JR国分寺駅で下車し、南口を出て徒歩1分の所に都立殿ヶ谷戸庭園があります。この庭園から東へ約1.5キロメートルのところにあるのが滄浪泉園です。JR国分寺駅と武蔵小金井駅の間にあるこの二つの庭園に共通するのは、武蔵野の地形の特徴の一つである国分寺崖線上に建てられた別荘庭園だったということです。どちらも武蔵野の自然を生かした庭園で、現在は公共緑地として多くの市民の憩いの場となっています。
国分寺崖線は武蔵野を代表する地形であり、古代多摩川が南へと流れを変えていく過程で、武蔵野台地を削り取ってできた河岸段丘の連なり(崖)で、立川市から大田区まで連続する延長約30キロメートルに及ぶ「がけ地」(ハケともよばれています)です。立川市砂川九番から始まり、東南に向かって野川に沿って延び、東急線二子玉川駅付近で多摩川の岸辺に近づいて、以後多摩川に沿って大田区の田園調布付近まで続いています。上流の立川ではほとんど高さがありませんが、都立府中病院付近では15メートルほどに高さを増し、世田谷区の成城学園から下流では20メートルを超える高さとなります。
現在、宅地化や農地化が進み、崖線の面積に対して国分寺崖線は約35%の樹林地が残っている状況です。また、国分寺崖線は、貴重な樹林地が形成されており、重要な地域資産であるので、緑地の保全、景観の形成、湧水の保全及び活用など各市は独自の基準を設けて、緑豊かな崖線の保全と再生に取り組んでいます。殿ヶ谷戸庭園がある国分寺市では、崖線の斜面地だけでなく、湧水・地下水の涵養域、崖線の崖下から見上げた景観及び崖上の台地からの眺望保全の観点を含め、まちづくり条例を制定して保全に取り組んでいます。
国分寺崖線の景観特性は、地形と自然に富んでいることであり、①崖線上部の台地、下部の低地、斜面において異なる土地利用がなされ、変化に富んだ景観を形成、②台地部は、畑地や樹林地の緑が多く、また眺望空間として富士山、丹沢山塊を眺望できる、③斜面部は、崖線のスカイラインを形成する緑地、坂道、地下水が湧き出ているハケ(崖下)があります。
崖線下には小金井市の貫井神社、滄浪泉園、国分寺市のお鷹の道・真姿の池湧水群、殿ヶ谷戸庭園湧水、日立中央研究所構内湧水群などがあり、豊富な湧水量で知られており、東京の湧水57選に選ばれています。
大岡昇平の『武蔵野夫人』の冒頭に「土地の人はなぜそこが「はけ」と呼ばれるかを知らない。坂を下ると、その付け根に台地をくぐってきた自然水が、全てを濾過されたように清水となって湧き出て大小の泉をつくっている。これが「はけ」である。」と国分寺崖線について述べています。
ところが「ハケ」という言葉は実はあいまいな表現となっており、国分寺崖線をハケという表現と、湧水が湧き出る箇所をハケという表現に大きく二つに分かれています。水が出ることを水が吐けるといいいますが、それは例えば「余水吐け」という言葉で表現されているように、水が出る場所が「ハケ」なのです。しかしながら国分寺崖線を歩くとよくわかるのですが、いたるところに「ハケ」すなわち湧水箇所があるので、国分寺崖線を俯瞰して崖線を大きく一つにとらえて、いたるところから水が出ている状況を湧水箇所と見立てればまさに、崖線全体をハケと称しても違和感はないのです。すなわち、個々の湧水箇所としてのハケとそれを集合体として崖線全体を一つのハケととらえれて、崖線のことをいつしかハケと呼ぶようになったのかもしれません。
戦前の東京には、武蔵野を中心に数多くの別荘が存在していました。これらの別荘は同時代に高原や海浜に盛んに立地していた避暑・避寒を目的とした別荘が、快適な気候の中で過ごし、海浜でのマリンスポーツや高原でのゴルフ・スキー・温泉といったアクティビティではなく、どちらかと言えば、気温を気にせず、静的な用途・目的で別荘が構えられていました。この志向はそれまでの別荘とは異なり、わが国における別荘の新しい形のひとつといえます。
