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「江戸・東京の名庭園を歩く」バックナンバー

0152023.07.11UP江戸の大名庭園

はじめに

小石川後楽園 大泉水

 江戸時代に江戸において大名たちが一斉に回遊式の大庭園を競って作庭した庭園史上もっとも特異な時代がありました。江戸は庭園都市と言われ1,000カ所以上の大名庭園があったともいわれています。
 大名庭園というと小石川後楽園や兼六園などを思い浮かべる方が多いと思いますが、ここでは大名庭園についてその成り立ちや特徴について振り返ってみたいと思います。


1 大名庭園の成り立ち

 徳川家康が江戸の町を築き、江戸幕府を開いたことで、日本における政治・経済・文化の中心が江戸に移りました。そのことは庭園界においても大きな影響を及ぼすことになるのです。
 江戸は関東平野の一画にあり、盆地である京都とは比べ物にならない程土地が広く、また大名が拝領した土地は自然環境豊かな広々とした敷地であり、このことが大名庭園をもたらす要因となったのです。
 作庭条件として、京都に無かったものとしては江戸には海があり、武蔵野の自然があり、広大な敷地があり、しかも武家の天下だということです。このことが京都の庭園とは異なる独自の大名庭園誕生につながったのです。
 しかしながら、江戸の文化の発展は京都の影響を色濃く受けており、江戸の武士にとって京都はいつもあこがれの地であり、文化的影響を受けていることに変わりはないのです。

 ところで、江戸の都市改造の大きな転機となったのは明暦の大火(1657年)です。江戸市中の6割が焼失したという大災害がその後の都市改造に大きく影響しました。特に大名家は広い敷地である上・中・下屋敷を与えられたことが大名庭園と呼ばれる独特の回遊式庭園を完成させたとも言えます。

2 江戸の庭園史年表

1590年 徳川家康江戸城入府
広大な武蔵野の原野 隅田川のデルタ地帯
手つかずの自然景観 五つの台地 水系
1596年頃 神田上水着工
1603年 徳川家康征夷大将軍に任命される。
参勤交代制度
1620年 桂離宮 山荘の造営に着手
1625年 徳川頼房将軍家から小石川の地に邸地を下賜される。
1625年 桂離宮第一期造営終了
1629年 小石川後楽園造営開始
1645年 桂離宮第二期造営着手
1653年 玉川上水工事開始
1654年 徳川綱重別邸の地を拝領し造営開始。
1657年 明暦の大火(江戸の振袖火事) 天守閣炎上
江戸の町の6割が焼失。焼死者10万2千人
防災の観点から危険分散として諸大名に上・中・下屋敷地を与える。火災・地震時の避難地とし、池や広場機能を設けた。庭園都市。7割が大名屋敷。すべての屋敷が庭を持っていた。その数は千を越える。
1678年 老中大久保忠朝四代将軍家綱から芝に邸地を拝領した。
1702年 柳沢吉保(側用人) 六義園完成
1717年 徳川吉宗 桜の名所つくり(隅田川東岸 飛鳥山 御殿山)
1805年 向島百花園開園
1822年 前田斉広、竹沢御殿造営。松平定信が兼六園と命名
1841年 偕楽園開園
1868年 明治新政府成立

3 大名庭園の定義

 さて大名庭園とは、現在に残っている小石川後楽園、浜離宮恩賜庭園、六義園、旧芝離宮恩賜庭園という江戸にあった庭園や日本三名園と言われる兼六園、岡山後楽園、水戸偕楽園をイメージするのが一般的で、広大な敷地に中央に池を穿ちその周囲に小庭園を配置し、景色の変化を楽しむという回遊式庭園が想起されます。
 大名という名称については、室町時代の守護大名や戦国時代の戦国大名、江戸時代は1万石以上の藩主を大名と呼んでいました。
 広辞苑によると、大名とは①平安末・鎌倉時代、大きな名田を所領していた者②守護大名とは室町時代、一国ないし数ヵ国を領して大名化した守護。戦国時代に入ると多く没落し、新興のいわゆる戦国大名にとって代わられた。③戦国大名とは、日本の戦国時代、各地に割拠して独立的に領国を支配した地域権力。また、その当主。

