摩天楼が林立するJR 新宿駅新南口から10分程歩くと、周囲の高層ビルの中に広大な緑の森が広がっています。江戸時代の大名である内藤家の庭園をルーツにし、皇室の庭園としての歴史を持つ、新宿御苑の森です。東京都新宿区と渋谷区の2区に跨がる広さ約58.3ha、周囲3.5kmという東京ドームの約12.5個分の敷地で、現在は環境省が所管する国民公園として市民に親しまれています。1906(明治39)年5月に「新宿御苑」の名を冠してから今年で115年を迎えます。年間約2百50万人が訪れる、まさに都会のオアシスともいうべき森です。
新宿御苑は、浜離宮恩賜庭園や小石川後楽園などとは一味違う庭園です。その理由は、大名庭園としてのルーツを持ちながらも、その後農業試験場や皇室の庭園、ゴルフ場など、特異な歴史を歩んできた遺産を生かして造られた庭園だからなのでしょうか。
現在も庭園としての機能はもちろん、植物園としての機能や、皇室ゆかりの催事がおこなわれるなどほかに類を見ない庭園です。
大名庭園、皇室御料地、近代庭園そして国民公園と変貌し続けている御苑の歴史と庭園の魅力について紐解いてみましょう。
1590(天正18)年、徳川家康が江戸城に入城した際、現在の四谷、代々木、千駄ヶ谷、大久保に及ぶ約20万坪(約66ha)の広大な敷地を、譜代の家臣であった内藤清成(きよなり)に授けました。この地はちょうど江戸の西の玄関口であり、江戸から西にのびる後の甲州街道や青梅街道と、鎌倉街道が交差する交通の要衝であり、この一帯の防御の要としての軍事目的で、譜代である内藤家に与えたとされています。
内藤家7代藩主清枚(きよかず)は1691(元禄4)年に3万3千石の信州高遠城主に任ぜられましたが、内藤家の屋敷地がその石高に比べて過分であったので、新たな宿場町「内藤新宿」の開設にあたり、幕府に一部の土地を返上するなどしました。それでも1872(明治5)年には10万坪以上が残されていたそうです。なお、現在の新宿御苑の大木戸門ちかくにある玉藻池は、1772(安永元)年に玉川上水の余水を利用して作庭された内藤家の大名庭園である『玉川園』の一部といわれています。このような背景から、新宿御苑のルーツは内藤家の江戸屋敷だと言えます。
1698(元禄11)年、徳川幕府が整備した「五街道」の一つである甲州街道に新しい宿場ができました。内藤家が幕府に返上した屋敷地の一部に宿場が造られたこと、また「甲州街道」に追加された新しい宿場という意味で「内藤新宿」とよばれました。それまで「甲州街道」の第一宿は日本橋から4里先の「上・下高井戸宿」であり、旅人にとって距離が長すぎて不便だということで、その中間に宿場町が形成されたのです。後に「江戸四宿」と呼ばれる「品川宿」「板橋宿」「千住宿」とともに、「内藤新宿」として繁栄し、現在の新宿の地名の起こりとなりました。
1868年に元号が明治となり、260年余り続いた徳川幕府の終焉と同時に、日本は近代国家に生まれ変わるための激動の時代を迎えました。
1872(明治5)年、明治政府は内藤家から上納された土地9万5千坪余と隣接地を購入し、合わせた17万8千坪(58.3ha)の敷地に、近代的な農業振興を目的とする「内藤新宿試験場」を設置しました。この試験場では欧米の先進的な農業技術・品種を導入し、果樹・野菜の栽培、養蚕、牧畜など幅広い研究が行われました。1874(明治7)年に内務省所管となり、農事修学所が新たな教育施設として設置されました。この農事修学所は1877(明治10)年に駒場に移り、東京大学農学部などの前身である駒場農学校となりました。
国の農業振興政策拡充のなかで、内藤新宿試験場は、その役割の一部を三田育種所に移し、1879(明治12)年、この地は宮内省所管の「新宿植物御苑」となり、皇室の御料地として新たな役割を担うことになりました。
現在日本庭園となっているところに鴨池、養魚池や動物園が造られ、皇室の御料地・農園として活用されました。なお、動物園は1926(大正15)年に上野動物園に下賜されています。
一方、果樹・野菜などの栽培研究は継続され、温室を用いたラン等の花卉の栽培を我が国として初めて行うなど、欧米の園芸文化を取り入れた最先端の研究を行い、その研究成果を民間へも普及しました。