武蔵野における別荘の多くが「ハケ」に立地し、レクリエーション拠点、書斎、農園など多様な利用がされていました。その成立背景は下記の理由によると考えられます。
(1)健康志向の高まり ─大気療法の普及
(2)交通の発達 ─私鉄の登場と自動車の普及
(3)新しい風景観の誕生 ─「武蔵野ブーム」の到来
特に3点目の「武蔵野ブーム」が与えた影響は大きいと考えられます。それは、国木田独歩が1898(明治31)年に著した、雑木林に象徴される武蔵野を賞賛した『武蔵野』に端を発しました。ワーズワースの自然観から強く影響を受けていた独歩の武蔵野の美の発見によって、当時まだ支配的であった伝統的な花鳥風月を愛でる風景観から抜け出し、近代的な風景思想が根づいていくこととなります。さらに、独歩だけではなく、徳冨蘆花(1868~1927)や田山花袋(1871~1930)など自然主義文学の影響を受けた作家たちが小説や随筆で新たな武蔵野のイメージを大衆に広める役割を果たしました。大正初期には、武蔵野の魅力を語ることが一種の流行になり、それがやがて「武蔵野ブーム」という現象になったのです。
この新しい別荘は、武蔵野の中でも眺望に優れた多摩川沿いの富士山がよく見える国分寺崖線上にほとんどが立地しており、その立地は『武蔵野』の中に描かれた風景と一致していました。
敷地内の設計(空間構成)は、台地の端の平らな所に母屋を設け、最も眺望のよい傾斜の変曲点に茶室を置いています。これは富士山や多摩川、多摩丘陵の眺望を意図したものです。斜面には武蔵野特有の雑木林を自然の形で残し、下端部に「ハケ」の湧水を利用した池を配した林泉庭園を造り、独歩が賛美した武蔵野の風景がとり入れられています。
別荘の使い方は、レクリエーション拠点としての利用であり、ゴルフ、釣り、イモ掘り、ホタル狩りなど郊外ならではの自然の中で遊ぶレクリエーションが行われていました。また書斎としての利用や農園経営拠点としての利用も散見できます。
武蔵野の自然を取り込み、国分寺崖線に造られた「ハケ」の庭として、殿ヶ谷戸庭園、滄浪泉園をご紹介します。2庭園とも現在は公共の土地であり、殿ヶ谷戸庭園は都市公園、滄浪泉園は特別緑地保全地区として保全されています。
殿ヶ谷戸庭園は、国分寺崖線の地形と湧水を利用して、武蔵野を代表するアカマツやクヌギ・コナラなどを構成種とした雑木林の風致を生かして造られた近代の別荘庭園です。
三菱合資会社の社員で、後に南満州鉄道副総裁から貴族院議員にもなった江口定條(さだえ)(1865~1946)は、1913~1915年に、この地に別荘を構えました。建築は当時流行した和洋折衷の意匠・構造を持ち、庭園は赤坂の庭師であった仙石荘太郎により作庭され、「よろしきに従う」の意味で『随冝園』と名付けられました。
その後、1929年に、三菱合資会社の経営者であった岩崎本家三代目当主、岩崎彦彌太(1895~1967)が江口家から別荘を買い取り、「国分寺の家」として親しむようになりまし。彦彌太は、1934年に津田鑿(さく)の設計により、中庭及びサンルーム状のベランダなどを備えた一部2階建を含む和洋折衷の木造主屋に建て替え、敷地の北西隅部に鉄筋コンクリート造の蔵(倉庫)を新築しました。また、茶室のある紅葉亭を新築し、主屋前面の芝庭と崖線下方の湧水を用いた池泉から成る回遊式庭園を完成させました。
別荘の敷地は、南に張り出す段丘の東辺に当たり、比高が10メートル以上もある崖線の傾斜地を挟んで、段丘上面の平坦地から下方の沼沢地へと及んでいます。
昭和40年代にマンション計画を含む再開発計画が持ち上がりましたが、庭園とその自然の保存を求める住民運動が起こり、その運動をきっかけとして1974年に東京都が買収し、都市公園として位置づけ整備し、1979年4月より有料庭園として公開しました。武蔵野の自然を生かした庭園保存を望む市民運動がなければ、現在この庭園は存在していなかったのでしょう。
