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「館山まるごと博物館」バックナンバー

0142022.08.30UP日中友好の碑-清国船「元順号」の遭難救助-

清国の交易船、房州沖に漂着

元順号の図

 太平洋に面した南房総市の千倉海岸には、高さ6mを超える大きなモニュメントがあり、「日中友好」と刻まれています。1780(安永9)年にこの沖合で遭難した清国の交易船「元順号」を救助してから、ちょうど200年後の1980(昭和55)年に建立されたものです。

 「元順号」は、前年11月11日に上海の南の乍浦(さほ)を出港し、長崎に向かいました。10日後に嵐に遭い、帆も舵も壊れ、黒潮を漂流しました。2月には食糧も水も尽き、雨水に頼っていたようです。清国船が房州千倉浦の陸を発見して歓喜したのは、5か月半を過ぎた4月27日でした。

 当時の千倉付近は安房国朝夷郡といいましたが、海岸沿いに位置する武蔵国岩槻藩領の飛び地である忽戸(こっと)・平舘(へだて)・南朝夷(みなみあさい)の3ケ村のほか、幕府の直轄領や大名領・旗本知行所等が交錯していました。不審船を発見した村々は相談し、4月30日に小舟で近づき異国の遭難船とわかったので、米を差し入れました。難破船といえども外国人漂流者の取り扱いは厳しく、幕府の指導が必要とされていたため、江戸湾の出入り船舶を取り締まる浦賀奉行所へ届け出ました。

 船では白装束となって楼に上り、白い幟を8本立てて、太鼓を打ち、助けを求めて叫んでいました。陸からも村びとたちが鉦を打ち鳴らし、かがり火を焚き、護摩を修して祈祷しました。5月2日に再び小舟に米や薪を積んで向かいましたが、風雨が強く一部しか渡せませんでした。

 そのうち、沖合に漂っていた船は、通称「川戸山」と呼ばれる暗礁に乗り上げました。転覆を免れ、再び暴風雨に押し寄せられて磯に近づいたところを、村びとたちはロープと小舟で23人を救助しましたが、綱が切れてしまい救助作業は中断しました。

 一夜が明け、ますます風が吹きつのり、手の打ちようがありません。一人の若者が名乗り出て、身を挺して命綱を巻き荒海に飛び込み、数人が後に続き、命がけの救出作業をしました。3人の乗組員が波にさらわれましたが、気絶した状態で助け上げられました。

安房のもてなしと筆談による事情聴取

 こうして勇敢な安房の人びとの働きにより、一人の負傷者もなく、78人全員の命が助かりました。浜ではかがり火で明るくし、焚火で濡れた体を温め、お粥を与えて介抱しました。村々から集められた着替えの衣類も渡され、なかには振袖もあったといいます。乗組員たちは頭を地につけて喜び、感謝しました。

 救出後の当初は、南朝夷村にあった3軒の空き納屋に乗組員らを収容しました。次いで、安馬谷村から白浜村に至る海岸沿いの21ヶ村が相談のうえ、南朝夷村の海寄りの間口60間、奥行50間ほどの空地に竹矢来の柵で囲い、仮小屋3棟を建てました。1棟に幹部連14人、2棟に下級船員らを32人ずつ収容しました。

 村々からは米などの食糧や竹木・縄・俵などが提供され、炊出しや小屋番などの人足を分担して出し合い、手厚く世話をしました。

 浦賀番所からの報告を受けた武蔵国岩槻藩は、郡奉行で儒学者の児玉南柯(こだまなんか)【1】を現地に派遣しました。5月9日に到着した児玉は船主(船長)の沈敬瞻と会見し、漢学者でもあったため漢文の筆談にて取り調べをおこないました。幕府から長崎との交易を許可された信牌を所持する商船であることや、遭難途中で1人が死亡していたことなどがわかりました。収容所には役人が詰める番所や人足が詰める番屋も置かれ、不慮の事故を防ぐために監視し乗組員の外出を禁じました。

船員の素行不良と積荷や船の処分

 しかしあきれたことに救命の恩を忘れ、下級船員らは垣根を壊して抜け出し、民家に入り込み不法狼藉をはたらく事件を起こしました。村の役人ともめ事となり、交易によって生計を立てていた沈船主は日本に感謝をしつつも、彼らの不法行為をいさめることができず、頭を悩ませていました。何度かのいざこざの後、それまで穏便に対応していた児玉は厳しく取り締まり、次のような手紙を書きました。

 「水難に遭ってここに流れつき、窮屈な立場で困惑していることには、深く憐れみを感じています。しかし国法に従わず、反抗する態度は無礼です。幸いにも災難から救われたのだから、故郷に帰って家族を安心させられるよう祈りながら、どうか法を守って身を謹んでください」

 こうしたやりとりの末、船員らは態度を改め、非礼を詫びて感謝し、心を通わせ交流しました。

 また、破損し沖に漂う船には積荷が残ったままでした。清の商人たちは陸揚げを望みましたが、児玉には決定する権限がなく、代官の命令を待つしかありませんでした。しかし、生活の糧である積荷を失うことの打撃を訴える沈船主の嘆願を受け、児玉は一晩熟考の末、責任を負う覚悟で荷揚げを許可しました。同日、荷揚げを認める正式な命令も下り、十余日をかけて膨大な積荷が揚げられました。

