産伝習所(現東京海洋大学)3回生の夏期演習が布良でおこなわれ、漁具指導などの世話をしていることが、同所長の関澤明清からのお礼状に記されています。当家の長押に古くから掲示されていたカラー図版の魚貝図3枚は、このとき贈られた「日本重要水産動植物之図」であり、パリ万博に出品されたものであることもわかりました。
前述した梅野宛ての絵手紙には、40種もの魚貝名が記されており、画家の青木は殊更この精密な魚貝図に関心を寄せ、実際に港で魚貝の形と名を確認したかもしれません。
この夏期演習には、水産伝習所教師であった内村鑑三が引率していました。自著『余が聖書研究に従事するに至りし由来』(内村鑑三全集収録)によると、布良で神田吉右衛門翁に出会ったことが人生の転機になったと記されています。
神田は、小谷治助・喜録らとともに先駆的な村政を推進したリーダーで、富崎村長を務めました。その功績は、アワビ漁を村営化し、その共有財産で道路や漁港を整備したり、学校や病院を設立したりと、全国的にも先進的な漁村だったと顕彰碑に伝えられています。
神田から村政を引き継いだ石井嘉右衛門は、喜録の妻マスの父親でした。喜録は、村会議員や帝国水難救済会布良救難所看守長を務め、岳父とともに村政を支えていました。
小谷家からは、村議会や水産関係の様々な書類をはじめ地域文化や教育を考察するうえで、貴重な書画や資料などもたくさん見つかっています。
青木の没後50年に際し、田村利男館山市長と職員らが福田たねを訪問した折に、たねが語ったという談話メモが残っています。
「吉野家という旅館に一泊した。森田か坂本かの知り合いで、田村という医師を通して、小谷喜録を紹介され、6畳と8畳の二間を借りた。(中略)13,4歳くらいの女の子があって、家族4人で使用人が5,6人いた。『海の幸』はデッサンをして、東京で仕上げた。喜録で使っていた男を二人ばかり、雨の日などよくモデルとした」
当時の小谷家は、10歳の種子・6歳のユキの二人娘と喜録・マス夫妻、継母キサの5人家族でした。後年、ユキは「お客様の部屋に近づいてはいけないと言われていた。ある日、障子に穴を開けて覗いたら、女の人の裸を描いていた」と、青木の思い出として娘のトシに語っていたといいます。
マスの妹タミは、東京本郷の日箇原繁という人物に嫁いでおり、美術雑誌『スケッチ』の編集発行人であったことが、近年の調査により判明しました。
青木が前途有望の画家であると、喜録は義弟の日箇原から聞いていたかもしれません。そうであるなら、青木らを客人扱いして娘たちを近寄らせなかったことも理解できます。たねは、自らたね子と署名することもありましたが、小谷家の長女が自分と同名だということすら知らなかったのでしょう。
その後、長女の種子は富崎尋常小学校から千葉県女子師範学校に進学し、千葉県東葛飾郡川間尋常高等小学校(野田市)の訓導(教師)になりましたが、21歳で急逝しています。
『海の幸』誕生を支えた背景は、単なる漁家ではなく、文化的な漁村集落の教育熱心な家庭であったのです。
青木繁の晩年の大作「漁夫晩帰」の背景は、館山の海岸風景を追想して描いているように見えます。阿由戸の浜の眺めなどは、イメージが近いのではないでしょうか。モデル場所探しなどはいかがですか。青木繁が終生思い続けていた場所としての、館山の海岸風景をアピールされるのも面白いと思います。
(2021.09.28)
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