コラム

 一乗谷朝倉氏庭園は戦国大名である朝倉氏が5代100年にわたって営んだ城下町の遺跡の庭園遺構です。文化庁 国指定文化財等データベースには「福井市南郊、一乗谷川を挟む「城戸ノ内」集落に遺る。文明3(1471)年から天正元(1573)年まで、北陸の雄、朝倉一族の根拠地。発掘調査により姿を現した館の建物跡や庭園群は、室町時代末の戦国武将の優れた文化を示すものとして貴重。」として一乗谷朝倉氏庭園を特別名勝に指定していますが、京都の文化の影響の濃い庭園であり、いわゆる大名庭園とは異なり室町時代の庭園の様式をそなえています。

 庭園の様式からは、江戸時代の大名が作庭した庭園は、池泉回遊式の庭園や枯山水、茶庭もあれば座観式庭園などそれまでの庭園様式すべてにわたります。規模としては、数ヘクタールもある広大な庭園もあれば上屋敷などで敷地が取れない場合は小規模な庭園しか造ることができない状況もあります。
 なお、回遊式庭園は桂離宮などが江戸の庭園に先行して造営されていました。作庭する庭師については、小石川後楽園作庭時には、江戸にまともな庭園などあろうはずもなく、京都から庭師を呼んで庭園を造らせており、高家の徳大寺左兵衛を呼んで作庭したとあります。その後、京都の影響を受けながらも江戸という地形や風土、武士の思いなどを加味しながら新たな回遊式庭園が整っていったと考えられます。
 以上を踏まえて整理すると「江戸時代の大名が広大な敷地に池を中心として作庭した回遊式庭園」を大名庭園と呼ぶことがふさわしいと考えます。特に明暦の大火以降の上屋敷、中屋敷、下屋敷ができた頃から本格的に作りだされた庭園が大名庭園と呼ぶに相応しい造営がなされました。
 大名庭園はそれまでの庭園にない大らかさと広がりに特徴を持ち、また、回遊式であることが特徴になっています。さらに庭園の利用は今までの庭園には無い独特のものがあります。
  これらを踏まえて江戸時代に発達した新しい日本庭園の様式「大名庭園様式」と名付けて良いのではないでしょうか。
 以下、庭園様式、景、用の特徴から大名庭園とは何かを探ってみましょう。


桂離宮 天橋立

修学院離宮 浴龍池

六義園 出汐の湊


4 大名庭園の様式の特徴

 日本庭園の様式は①池泉式②枯山水③茶庭に分類されますが、大名庭園は、各時代の庭園様式を複合、集大成し、茶庭(露地)をも取り入れた総合庭園とされており、回遊式築山林泉庭園です。

広大な敷地

浜離宮恩賜庭園

 龍安寺の方丈庭園の敷地は100坪ですが、楽寿園(現在の旧芝離宮恩賜庭園)は4ha、尾張藩下屋敷の「戸山荘」(現在、都立戸山公園として箱根山が残っているのみ)は約45haという東京ドーム約10個分の広大な庭園です。


大らかな作庭

小石川後楽園 白糸の滝

 作庭についての特徴は、広大な敷地の特性を踏まえておおらかな作庭であり、京都の枯山水のような緊張感のある空間ではなく、名勝地を大胆な構図で縮景しています。


神仙蓬莱思想

小石川後楽園 陰陽石(陽石)

 大名たちは神仙蓬莱思想の考え方を庭園に取り入れています。大名にとって世継ぎができない場合はお家断絶になるので、子孫繁栄の象徴である陰陽石を配置したり、常盤木である松を多用しています。


