房総半島南部の千葉県館山市は、南北逆さに地図を見てみると、弧を描いた日本列島の頂点にあたります。海とともに生きる人びとは、古くからアジア太平洋世界の人びとと交流し、共生してきました。また、東京湾の入口に位置するため、戦略的な軍事拠点でもありました。冬でも温暖な花と海の観光地として知られる館山ですが、近年では戦争遺跡の「館山海軍航空隊赤山地下壕跡」(館山市指定史跡)を訪れる方が増えています。
2004年に平和学習拠点として一般公開が始まってから14年目を迎えた秋、見学者は30万人に達しました。ちょうど私たちNPOがガイドをしていたグループ17名が記念すべき30万人目に当たり、出山裕之館山市教育長から記念品が手渡され、市広報「だん暖たてやま」12月1日号の表紙にも紹介されました。
館山市内にある47の戦争遺跡は全国的にも貴重なものが多いのですが、なかでも赤山地下壕はAランク(近代史を理解するうえで欠くことができない史跡)に評価されています。標高60mの赤山内部には、網の目状に2km近く掘られたトンネルが広がっています。本土決戦に備えて戦争末期に造られたという説もありますが、私たちNPOでは、かなり早い時期から特別な役割をもって秘密裡に建設が始まったと考えています。
私は赤山のすぐ近くで育ったのですが、かつてはキノコ栽培研究者のおじさん【1】が住んでいたので、地下壕に入ったことはありませんでした。けれども山の裏側に明るいトンネルがあったので、小学生のころ友だちと一緒にこっそり探検したことがあります。トンネルを抜けると、そこは直径20?30mの広場が吹き抜けになっていて、空が見えていました。とても不思議な異空間でした。親に叱られると思い、この体験を誰にも言うことなく、そのまま忘れていました。
それから30年を経て、東京から館山に戻った私は、奇しくも戦争遺跡をガイドするNPOの事務局長に就任しました。幼い頃の記憶を思い出し、あれは夢だったのかしらと思いながら、NPO代表の愛沢伸雄先生にその存在を尋ねたところ、「それは燃料タンク跡だよ」と教わりました。京葉工業地帯にありそうな円柱形の巨大タンクを、山の中に縦穴で掘ったイメージでしょうか。しかも2つもとのことでした。
現在は燃料タンク跡に入ることはできませんが、今は亡きキノコのおじさんが住んでいた地下壕のメイン部分が見学できるように整備されています。受付で入壕料を払い、ヘルメットをかぶって、迷路のような地下壕を約250m往復することができます。
NPOでは、10名以上の団体を事前予約でガイドしていて、多い時は一度に100?200名の平和学習を引き受ける場合もあります。毎月第一日曜の午前は、個人や小グループを対象に無料ガイドサービスを実施しています。
館山は、関東大震災で市街地の99%壊滅し、館山湾は隆起しました。風光明媚だった2つの離れ小島の周辺が干潟になり、そこを浚渫し埋め立てて、館山海軍航空隊(館空)が開かれたのは、震災から7年後の1930年のことでした。「陸の空母」と呼ばれ、狭い滑走路を有する館空は、中型陸上攻撃機(中攻)の開発や空母搭載の艦上攻撃機パイロットの養成が主たる目的でした。現在は海上自衛隊館山航空隊として、ヘリコプター基地に使用されています。
館空の付随施設だった赤山地下壕については、はっきりした資料がなく、掘ったという証言者もほとんどいません。館山市のホームページや解説看板によると、「昭和10年代のはじめに建設が始まったという証言もあります」とする一方で、「1944(昭和19)年より後に建設されたのではないかと考えられています」と記されています。
先般BSテレビ東京の『ミステリアス・ジャパン』という番組で、この矛盾を検証しようという特集が組まれ、今年(2018年)12月1日に放送されました。私も協力し、調査報告や見解を紹介させていただきました。
まず壕の内部は、発電設備があったとされるコンクリート壁の空間を過ぎると、そこから先は素掘りのトンネルが縦横無尽に続きます。掘りやすく崩れにくい凝灰岩質砂岩の壁面には、隆起した地層や断層の模様が美しく浮かび上がっています。丁寧に掘られたツルハシの痕跡を見ても、戦争末期の突貫工事とは思えません。被害の大きかった震災後の地質をきちんと調査し、場所を選定したうえで、専門部隊により掘り始めたのではないかと私たちは考えています。
1990年代から戦争遺跡の調査研究を続けてきた愛沢先生は、赤山周辺で育った昭和一桁生まれの方たちに聞き取り調査をしてきました。戦時下に少年だった皆さんは、私と同じように近所を探検し、見聞きしたことをよく覚えているものです。それによると、赤山は日米開戦(真珠湾攻撃)前から掘っていて、掘り出した土砂(ズリ)はトロッコで海に運び、西の浜を埋め立てて岸壁にしたというのです。赤山のすぐそばで生まれ育った元館山市教育長の高橋博夫先生(1927年生まれ)も証言されています。
1943年に作成された「館山航空基地次期戦備計画位置図」という軍極秘の図面では、赤山の場所に自力発電所・格納庫・治療所と記されており、長期にわたって増築しながら使い続けていたのではないかと思われます。内部に落書きのようなものはありませんが、1か所だけ「USA」と書かれた朱文字が残っています。ミズーリ号降伏文書調印式の翌日、1945年9月3日に米占領軍3,500名が上陸し、館山は本土で唯一「直接軍政」が4日間だけ敷かれたという史実が明らかになっています。「USA」の文字もこのときに上陸した米兵が書いたのではないかと思われます。
近年、私たちは米国テキサス軍事博物館から大量の資料を入手しました。そのなかに、終戦直後の館山に上陸した米占領軍司令官の報告書があり、「完全な地下海軍航空司令所が館山海軍航空基地で発見され、そこには完全な信号、電源、ほかの様々な装備が含まれていた」と記されていました。これにより、赤山地下壕が終戦時には完ぺきな状態で存在していたことがわかります。
これらの事柄から類推すると、やはり赤山地下壕は、館空の管制機能をもつ航空要塞的な地下施設として、かなり早い段階から極秘に建設が始まったといえるのではないでしょうか。まさに、ミステリアスな館山の戦争遺跡です。
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