なお、この時期にヒマラヤスギ、ユリノキ、プラタナスなど外国の樹木を取り寄せて栽培し、その苗を園内に植栽していました。また、1896(明治29)年には、現在の風景式庭園の一角に洋風建築の休憩所(旧洋風御休所)が建設されました。
内藤新宿試験場から新宿植物御苑の時代における御苑の様々な研究は、我が国の近代農業および園芸の発展にとって重要な役割を果たしたことになります。また、当時の植物御苑のありようが、現在の新宿御苑のたたずまいに大きくかかわっています。
御苑生みの親ともいうべき福羽逸人(ふくばはやと)は、1898(明治31)年に新宿植物御苑の総責任者となり、2年後にパリの万国博覧会の園芸出品審査員として出張し、菊の大作り3鉢を出品して高い評価を受けました。この時に福羽は、ベルサイユ園芸学校造園教授のアンリ・マルチネ(Henri Martinet、1867年~ 1936年)に新宿植物御苑の庭園改造計画設計を依頼しました。
1901(明治34)年、マルチネの設計図を基に宮内大臣に植物御苑改造計画を提出し、承認を得て5ヵ年の改造計画事業が始まりました。
マルチネの描いた鳥瞰図には、正門を入ると整形式の庭園があり、前庭には大噴水が描かれており、その先にはルネサンス様式の2階建ての宮殿が描かれています。宮殿の後ろ側は、主庭であるイギリス風景式庭園のおおらかな景色が広がり、奥行きを深めるためのビスタライン【1】(見通し線)が効果的な設計となっています。園路は西洋式の美しい曲線を描き、池は広くゆったりとしたラインが特徴的です。なお、鳥観図の中央に予定された宮殿は日露戦争の影響で資金が不足し、建設に至りませんでしたが、それ以外はほぼマルチネの設計通りに整備されました。
5年の期間を経て、1906(明治39)年にわが国唯一の近代的洋風大庭園「新宿御苑」が完成し、日露戦争の戦勝祝賀を兼ねて明治天皇が御臨席されて開苑式が催されました。新宿御苑は国をあげての一大事業であり、最新のフランス式庭園様式を採用するとともに、大名庭園であった歴史を感じさせる日本庭園を配置するという総合性をそなえ、しかも明治時代における近代庭園として前例のない規模であり、まさに造園史上特筆すべき事業であったといえます。
新宿御苑が皇室の庭園としての道を歩きはじめてから、皇室庭園にふさわしい催事が行われるようになりました。①皇室の園遊の場として日本庭園内に茶室創建、②1917(大正6)年から観桜会(戦後は「桜を見る会」)の会場、③1929(昭和4)年からは観菊会の会場、④大正年間には広い芝生広場を9ホールのゴルフ場として利用(旧洋館御休所をクラブハウスとする)、⑤昭和のはじめには、昭和天皇のご成婚を祝して台湾在住有志より「旧御凉亭」寄贈。
また、宮中で用いる西洋種を中心に御料野菜や果樹の栽培も強化され、観葉植物や花卉は、宮中の御料として生産され、特に洋ランをはじめ温室植物の収集、研究、改良も積極的に行われ、温室などの栽培設備も拡充されていきました。さらに日本の代表的なキクやサクラなど花卉栽培にも力をそそぎ、江戸園芸文化継承にも努めています。
なお、新宿御苑開苑当初は、東京の街路樹に利用するプラタナスやユリノキの挿し枝、種子の供給の役割なども継続して行っていました。
皇室庭園時代には、国際交流の場としてアメリカの高官や満州国皇帝など、国際的な訪客も多く、パレスガーデンとして発展を遂げていきました。
パレスガーデンとして歩み始めた新宿御苑ですが、大きな災害に見舞われました。1923(大正12)年9月1日午前11時58分、相模湾北西部を震源とするマグニチュード7.9の巨大地震が人口集中による都市化が進んでいた東京を中心とする首都圏を襲ったのです。わが国の自然災害史上で最悪の被害をもたらした関東大震災です。御苑周辺も大火となり多くの住民が御苑に避難しました。宮内省は臨機応変に対応し、大天幕を設けて4000人分の炊き出しをするなど避難民の救済に奔走しました。