上水の利用

小石川後楽園
円月橋と神田上水遺構

 徳川御三家のひとつである水戸徳川家の庭園の小石川後楽園は、神田上水を引き込み、五代将軍徳川綱吉の覚え愛でたい側用人である柳澤吉保が作庭した六義園は、千川上水を引き込んでいます。江戸市民の貴重な飲み水である上水を私邸に引き込むことはよほどの権力が無ければできなかったことと推定されます。


芝生空間

 広大な敷地を庭園化した場合は管理が容易であること、また、武士の庭であり、活動的な利用に耐えることが条件になり、芝生が導入されています。地被としての苔は広大な空間では管理が難しく、武士としての活動的な動きができませんが、芝生だとそれが可能になります。また、芝生空間は広がりのある空間をさらにのびやかに明るく開放的にする効果もあります。岡山後楽園や浜御殿には広い芝生空間があり、広がりを見せる重要な要素であり、芝生の上で花見の園遊会などが催されました。

武士の鍛錬場

 大名庭園は武士の庭であり、京都の庭園とは異なり、武士の鍛錬の場としても利用されました。また、浜御殿は江戸城の出城としての役割を果たしていました。

饗応の空間

 将軍御成の対応、京都からの公家たちのもてなしの場としての役割もありました。視覚観賞の庭だけではなく、社交・接待の空間であり、実用本位の利用空間でもあり、各大名が競い合って作庭したのです。茶席の用意。娯楽・景色の工夫を施して賓客をもてなした空間でした。

六義園 シダレザクラ

浜離宮恩賜庭園 菜の花畑

六義園 紅葉


浜離宮恩賜庭園 月見の宴

浜離宮恩賜庭園 鷹の御茶屋


5 大名庭園の景の特徴

 日本の名所を取り入れるなど客人を退屈させないためのさまざまな景の変化や遊びのための演出を取り入れています。東海道五十三次の名所を縮景するなど連続した景の演出で日本中を旅しているようなバーチャル体験ができること、例えば、小田原の宿場町を再現(テーマパーク)し、また遥か彼方の憧れの地、中国の名勝地である西湖の堤を再現しています。

広大な芝生地

 広がりの要素であり、活動的な空間を生み出しました。

実用としての景

浜離宮恩賜庭園 放鷹術

 馬場・鴨場・薬草園・弓射など武家のたしなみである武芸の場を景として取り入れています。


広がりの空間

 広がりの空間こそが大名庭園の特徴であり、広がりを失わないためにディテールにこだわらない作庭手法を用いています。

富士山

 富士山は江戸のランドマークであり、富士山が見える眺望を重要視し、また築山を富士山に見立て、それを景とするとともに、見立ての富士山に登り本物の富士山を眺めるということも庭園の楽しみ方の一つでした。

富士山

清澄庭園 富士山


潮入の庭

浜離宮恩賜庭園 潮入の池

 立地が海に面した庭園では、海水を取り入れ、潮の干満による景色の変化を楽しむ「潮入の池」を実現しました。潮入の池を取り入れた庭園は海が目の前にあり、池を海と見立てた庭園と異なり本物の水平線が見える景色を手に入れることができたのです。半島や行きかう船など、それらが眺望として雄大な海の景を庭に取り込んだといえます。そのスケール感は今までの庭園にはない大きさでした。


6 大名庭園の用の特徴

 実用の庭として眺める大名庭園は、饗宴の場と武芸の場であったことが特徴です。饗宴の場は、将軍や奥方の御成り、また京都から公家たちを招いた時の饗応の場として利用されました。それは、京都の庭では経験することができない釣りや、船遊びが可能であり、広い敷地に何ケ所も配置された御茶屋で茶事や、能、狂言、連歌など様々な饗応を受けたのです。それはレクリエーションの場であったともいえます。
 一方、武士はいつ戦が起きてもすぐに出陣できるように、日常的に軍事訓練を行っていました。馬場、弓射場、鴨場などが広々とした庭園の空間に配置されたのです。太平の世になると今日のスポーツ的な場として活用されました。