「殿ヶ谷戸庭園は江口定條の随冝園に端を発し、昭和初期に岩崎彦彌太が改修を加えた東京郊外の別荘庭園で、国分寺崖線の地形、縁辺部の湧水、傾斜面に叢生する雑木林など、豊かな自然環境を生かした優秀な風致景観を伝える。同時代に作庭された類似の武蔵野の別荘庭園の中でも、当時の風致景観を最もよく残し、その芸術上・観賞上の価値は高い。よって、名勝に指定し、保護を図ろうとするものである。」として、2011年に国指定名勝に指定されました。
開園面積:約21,000平方メートル
庭園の空間構成は、国分寺崖線の地形を生かし、敷地東辺の北寄りに位置する正門から導入路(馬車道)があり、①台地上は主屋の洋館とアカマツ、モミジを配した芝庭および台地縁に眺望を楽しむ藤棚を設置した洋風空間、②比高が10メートル以上もある崖線の傾斜面はクマザサで覆い、傾斜面の裾部をクロボクで組み、モウソウチクの竹林が広がる斜面空間、③崖線の下端付近からの湧水を集めて造成された次郎弁天池を中心とし、段丘上方の紅葉亭から見下ろす和風空間で構成されています。
敷地は当初は一万坪で、農地、栗林、鴨池、プール、ケンネルなどが供えられていました。現在は3分の1ほどになってしまいましたが、岩崎時代には東側の谷戸で水田を耕作して稲を、畑では野菜を作るなど自給自足的な生活は、当時の別荘の利用形態の特徴のひとつでした。現在の庭園では武蔵野に生育する山野草を大切に保存しています。
ところで、アプローチについては、庭園への導入路であり、また庭園の第一印象を与えるところでもあります。しかしながら、東京都が所有者となり一般公開した段階で、当初の入口が国分寺駅南口ができる前に設置された関係で庭園東側にあり、現在の駅南口を出て当初の入口にたどり着くには、坂道を下りて、また上る構造となることから、住民利用を考慮して、ショートカットをして、南口から徒歩1分の所に新しい庭園入口を設けました。このことにより、当初の門から入り、ゆるい傾斜の坂道を登りますが、園路がカーブしているので庭園の入口はすぐには見えず、期待感を持たせて庭園にたどり着くという庭園の醍醐味である演出ができなくなっています。
しかもその空間は利用されずに、無用な空間となっているので、庭園の魅力が半減しているとても残念な状況であり、しかも、現在の入口では庭園に横入りするようなものなので、庭園に対して失礼な状態になっています。せめて旧来のアプローチからも庭園に入れるようにしてほしいものです。
戦前の武蔵野における別荘の多くが「ハケ」に建てられ、ここも明治・大正期に実業家、衆議院議員として活躍した波多野承五郎(古渓:1858~1929)が明治末期に購入した別荘でした。郷土史家芳須綠は、滄浪泉園の命名は波多野承五郎と親交のあった犬養毅元首相(雅号・木堂)がここの池を気に入り「手や足を洗い、口をそそぎ、俗塵に汚れた心を洗い清める、清清と豊かな水の湧き出る泉のある庭」という深い意味で命名したとしています。また入り口の滄浪泉園と書かれた標石には「木堂老人書」と刻まれています。
滄浪泉園になる前は貫井村の鈴木家の所有地であり、1920年代後半に滄浪泉園は川島三郎(三井鉱山)の手に移り、川島家が継承しましたが、昭和40年代の開発の波によりマンションの開発計画が起こり、市民が庭園保存運動に立ち上がりました。その結果、1977年、都市緑地保全法に基づく「緑地保全地区」として指定を受けて、1977年に東京都が買収し、小金井市が管理する有料の「自然緑地」となりました。
当初は33,000平方メートル余りあったといわれる庭園も今では3分の1程度(11,700平方メートル)になっています。なお、現在、庭園内は都市緑地法に基づく「特別緑地保全地区」として、木・竹の伐採は規制されています。
滄浪泉園は国分寺崖線を利用した庭園ですが、空間構成は台地部分に長屋門を模した入口があり、①門を入ると小舗石の石畳があり、両側が土塁で掘割状となっており下り勾配の園路がカーブして南側に開けた、休憩所がある芝生広場(旧本宅跡地)空間、②斜面地はクマザサで覆われ、アカマツ、シラカシ、スギ、雑木などの樹林空間③、崖下は湧水が2カ所あり、それを堰き止めた池と周遊する園路空間、④池から流れ出て滝となり野川へ流れ出る水面空間という構成となっています。