関東大震災による帝都復興事業は、1932(昭和7)年に一応完了しましたが、昭和10年代になると戦争の影が迫りはじめ、1945(昭和20)年5月の空襲では新宿駅周辺、四谷、神楽坂も焼夷弾によって焼野原となり、新宿御苑には火の手から逃れようと大勢の市民が殺到しました。御苑は旧御凉亭と御休所及び旧大木戸門衛所のみを残してほぼ全焼という大きな被害を受けました。管理事務所が焼失したために、貴重な書籍やマルチネの鳥瞰図を含む原図や図面などもみな焼失しましたが、洋書のランの栽培書は、地下ボイラー室に避難させてあったために、奇跡的に戦火を逃れ、今日では貴重な資料となっています。
戦後の1946(昭和21)年から1949(昭和23)年3月まで、新宿御苑は東京都立農業科学講習所高等科設置のため東京都に借用されました(1949(昭和24)年3月、都立農業科学講習所廃止)。
その間、1947(昭和22)年12月に、旧皇室庭園である新宿御苑は皇居外苑、京都御苑とともに、「国民の慰楽、保健、教養等、国民福祉のために確保し、平和的文化国家の象徴」として「国民公園」として運営していくことが閣議決定され、借用返還後の1949(昭和24)年4月には「国民公園新宿御苑」と名称が改められ、同年5月21日から一般開放を開始しています。1950(昭和25)年には所管が大蔵省から厚生省へ移りました。
中断していた観菊会は、1951(昭和26)年に内閣総理大臣主催の「菊を見る会」として再開、観桜会も、1952(昭和27)年に「桜を見る会」としてふたたび催され、伝統的な貴重品種の花々が初めて一般に公開されることになりました。
温室については、1958(昭和33)年に当時としては東洋一の規模を誇るドーム型の大温室が完成し、その後、種の保全事業に伴い老朽化した温室を、絶滅危惧種の保存・展示を行う環境配慮型温室【2】として2012(平成24)年にリニューアルオープンしています。
新宿御苑の所管庁については、1971(昭和46)年7月の環境庁の発足にともない、全国の国立公園などとともに所管を環境庁に移し、2001(平成13)年1月の省庁再編により環境省に所管を移しました。
新宿御苑の地形は西から東へ緩やかな傾斜になっています。また、南寄りには天龍寺を水源とする渋谷川が流れており、二つの台に挟まれた谷戸を形成しています。御苑の北側には玉川上水が流れており、自然流加方式で武蔵野台地の尾根筋を選んで引かれているので、御苑の地形も上水方向に緩やかに傾斜しています。
庭園をエリアで分けると、園路で大きく東西に2分しています。また、御苑の案内図では、便宜的に東西南北にエリアを分けて管理しています。苑内は平坦とはいえ敷地を東西に横切るように浅い谷が走り、上の池・中の池・下の池と三つの池が連なり、池を中心に日本庭園とイギリス風景式庭園が造られています。この連続する池は、御苑の西側すぐ近くにある天龍寺境内を水源とする渋谷川の最上流部の流路を生かして造られたものといわれています。地形的には平坦で単調になりがちな御苑の庭園景観に、この浅い谷による高低差と流動する水面が変化をもたらしています。
水系は、先ほど述べた天龍寺を水源とする渋谷川と、玉川上水の余水吐の2系統であり、余水吐は玉藻池に一旦入り、そこから御苑を出て千駄ヶ谷駅そばで渋谷川と合流します。
御苑は平面的には大きく周回する外周園路および主要園路が風景式庭園であることを特徴づけ、そのおおらかな広がりが主庭であることを誇示しています。
広大な苑内には、上記の庭園の他に苑内東端にある正門から続くフランス整形式庭園が前庭として配され、また樹林で隔てられた北側には、江戸時代の内藤家中屋敷時代に作庭された『玉川園』の面影をとどめる「玉藻池」が残されており、大名庭園の跡であることをわずかにしのばせてくれます。
西南にある日本庭園は図面上からは風景式庭園に取り込まれています。また母と子の森は里山庭園様式と呼べる現代の庭園です。なお、歴史的経緯から植物園的性格を備えており、巨樹や大温室、菊栽培所、ラン栽培温室などが点在しています。
新宿御苑は様式の異なるいくつかの庭園がありますが、それらの庭園は、あるところでは広い芝生でゆるやかにつながり、またある部分では樹林によって明確に隔てられるなど、庭園技術を駆使して全体を一つにまとめた近代の総合庭園です。