浜離宮恩賜庭園 鴨場の小覗

浜離宮恩賜庭園 鴨場の大覗


7 江戸の発明! 潮入の池

1)概要

 江戸の大名庭園の特徴であり、今までの庭園に見られなかった海水を庭に取り込み、潮の干満によって変化する景色を楽しむ江戸時代に発明された庭園様式です。浜離宮恩賜庭園は現在都内唯一の潮入の庭です。また、旧芝離宮恩賜庭園、松平定信作庭の浴恩園(旧築地市場の前身)などもかつては潮入の池でした。
 なお、隅田川は風光明媚なところであり、大名屋敷が並んでいました。隅田川は東京湾に注いでいたので、潮が遡上するので隅田川の水を用いる庭園は潮入の庭でした。清澄庭園、旧安田庭園などが該当します。

2)海水を利用

 江戸幕府が置かれ江戸の地は京都に替わり、文化、経済の中心となり、その結果、膨張する都市の人口に対応するために土地を増やす必要性が生じました。それには海を埋め立てる方法が最も合理的であり、しかも日比谷入江など遠浅の入り江は埋め立てには最適地でした。日本最初の近代的洋風公園である日比谷公園は大名屋敷の跡地を利用した陸軍練兵場の移転後に造成されましたが、江戸幕府が樹立される以前は遠浅の海だったのです。江戸時代から始まった江戸湾の埋め立ては現在も東京湾で継続しています。

 埋め立てをするには波浪の浸食に耐えられるしっかりした石垣を築く必要がありますが、城づくりなどにより土木技術が向上し、その技術を応用することにより埋め立てが容易になったと推測されます。埋め立て区域を堅固な岸壁で囲い、そこから水を抜いた後に、土砂やごみを入れて突き固め埋め立てます。築地の名前の由来はこのことからだと言われています。
 埋め立てられた広大な土地に庭園を造るとなれば中央に池を穿つ必要があり、そこには水源が必要になります。しかしながら水源となる河川も湧水もないとなれば、必然的に海水を導入する発想が生まれたのです。海との境に堰を設けて海水を庭園に導入する技術は、玉川上水築造などにおける分水する技術が発達しており、水の引き入れ、排水が行われており、その技術を用いれば十分海水導水にも応用できたと思われます。
 京都には海が無いので庭園に海水を導入する発想などなく、また海側に造られた庭にもそのような発想はそれまで生まれませんでした。すなわち、江戸の広大な庭園という要素があったことから必然的に考え出されたのが「潮入の池」です。「海水を使う」この発想が潮入の庭を生んだのです。

