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「館山まるごと博物館」バックナンバー

0112021.10.26UP館山の空を飛んだ落下傘兵の版画家・秋山巌

 山頭火とフクロウをモチーフにした作風で知られる版画家・秋山巌は、1921年生まれ、2014年に93歳で亡くなりました。存命であれば今年は生誕百年にあたります。
 若き日に海軍落下傘兵として館山で厳しい特殊訓練を受け、戦後は棟方志功の門下となり、独自の木版画の世界を確立しました。
 戦後65年を経た2010年、88歳のときに思い出の館山を訪れ、2つの落下傘部隊慰霊碑【注1】を参拝しました。トークショーを開いて従軍体験や芸術家としての半生を語り、大巌院の客殿ギャラリーで個展を開催しました。当時を振り返りながら、『館山富獄』と題して上空から見た館山湾のクロマツ林と富士山を描きました。

ギャラリー太平洋「秋山巌生誕100年展」

ギャラリー太平洋「秋山巌生誕100年展」

「館山富獄」秋山巌

「館山富獄」秋山巌

「乞いあるく」秋山巌

「乞いあるく」秋山巌


「生死の中」秋山巌

「生死の中」秋山巌

「草しげる」秋山巌

「草しげる」秋山巌


ライブペイント「館山富獄」

ライブペイント「館山富獄」

ライブペイント「乞いあるく」秋山巌

ライブペイント「乞いあるく」秋山巌


館山で落下傘の猛特訓

 1941年9月、海軍初の落下傘部隊に選抜された精鋭1,500名の若者が、館山海軍航空隊に招集されました。
 連日何時間も体育館のような格納庫で、落下傘のたたみ方や飛び出し方、着地方法などの基礎を身につけた後、上空300mからの降下訓練を行ないました。怖くて飛び出せずにいると後ろから蹴飛ばされ、無事に着地すると10円をもらえました。なかには落下傘が開かずに墜落したり、風に流されて館山湾に落ちて溺れたりと、訓練中に死んだ仲間もいたそうです。
 「初めは固い床に、ワラ敷きの寝床。こんな待遇では厳しい訓練に体力が伴わない。俺が全員を代表して上官に申し出たところ認められ、その後、兵舎が与えられてゆっくり眠れるようになったよ」とのこと。
 約2ヶ月の訓練の後、12月上旬には館山から台湾に移動し、日本軍の嘉義航空基地で最終訓練をしました。翌1942年2月、所属する横須賀鎮守府第三特別陸戦隊(横三特)はティモール島クーパンへの奇襲攻撃を成功させました。

落下傘部隊の訓練(館山海軍航空隊)


落下傘訓練を身振りで説明

落下傘訓練を身振りで説明

「海軍落下傘部隊発祥の地」碑

「海軍落下傘部隊発祥の地」碑

海軍落下傘部隊慰霊碑(安房神社)

海軍落下傘部隊慰霊碑(安房神社)


転戦、そして再び館山

 8月ガダルカナル島の戦いに伴い、チューク(トラック)島、ミレ島の防備につき、11月に日本本土へ戻りました。12月から再び館山海軍砲術学校へ入り、第5期普通科砲術練習生となって、1943年3月まで各種兵器の取扱など陸上戦闘の訓練を受けました。
 5月アッツ島の戦いを応援するため、300人の「白菊部隊」に編成されましたが、アッツ島の守備部隊は玉砕し、作戦中止となりました。
 1944年1月潜水艦のコマンド部隊「S特別陸戦隊」に改編され、チューク(トラック)島やラバウルに進出し、翌年3月にはサイパン島守備にあたったものの、ガダルカナルを襲撃する200名の部隊に選抜されました。「たった200人で何ができる」と思いながらサイパンを発ちましたが、6月にはサイパンに米軍が上陸し、守備隊は玉砕。ここでも命が救われました。
 こうして各地を転戦するなか生き長らえて、ラバウルで敗戦を迎えました。8月14日は戦闘機の来襲がなくおかしいなと思っていたら、15日に低空飛行で「日本は降伏した」と書かれたビラが撒かれました。やれやれという気持ちでホッとしたと言います。
 その後、オーストラリア部隊(連合軍)の捕虜となり、現地の施設作りに動員されたといいます。捕虜生活では得意の絵で春画を描いては煙草を手に入れ、わりと優遇されていたそうです。