外苑西通りに接する新宿御苑の正門は現在閉ざされていますが、正門を入ると左右対称のフランス整形式庭園が目に入ります。中央に幅員9mの砂利敷の直線園路があり、この園路は整形式庭園の最も低い位置にあって、左右には丸く刈り込まれた混ぜ垣が視線を遮ることで、幻となった宮殿に向かうビスタ効果【1】を高めています。庭園は左右に緩やかな芝生斜面となり、プラタナスの並木へと展開します。
園路は左右にも分かれており、緩やかな坂がカーブを描いて延びており、坂の上は平坦で中央に幅員17mの馬車道があり、その両側にはプラタナス並木が2列整然と配置されています。プラタナスは円錐形に刈り込まれており、ベンチが規則的に置かれています。正門からの直線園路を進むと2か所に分かれたバラ花壇になります。上段が長方形で下段が馬蹄形の花壇は、ドウダンツツジとイヌツゲの生け垣で整形に縁取りされており、その内側は芝生が張られ、バラ約100種類約500株が咲き誇っています。下段の花壇中央にはシュロが植栽され、上段の花壇には樹木の刈込が植えられて、アクセントになっています。
花壇の先はアスファルトと豆砂利敷の空間になっています。この場所に宮殿を建設する計画でしたが、日露戦争のあおりで予算が不足し、建設できずに今日に至っています。宮殿が建てられたときにその西側に広がる広大な主庭がイギリス風景式庭園で、こちらもビスタに特徴を持ち、宮殿からの眺めがビスタライン【1】を最も効果的な景色とするはずでした。庭園の中心となる宮殿が建てられなかったことは、ある意味で中途半端な感を否めません。
さて、苑内東端の最も低いこの場所に敢えて正門を設けたのはなぜでしょうか。また、入ってすぐの場所にフランス整形式庭園を配置したのはなぜでしょうか。
この場所を正門に選定したのは、西洋式庭園の最大の特徴であるビスタラインを効果的に組み込むためにはこの位置が一番長くラインを確保することができるからだと推測できます。また、いわゆるフランスの整形式を選んだのは、当時の日本が世界に置かれた立場を踏まえれば、海外の賓客を招くうえで、同列意識を示すために整形式を選定したのではないでしょうか。この位置は庭園の導入部であり、いわば前庭に当たります。
正門から続くアプローチの先に、高低差をうまく生かして、宮殿をより高く、大きく見せるとともに、坂を上っていくことで馬車が進むごとにシークエンスのように庭園の全貌が少しずつ見えてくる演出を意図したのではないでしょうか。なお、正門前には道路がなかったのですが、この演出のために正門に至る道路を新設したのです。それほどまでにしてこの整形式庭園を正門入口に構えたのは、外国からの賓客の第一印象を確かなものにしたいという皇室庭園としての矜持であったのかもしれません。
整形式庭園は左右対称の幾何学的造形が特徴とされますが、その形態の骨格は生垣や並木によって形作られます。プラタナスの並木は庭園を構成する要素として、きわめて重要な役割を果たしており、背後の樹林と庭園を区切る役割を果たしています。また、馬車道の両側に整然と植栽された円錐形の並木は葉が茂った時も葉を落とした時にもパリにいるような雰囲気を醸し出しています。
バラ花壇は、ドウダンツツジとイヌツゲの生垣が空間を仕切り、バラが浮き立つような役割を果たしています。バラは色彩を添える役割と季節ごとの装飾的な役割を担っています。
整形式庭園の西側に広がるのがイギリス風景式庭園で、日本で最初につくられた風景式庭園と言われており、新宿御苑全体を統一する様式です。曲線定規でゆったりと描いた園路で区切られた広がりを示す、大きな芝生広場と点在する巨樹、そして周辺を樹林が覆っているおおらかさが魅力的です。そしてこの庭園を特徴づけるのがビスタラインです。宮殿から北西にのびたビスタが風景式庭園の生命線です。奥行きを見せるために常緑樹の樹林を奥へ奥へと狭めてゆき、その樹林を桜やもみじの落葉樹で色付けしていく、いわゆるパースペクティブ(遠近法)の手法を用いています。
新宿御苑はいわば全体が風景式庭園であり、その中に日本庭園、母と子の森、玉藻池、温室などを取り込んでいます。そのおおらかさが周辺の高層ビルをも飲み込み、御苑に一番近い NTTドコモビルさえも点景として取り込んでいるのです。この庭園様式を用いた御苑の庭園としての力―すなわち「庭園力」―を発揮することで、高層ビル群の景観的圧力に飲み込まれないのだと考えられます。