旧芝離宮恩賜庭園

旧芝離宮恩賜庭園 潮入の池の名残


浜離宮恩賜庭園
海水排出中

浜離宮恩賜庭園
牡蠣が付着している護岸


8 大名庭園の水系

 前述した潮入の池は海水を利用した江戸の大名庭園の発明でしたが、海に面していない大名庭園はどのように広大な池の水源を確保したのでしょうか。
 徳川幕府は、江戸城を中心としたまちづくりを行い、都市化が進むにつれて当然人口も増加し、水源が不足していました。生活に必要な水源確保のためにまず井の頭池を水源とする神田上水が整備され、さらに人口増加に伴って玉川上水を開削するとともに溜池などを設けるなど大規模な土木工事による整備が行われました。
 また、明暦の大火後に上屋敷、中屋敷、下屋敷を拝領するなど大名は広大な土地を保持するために庭園を整備しましたが、海辺の庭園は海水を利用し、台地に位置する庭園では河川や上水からの水源を確保して大規模な庭園が造られました。
 現在も東京に残る大名庭園は東京都立文化財庭園として管理されていますが、小石川後楽園は水戸徳川初代藩主徳川頼房により造営されましたが、作庭に際し、徳川三代将軍家光の関与があったともいわれ、江戸市民の飲み水である神田上水を引き入れて河の景・大泉水の海の景を造景しています。また、竜骨車と呼ばれる巨大な水車で上水を汲み上げて木樋で音羽の滝へ送水しており、その遺構が現在も確認されています。
 六義園は柳澤吉保が徳川五代将軍綱吉の寵愛を受けたことにより千川上水を引き入れることが出来たとされています。吉保以降、千川上水が一時廃止されるなど水源確保に苦労したようです。
 浜離宮恩賜庭園は海水を取り入れた潮入の池です。旧芝離宮恩賜庭園はもともとは海水を取り入れた潮入の池でしたが、昭和5年以降海岸と庭園が埋め立ての為に海と断絶し、潮入の池の機能を失っています。清澄庭園は仙台堀川を水源としていましたが、仙台堀川は隅田川に通じていたので潮入の池でしたが、現在は水源がなく、天水によっています。国分寺にある殿ヶ谷戸庭園は国分寺崖線の湧水を水源にしています。
 以上のことから江戸の大名庭園の水系については大きく分けると①海水②上水③河川④湧水の利用に分類できます。
 なお、現在は浜離宮恩賜庭園が潮入の池として機能していますが、そのほかの庭園は埋め立てや上水の廃止などで水系を失い、井戸水や天水を水源としていいます。

小石川後楽園 神田上水遺構

殿ヶ谷戸庭園 湧水


9 白幡洋三郎

 庭園の評価については、京都の庭至上主義ともいえる京都の庭園を芸術的価値が高いと評価をし、江戸の大名庭園は芸術性が無いものとみなされていました。これに一石を投じたのが最近お亡くなりになった白幡洋三郎京都大学名誉教授です(1949年1月9日~2022年3月13日)。
 名著『大名庭園 江戸の饗宴』により、それまで評価が低かった大名庭園を視覚的評価だけではない、実用の庭としての視点から再評価し、その価値を正当に位置づけました。

経歴・著作など

経歴
 専門は比較文化史、特に庭園や都市公園を対象とした庭園史、産業技術史。1975年から2年間、ハノーファー工科大学(西ドイツ)に留学。1980年、京都大学農学部助手、助教授、1987年、国際日本文化研究センター助教授、1996年、教授。1990年、「19世紀ドイツ都市公園史の研究」にて、農学博士(京都大学)取得。2014年定年退任、名誉教授。
 1994年、『プラントハンター』で毎日出版文化賞奨励賞受賞。1996年、『近代都市公園史の研究』で日本造園学会賞(研究論文部門)受賞。

著書
『江戸の大名庭園 饗宴のための装置』INAX 1994年
『大名庭園 江戸の饗宴』講談社選書 1997年
『花見と桜 〈日本的なるもの〉再考』PHP新書、2000年/八坂書房(改訂版)2015年
『大名庭園 武家の美意識ここにあり』平凡社・別冊太陽 日本のこころ

※以上 フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』より引用

おわりに

 2023年は日本に公園制度が出来て150年の年に当たります。
 明治維新により旧体制である江戸の大名庭園は多くが破壊されました。その後も大名庭園は消滅の危機にさらされていましたが、明治6(1873)年に太政官布達により、日本に公園制度ができ、通達は「古来から名所旧跡といわれるところは公園として申し出よ」であり、公園制度が出来たことにより大名庭園を公園と位置付けることで徳川幕府に係わる大名庭園が救われました。また、公園に位置付けるために名称を変更しています。(兼六園は兼六公園、岡山後楽園は後楽公園、偕楽園は常盤公園、栗林園は栗林公園、水前寺成趣園は水前寺公園など)