版画家への道

棟方志功(中央)と秋山巌(奥)

棟方志功(中央)と秋山巌(奥)

 復員後は一時警察官となりましたが、1958年に太平洋美術学校に入学しました。ここで坂本繁二郎【注2】と出会い、指導を受けました。寡黙な先生で、ほどなく郷里の福岡に帰ってしまったと言います。
 あるとき、日本橋の白木屋デパートの展覧会で棟方志功の作品に衝撃を受けて版画家を志し、門下生となりました。当時、棟方の師匠であり才能を認め支えつづけた民芸運動の柳宗悦【注3】と陶芸家の河井寛次郎が出入りしていました。
 秋山は、棟方から「化け物を出せ」と言われ、柳から「井戸を2本掘れ」と言われた言葉を生涯の教えとして、心に刻んだと言います。絵一筋ではなく、文学や詩を読んだり、勉強して想像力を広げろという意味だったそうです。『遠野物語』を絵にしようと思って東北地方をまわったり、一茶や西東三鬼の俳句に興味を持ち、「化け物」を求めて各地を旅して回りました。


新境地の世界観

観音像と梵字 秋山巌

観音像と梵字 秋山巌

 そんななか、種田山頭火の句に出会って開眼し、独自の世界観を切り拓きました。「生死(しょうじ)の中の雪降りしきる」という作品が永平寺本山のポスターに選ばれ、曹洞宗のカレンダーにも使われるようになりました。
 また、息子のいたずら描きをヒントに、フクロウを作品のモチーフにしました。墨絵のような作品が海外でも好まれ、ロンドンの大英博物館やオーストラリア・イスラエル・スコットランドの国立美術館などに所蔵され、高い評価を得ています。


山頭火ふるさと館「秋山巌原画展」

山頭火ふるさと館「秋山巌原画展」【PDF】

 70歳を過ぎてから梵字の読み書きを独学でならい、毎日梵字で日記をつけていました。生涯現役で宗教や哲学などを幅広く学び、創作し続けたエネルギーは、今なお多くの人の心を励ましています。
 2021年10月22日から2022年3月13日まで、山頭火ふるさと館(山口県防府市)にて「秋山巌原画展~拝啓山頭火さま」が開催されています。お近くの方はぜひお訪ねください。


脚注

【注1】2つの落下傘部隊慰霊碑
 1つは安房神社で永代供養されている「海軍落下傘部隊慰霊碑」。もう1つは現在の海上自衛隊館山航空基地内にある落下傘型のモニュメント「海軍落下傘部隊発祥の地」碑。いずれも秋山巌ら落下傘部隊の生存者が建立しました。
【注2】坂本繁二郎
 福岡久留米出身の洋画家。1904年に友人青木繁とともに写生旅行で逗留した房州布良(館山市)の小谷家住宅は、現在、青木繁「海の幸」記念館として一般公開されています。夭逝した青木作品の散逸を懸念し、教え子の石橋正二郎に収集を勧め、石橋財団コレクションのきっかけを作りました。
【注3】柳宗悦
 美術評論家、宗教哲学者。民芸運動の提唱者。館山在住だった兄の柳悦多(よしさわ)は、関東大震災のとき、講師をしていた安房中学(現安房高校)で生徒を避難させた後殉職しています。兄弟の叔父にあたる嘉納治五郎は、東京高等師範学校長の時に館山に水泳練習の合宿所を開き、館山湾で学生水泳大会を開催しています。同校の師範本田存(ありや)は地元の子どもたちにも水泳指導をおこない、とくに安房中学は全国的にも活躍し「カッパ中学」との異名をとっていました。今なお、館山には筑波大学セミナーハウスがあり、安房高校では本田存の指導により始まった古式泳法部が活躍しています。

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