母と子の森を抜けて南側の樹林の中の園路を歩き続けると、突然明るい空間が広がります。日本庭園エリアです。この陰から陽(陽から陰)への変化は、日本庭園における手法の一つで、景色の変化を劇的にもたらす効果があります。
日本庭園の空間構成は渋谷川を水源とする上の池が庭園の西端にあり、そこが谷であり最も低い場所になっています。地形は池から台地方向に南北に緩やかにせりあがっています。上の池の中島には太鼓橋が架かり、灯籠やアカマツが植栽され、日本庭園の風情が感じられます。上の池の北側は池面よりも高くなっており、そこには四阿がおかれ、上の池の庭園全体を見渡せます。この四阿は、新海誠監督の『言の葉の庭』の舞台となっており、聖地巡りに訪れる人も多く見受けられます。池尻から東側に流れが三筋つくられ、途中から小池2か所になっています。流れの北側にある翔天亭辺りからは芝生が広がり、独特の樹形をしたタギョウショウ(多行松)が多用されており、日本庭園らしからぬ雰囲気があります。それは日本庭園と風景式庭園とをさりげなくつなぐ演出手法です。小池の南側は藤棚や灯籠などが置かれ、最も日本庭園の技巧が感じられる空間となっています。日本庭園の東端には昭和天皇ご成婚記念として寄贈された中国趣味の建物である御涼亭があります。ここは池の北側に展開する芝生広場とタギョウショウが見渡せるビューポイントです。
日本庭園はいわゆる回遊式ですが、中島の雪見灯籠やアカマツも強烈な主張をしているわけではなく、また強く主張している施設もなく、ゆるやかな池の流れに沿った庭園となっています。そのことによるのでしょうか、この庭園は、一般的な日本庭園の持つ湿度を感じないのです。どこか西洋の香りがするドライな日本庭園です。技巧を凝らさない芝生を中心とした開けた空間がそのように感じさせるのでしょうか。
大木戸門を入った突き当りにある玉藻池を中心とする日本庭園は、江戸時代に内藤家の庭園として完成したかつての大名庭園『玉川園』の一部で、当時の面影を残す唯一の場所です。かつてこの池の水源には玉川上水の余水吐の水流が用いられていました。
玉藻池エリアの空間構成は、元は御殿があった北側の高台に休憩所があり、そこから南側に風景式庭園と関連付けるように芝庭が広がり、東側には玉藻池がアメーバー状に広がっています。玉藻池の中島には伊勢ごろた石の洲浜、雪見灯籠、アカマツが配され、日本庭園らしさを感じます。護岸などに使われている玉石(安山岩)は京都ではあまり用いられませんが、江戸の庭園ではよく使われています。伊豆の海岸をモデルにした江戸庭園における海岸風景の作庭表現は、川から流れてきた玉石がゴロゴロしている伊豆の海岸を模しているとされています。玉石以外にも、やはり江戸の庭園でよく用いられた黒ぼく(玄武岩)や根府川石(安山岩)が主要な庭石となっています。
なお、池の周囲は濃い常緑樹に囲まれていて、整形式庭園や風景式庭園とは隔絶されており、御苑内では特異な空間となっています。
「都会に住む子どもたちが自然とのふれあいを楽しみ、豊かな感性と自然への関心を育むため」に、武蔵野の里山をイメージした自然観察フィールド(約6ha)「母と子の森」が、1985(昭和60)年に整備されました。2007(平成19)年には、樹木が繁茂して鬱蒼とした森となり多くの植物の生育に支障が出ていること、また生息できる生物種も限られてしまうことから、「母と子の森」をいきものが住みやすい環境に整えて、環境学習を目的とするフィールドにリニューアルしました。
「新宿御苑としては、現在ある豊かな生態系やたくさんの動植物が生きていきやすい環境を継続し、昔から残っている貴重な動植物の個体数を増やし、生物の生息空間としての質を高めていきたい」と生物空間の保全と活用を目指しています。
母と子の森は、自然に近い状態で管理しているので野鳥や虫も多く、里山の雰囲気に満ちています。クヌギ・コナラの林があり、林の中にはせせらぎが流れ、ビオトープの池やさまざまな森があります。一周430mの「かんさつの道」を歩くと里山の生き物や自然環境に触れ合えます。