 提出された台帳によると、繊維類・犀角・鼈甲・阿片・象牙・書籍・磁器・瑪瑙・画巻・書軸・人参・麝香・甘草・白糖‥など多岐にわたり、浸水して腐敗したものは投棄されました。

 使えなくなった船体について沈船長は、解体に費用をかけずに、1754年に八丈島に漂着した前例に従い焼却することを具申しましたが、全権を委ねられていた代官の稲垣藤左衛門は、解体して使用可能な船材は長崎へ送るよう命じました。ところが6月20日に再び暴風雨が起きて船は分解してしまい、帆柱など数少ない船材しか回収できなくなりました。

 この間、異国船難破事件は広くうわさとなって多くの野次馬が集まり、統制が大変だったようです。交流を求めて江戸から駆けつけた儒者や、絵を描き残した絵師もいたといいます。儒者の伊東藍田は江戸永代橋から舟を雇って千倉へ向かい、変装して収容小屋へ近づき筆談に成功しました。『游房筆語』を著し、清国人や遭難船の図を描き残しています。

清国人の図(『游房筆語』より)

清国船の図(『游房筆語』より)

清人収容所の様子(「漂客奇勝図」より)


富士山を描きながら帰国の途へ

『漂客奇賞図』(方西園の谷文晁模写)

 こうして清国人の滞在は61日にわたり、一行は6月30日に4隻の船で千倉浦から館山の湊へ回漕され、7月1日に78人の乗組員と積荷は幕府の用意した大型船2艘に乗り換えて、解船残木を1艘に積み、長崎へ送り届けられました。

 副船長を務めていた絵師の方西園は、帰路に見た富士山に感動し、描いた絵は清国で評判になり、富士山ブームのきっかけになりました。また、彼が日本各地で描いた絵は、後に谷文晁により「漂客奇賞図」として模刻され、その遠近法が高く評価されたといいます。

 また、千倉出発時に病に倒れた1人は紀州沖で死亡したので、寄港地で埋葬し、今も墓石が残っているといいます。

 8月12日に入港した長崎では、割り増しで商売が許可されて2ヶ月滞在した後、無事に帰国の途につきました。そのとき、沈船主、方副船長らの連名で感謝の手紙が送られてきたと児玉の日記に記されています。

 一方、児玉は村々を回って人びとにお礼を申し述べ、21ヶ村から動員された延べ6,809人の人夫賃をはじめ食糧や衣類など一切の経費は岩槻藩より支払ったと記録されています。


現代に繋がる交流文化

「漂流記事」の表紙

 事件から10年後の1790(文化元)年、児玉は回想録として『漂客記事』をまとめました。全乗組員の名前や担当する仕事、船の大きさや装備、積荷、沈船長らとの交流、筆談の内容、代官との交渉など詳細が記され、貴重な記録となっています。

 これに基づいて調査を進めていた埼玉県の岩槻地方史研究会は、1975(昭和50)年に千倉町で見つかった古文書を丁寧に複写し、解読し、原本読み仮名付き「房州千倉文書」を刊行しました。


 安房で忘れられていた歴史は、岩槻の人びとによって伝えられました。千倉町の郷土史研究会と岩槻地方史研究会は交流を深めながら、遭難救助の物語を後世に伝えるとともに、末永い日中友好親善を願って記念碑建立が計画されました。町議会を経て、町長が建設委員長となり、知事や県議を名誉顧問として浄財を募り、県補助金と合わせて、遭難救助の出来事から200年目に当たる1980年5月2日に碑が建立されました。

 奇しくも2022年の今年は日中国交正常化50周年にあたります。関係者の皆様に敬意を表するとともに、先人たちの実践した交流文化を学び、今に活かしたいと願っています。

遭難救助の碑

遭難救助の碑の台座「日中友好」

遭難救助の碑の台座「元順遭難救助之碑」


遭難救助の碑の台座(説明)

遭難救助の碑の台座(建立)

遭難救助の碑由来記(看板)


注釈

【1】児玉南柯(1746~1830)

 江戸時代後期の教育者・儒学者・漢学者。岩槻藩士。岩槻藩主大岡氏に仕え、藩内の民政・財政・教学など広範な分野でその確立と発展に尽力した。私塾(後に藩校)「遷喬館」を創設し、子弟の教育にあたった。岩槻藩の飛地である房州朝夷郡奉行として、清国商船漂流を担当し『漂客紀事』を執筆。「児玉南柯日記」や遺品、墓はさいたま市指定文化財である。

参考資料

  • 図録『幕末の東京湾警備』(館山市立博物館)
  • 大庭脩著『漂着船物語―江戸時代の日中交流』(岩波新書)
  • 大庭脩編著『安永九年安房千倉漂着南京船元順号資料』(関西大学)
  • 原口扁舟『房州千倉文書』(岩槻郷土図書刊行会)

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