 明治天皇は、明治11(1878)年に兼六園に行幸、明治18(1885)年には岡山の後楽園を行幸され、それが大きな話題となりました。天皇が行幸されるという事で庭園の評価が高まったという事と推察されます。そして、これ等の庭園が有名になると、いつしか常盤公園(偕楽園)、兼六公園、岡山の後楽公園が日本三公園といわれるようになりました。日本三景や日本三名湯などの売り出し方に、当時流行であった新しい「公園」を当てはめたのではないでしょうか。
 しかし、その後明治36(1903)年に近代的洋風公園である日比谷公園が出来、その後、日比谷公園をモデルとした西洋風公園が増えてくると、大名庭園を公園と呼ぶのに違和感が生じるようになり、いつしか元の庭園名に変更されていく庭園もありました。兼六公園は兼六園、岡山の後楽園は後楽園、常盤公園は偕楽園へと名称を戻したのです。栗林公園、水前寺公園は今でも名前に公園がついている。

岡山後楽園

 よって、現在は日本3名園として偕楽園、兼六園、岡山後楽園を称するようになりました。
 現在の都立庭園はすべて都市公園として都市計画的に位置づけられており、永久に保存されることが保証されています。わずか1000分の4の奇跡的に残った江戸の大名庭園も周囲の環境には窮屈な思い亜をしていますが、其存在はさらに貴重なものとして人々に認識されることを願っています。


コラム 太政官布達公園

 太政官布達により日本で最初に公園制度ができた年は明治6(1873)年で、開設された公園は25ヶ所。東京では上野公園(東叡山寛永寺)、芝公園(三縁山増上寺)、浅草公園(金竜山浅草寺)、深川公園(富岡八幡社)、飛鳥山公園(飛鳥山)。東京以外では常磐公園(偕楽園:茨城県)、白山公園(新潟県)、住吉公園(大阪府)、厳島公園(広島県)など。

 三府ヲ始、人民輻輳ノ地ニシテ、古来ノ勝区名人ノ旧跡地等是迄群集遊覧ノ場所 東京ニ於テハ金龍山浅草寺、東叡山寛永寺境内ノ類、京都ニ於テハ八坂社、清水ノ境内、嵐山ノ類、総テ社寺境内除地域ハ公有地ノ類、従前高外除地ニ属セル分ハ永ク万人偕楽ノ地トシ、公園ト可被相定ニ付、府県ニ於テ右所ヲ択ヒ、其景況巨細取調、図面相添ヘ大蔵省ヘ可伺出来

 布達内容は、「人口の多い都市の、古来からの景勝地、旧跡など人が多く集まる場所で、年貢徴収の対象になっていない所を、『永く万人偕楽の地』として公園に制定する」というもので、既存の景勝地を公園と呼びました。
 太政官布達第16号の目的は、①都市の近代化(欧風化)②旧来からの遊観所の安堵③上地された土地の利用 とされています。
 この制度が創設されて多くの貴重な大名庭園が救われたということはあまり知られていませんが、公園制度150年の今年、公園の意義をもう一度再確認する必要があります。

参考文献・引用文献

  1. 庭園の美・造園の心(白幡洋三郎 NHK出版)
  2. 大名庭園(白幡洋三郎 講談社選書)
  3. 東京名庭を歩く(桜田通雄他 JTB)
  4. すぐわかる日本庭園の見かた(尼﨑博正監修 東京美術)
  5. 東京の庭(西田富三郎 金園社)
  6. 江戸の都市計画(童門冬二 文春文庫)
  7. 東京・石と造園100話(小林 章 東京農業大学出版)
  8. 大名庭園(サライ編集部 小学館)
  9. 江戸大名下屋敷を考える(児玉幸多監修 雄山閣)
  10. 岩波日本庭園辞典(小野健吉 岩波書店)
  11. 東京都における文化財庭園の保存活用計画(共通編)』
    (東京都建設局公園緑地部 平成29年3月)
  12. 日本の庭こぼれ話(龍居竹之介 三月書房)
  13. 江戸の庭園(飛田範夫 京都大学学術出版会)

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