新宿御苑の歴史を振り返る上で欠くことのできない人物が、福羽逸人(ふくばはやと)です。福羽は1856(安政3)年、石見国(現在の島根県)に生まれ、1872(明治5)年に16才で国学者・福羽美静の養子になりました。その後、津田仙が創設した学農社で近代西洋農業(西洋果樹,蔬菜など)を学び、1877(明治10)年に内藤新宿試験場の実習生となりました。1879(明治12)年に宮内省所管の「新宿植物御苑」の発足にともない御苑職員となり、退官するまでの40年近くにわたり御苑発展の礎を築きました。1917(大正6)年、正三位勲一等瑞宝章受章、宮中顧問官となっています。また、1919(大正8)年、農学博士を授与されています。1921(大正10)年没。
福羽逸人の功績は様々ですが、園芸家としては、旧い園芸技術の改良に努め,国内初の温室栽培法を導入しました。また、温室ブドウの栽培や野菜・花卉(かき)栽培の先覚者で,1898(明治31)年には現在のイチゴのルーツともなる福羽イチゴやキクの千輪咲等にも成果を上げ、日本の近代園芸の発展に寄与した人物です。また、ヒマラヤスギやプラタナス、ユリノキ、タイサンボクなど、洋種の樹木種子を多く取り入れて実生に成功しました。
造園家としての福羽はフランス式庭園の権威であるアンリ・マルチネに現在の新宿御苑の庭園改造を依頼し、近代的洋風庭園を造ったこと、また、宮内省管轄の庭園等の整備、武庫離宮(須磨離宮)の庭園設計、栗林公園北庭および日比谷公園西洋花壇の設計に関与しています。
新宿御苑は、過去に園芸研究を進めた時期があり、その時の巨樹などの植物遺産が数多く残っています。また植物研究機関としての実績・経験を継承しています。御苑は、全国の植物園で構成された公益社団法人日本植物園協会にも所属しており、植物園協会の重要な事業である「植物多様性の保全活動」などを担っています。特に絶滅危惧植物の保全においては、植物多様性保全拠点園ネットワークの拠点園として、①地域野生植物保全拠点園、②特定植物保全拠点園、③種子保存拠点園(種子の長期保存と種子を使った保全を行います)の3項目すべてに該当しており、これは植物園協会の中で新宿御苑が唯一です。
新宿御苑には現在、65種類、約1000本の桜があり、日本さくら名所100選に選定されています。なかでもイチヨウ(一葉)は御苑の桜の代表品種として位置付けられています。1918(大正6)年にそれまでの会場であった浜離宮から御苑に変更されて、戦前まで開催された皇室主催の「観桜会」は、このイチヨウの盛りの時期に合わせた行事でした。戦後は、「桜を見る会」として内閣総理大臣主催として復活し、2019(平成31)年まで例年4月に開催されていました。
新宿御苑では、1904(明治37)年から展示用の菊の栽培が始まり、1925(大正14)年には、赤坂離宮などで栽培されていたすべての菊栽培が御苑に移されました。また、1929(昭和4)年からは観菊会の会場も御苑に移り、1933(昭和8)年以後、日本庭園で毎年催されることになりました。現在は、毎年11月1日から15日まで、御苑内の日本庭園にて環境大臣主催の「菊を見る会」として開催されています。
同展示会の特色ある展示物のひとつである菊花壇「大作り花壇」は、1884(明治17)年より作られており、1株の菊を半円形の形状に仕上げて数百輪を同時に咲かせる高度な技術を必要とする技法の名称です。
なお、130年以上続く菊花壇展のルーツとなったのは1878年(明治11年)、皇室関係者向けの「菊花拝観」を宮内庁が赤坂の仮皇居で主催したことによります。回遊式の日本庭園の景観・順路に沿って懸崖、伝統菊、江戸菊や一文字菊などが伝統的な日本の上家を模した建物内に、趣向を凝らした花壇として展示されています。
新宿御苑では、公益社団法人日本植物園協会の植物多様性保全拠点園として、また、植物園自然保護国際機構(BGCI)が定める「植物園の保全活動に対する国際アジェンダ」の登録園として、絶滅危惧植物の生息域外保全【3】に取組んでいます。
ハナシノブの系統保存を行っている他、4種(アマミデンダ、゙オキナワセッコク、ムニンノボタン、ムニンツツジ゙)を栽培しています。その他にも、環境省レッドリスト記載種約170種(うち絶滅危惧種約140種)について、温室などを活用した栽培を行っています。
また、日本植物園協会及び各植物園などと連携して、2008(平成20)年10月から絶滅危惧植物の種子保存を行っています。全国から種子とその自生地の情報を収集し、新宿御苑内の施設で長期保存を行っています。
1875(明治8)年に建てられたガラス張りの温室がルーツで、多くの温室植物を集めた大型温室は1958(昭和33)年に完成し、2007(平成19)年には建て替えのため閉館し、2012(平成24)年11月20日に絶滅危惧種の保存・展示を行う環境配慮型の温室としてリニューアルオープン【2】し、熱帯・亜熱帯の植物を中心に約2700種を栽培しています。
「イギリス風景式庭園」を中心として、ケヤキ、プラタナス(スズカケノキ)、ユリノキなど自然樹形の巨樹を間近に見ることができるのが新宿御苑の魅力の一つです。街路樹などは生育空間が厳しく、毎年剪定されて本来の樹形からはほど遠い姿になっていますが、御苑では樹木のあるがままの姿がそこにあります。もともと武家屋敷であったところを入手して、皇室関係の御料地になったことで、伐採されることなくのびのびと本来の樹形で大きく育ったのです。
巨樹巡りも御苑の楽しみ方のひとつです。
玉藻池そばの風景式庭園にある樹齢400年のケヤキは、ここが高遠藩内藤家の屋敷だった当時から残るただひとつの樹木といわれています。樹高17m、幹回り6mで「大ケヤキ」の愛称で呼ばれています。幹全体を巻いている包帯は、10年ほど前の落雷で傷んだ幹に発根を促す土壌状の薬を入れ、布で巻いて保護しているものです。幹の部分を土の中と同じような環境にして、発根を促す仕組みを作り治療しています。内藤家時代から御苑になるまでの変貌をその場所でずっと見てきた巨樹であり、東京を襲った関東大震災や東京大空襲に遭いながらも満身創痍で生き続けているのです。
御苑のモミジバスズカケノキは、明治20~30年代に日本で初めて植えられた、国内で最も古い歴史のある木といわれています。明治30年には、海外から種子を輸入して、大量に栽培して全国各地に広めました。
園内にはアメリカスズカケノキとモミジバスズカケノキの2種類が植栽されていますが、ほとんどがモミジバスズカケノキで約220本植栽されています。
園内に植栽されているモミジバスズカケノキの内の約160本は、整形式庭園のプラタナス並木です。並木と新宿門近くのモミジバスズカケノキは同樹齢で、明治時代に植栽されていながら、毎年剪定されているものと、自然樹形でのびのび育ったものとでは、まったく違う樹形になっています。
ところで、スズカケノキは3種類が知られています。スズカケノキ、アメリカスズカケノキとモミジバスズカケノキです。樹皮の剥離状態で簡単に見分けられます。樹皮がほぼ剥離するのがスズカケノキ、剥離しないアメリカスズカケノキ、その中間がモミジバスズカケノキです。
新宿御苑のシンボル・ツリーでもあるユリノキは、花の形をユリの花にたとえたことが名前の由来と言われていますが、英名がチューリップツリーと言われるようにチューリップに似た花形をしています。桜が終わるころに花を咲かせるのですが、花の色が緑色とオレンジ色でしかも緑色が強いので、咲いているのを見落とすことがあります。
園内には約30本植栽されていますが、とりわけ有名なのが風景式庭園の真ん中に威風堂々と立っている通称「3本ユリノキ」です。遠くから眺めると1本の大木のように見えますが、実際は3本が寄り添って立っています。1本の幹回りは約5メートル、樹高は高いもので約35mにまで成長しています。風景式庭園の広がりを象徴する巨樹でどこからでも見ることができます。
園内のユリノキは、新宿御苑が「内藤新宿試験場」だった明治20~30年代頃に、ラクウショウなどとともに日本で初めて植えられたといわれています。樹齢は推定120年以上。1907(明治40)年には、街路樹育成用に園内のユリノキの種子が東京に払い下げられました。東京都内の街路樹のユリノキは、赤坂迎賓館から外堀通りの紀伊国坂など街の景観をはぐくんでいますが、御苑のユリノキが母樹なのです。
ラクウショウ(落羽松)は、アメリカ原産のスギ科の落葉高木で、別名ヌマスギ(沼杉)というように湿潤な沼地や川辺に生育します。名前の由来は、多年生の枝とその側枝である一年生の枝がありますが、秋になると一年生の枝は葉をつけたまま落ちるので、その様子が鳥の羽が落ちているように見えるために「落羽松」となったそうです。
御苑のラクウショウは、水源のひとつである天龍寺そばの御苑の最西端の湿った場所に11本の巨樹が群生しています。ここで目を引くのは、地中から生えているタケノコのお化けのような不思議な形をした気根と呼ばれるものです。気根は地中にある根が水中では十分に酸素を吸収できないため、根が変形して地上に気根を出して呼吸しているのです。気根がここまで発達している状態は非常に珍しく、日本国内でも希少な生育地だと言われています。
ヒマラヤスギは幹周り3メートルを超える巨樹も含めて、園内には約380本も植栽されています。スギと名前がついていますが、実際はマツ科の常緑針葉樹です。1879(明治12)年ごろ、横浜在住のイギリス人ブルークが、インドのカルカッタからヒマラヤ地方原産のヒマラヤスギの種子を取り寄せて栽培したのが最初といわれています。その実生苗100本が新宿御苑に植えられ、1894(明治27)年から御苑でも栽培が行われました。1903(明治36)年には1000本挿木し、270本が根づいたそうです。
新宿門の近くのひときわ大きなヒマラヤスギと、旧洋館御休所の前の一本が御苑を代表するヒマラヤスギです。
御苑内の施設は1945(昭和20)年5月の空襲で大きな被害を受けましたが、戦災を逃れた歴史建造物が何棟かあり、皇室庭園の歴史を今に遺す貴重な文化財的遺産です。
1896(明治29)年、天皇や皇族が新宿御苑内の温室を鑑賞する際の休憩所として創建され、1924(大正13)年に現在の規模になりました。また、ゴルフ場ができた際にはクラブハウスとして使用されました。建物は宮内省内匠寮【4】により設計され、アメリカの建築様式スティック・スタイルを基調としています。2001(平成13)年に重要文化財(建築)に指定されています。
1927(昭和2)年、昭和天皇が皇太子の時の御成婚記念として台湾在住の有志から寄贈された建物です。日本にある数少ない中国ビンナン建築様式【5】の特徴を取り入れた、本格的中国風木造建築です。設計者は建築家・森山松之助です。東京都選定歴史的建造物に指定されています。
1927(昭和2)年に建てられた門衛所で、当時の独特のデザイン性や、御苑の歴史的・景観的価値が評価されている昭和初期の建造物です。
1900(明治33)年のパリ万博で展示されていたものを輸入し、アメリカ人技師が設営工事を行い、1905(明治38)年に完成しました。日本初の木を模した欄干といわれています。
新宿御苑の北側には玉川上水が流れていましたが、現在は区道の地下に埋まっています。当時の玉川上水を彷彿させる散歩道「玉川上水・内藤新宿分水散歩道」が、かつての流れに沿って新宿御苑の大木戸門から新宿門までの区間、約540メートルの水路として新宿御苑北側散策路(無料区域)に整備されています。
整形式庭園の排水側溝の表面は玉石張りでできています。排水を素早く流すのならコンクリートで平滑に仕上げれば十分なのですが、職人技が光っています。日比谷公園も同様の手法の側溝があります。
新宿御苑の魅力は、何といっても広大な芝生広場に巨樹が点在するその広がりです。御苑の周囲は摩天楼に囲まれていますが、それらが全く気にならないほどの広さがあるので、都会の空がより大きく感じられて心が解放されます。
もう一つの魅力は、一様式の庭園ではなく、特異な歴史を背景にして造り上げられた独特の庭園の魅力です。宮廷の要素、植物園的要素をベースに、イギリス式、フランス式および大名庭園の要素を取り込み、しかも現代における庭園とも言える里山景観の母と子の森を取り込むなど進化し続けている唯一無二の庭園といえます。
新宿御苑に出かけたら、かしこまった庭園鑑賞よりも、巨樹や美しい花たちが咲く広々とした空間を五感で思い切り感じてください。そうすると都会の窮屈さを忘れて自分を取り戻すことができます。
Copyright (C) 2009 ECO NAVI -EIC NET ECO LIFE-. All rights reserved.