休憩所前の芝生広場に70坪くらいの茅葺の別荘が建っていました。日野の名主の家を移築したと言われています。別荘の南側は現在、樹木で覆われていますが、かつては多摩川や多摩の横山、そして富士山を眺めたものと思われます。斜面は雑木林が残り、池尻では2か所に分かれて流れとなり、滝で合流する構成です。園内は滝石組以外ほとんど造園的修景が施されておらず、崖線の自然を極力生かした庭園です。
現在の滄浪泉園の入口は、立派な長屋門風ですが、これは1975年に小金井市が開園のために整備したものです。お屋敷を思わせる造園的整備された入口から門までと自然を生かしほとんど造園的修景をしていない門の内側とでは統一感が感じられません。
波多野時代の庭園資料が残っていないので、入口周辺がどのようになっていたのかは定かではありませんが、波多野承五郎が造園学雑誌に寄稿した「玄関前の庭」にヒントがあるので引用します。
「今の紳士の邸宅には、表門と玄関との間を庭園風に作ってあるのが多い、中央の馬車廻しは勿論、その左右に樹木を植込み、庭石を置き、燈籠を据つけ井筒を設けて流れを造ったりしたのがある。如何にも立派で風流だ。しかしながら玄関前に立派な庭園がある以上、座敷の前には更にこれよりも立派なものが造られてあることを期待せずには居られない。
然るに往々にして座敷の庭も玄関前の庭と同一程度のものがあるのに驚かされる場合がある。徳川時代の邸宅では、決して玄関前に庭を造らなかった。敷石や白洲はあったが、一本の樹木すら植込んでない。
だから座敷に通って庭を眺めた時に、初めて深い感興を起こし得るのだ。質素なる玄関前と、奥庭の結構とがコントラストして、その美に打たれるやうにしてあるのだ。」
と述べています。
この表現から読み解くと、入り口は質素にして、中に入れば素晴らしい庭園を用意するということになります。波多野は京都の有名な料亭の瓢亭が、入口には昔商売で売っていたわらじを置くだけの簡素な造作で、奥座敷に案内されると京都風の茶庭があり渓流が流れて頗る気持ちのいヽ所だと評価しています。また、本宅は日野の茅葺の農家を移築したとのことですから、入り口も質素なものだったのではないでしょうか。
“武蔵野”というとJR三鷹駅北口にある国木田独歩の文学碑が浮かびます。碑文は武者小路実篤揮毫による独歩の詩の一節、「森林に自由存す」が刻まれています。この言葉は、武蔵野というイメージを一言で表現するのに最もふさわしい言葉だと思います。
独歩はそれまで見向きもされなかった農家の生活の場であった雑木林に自由と美しさを発見し、それを『武蔵野』に発表しました。それまでの武蔵野はススキに覆われた茫漠たる荒野のイメージでしたが、「今の武蔵野は林である。林は実に今の武蔵野の特色といっても宜い」と雑木林と人の生活する農村を武蔵野だと表現したのです。
そして「武蔵野ブーム」が起きて、武蔵野を代表する地形である国分寺崖線に多くの別荘が建てられました。しかしながら現在ではその別荘もほとんどが姿を消してしまい、殿ヶ谷戸庭園や滄浪泉園など公共の施設としてわずかに残るのみとなっています。
今から120年以上前に、独歩は武蔵境駅から北へ歩き、玉川上水に架かる桜橋で茶店のおばあさんに呼び止められますが、現在、桜橋の脇に独歩の文学碑があります。この桜橋から上流50メートルくらいのところに「独歩橋」が架かっています。独歩はこの辺りから雑木林の中へと入っていくのですが、もはや宅地化されて農家や畑はなく、当時の面影はありません。
しかしながら、宅地の一画に緑濃い場所がありました。武蔵野市立境山野公園で、通称独歩の森と呼ばれています。公園はクヌギ、コナラ、ソロなどの雑木林を保全したものですが、幹回りが1メートル近くのクヌギ、コナラ、ソロの大木が目につきます。しかもそれらの多くは、ビニールで幹をぐるぐる巻きにされたり罠を仕掛けられています。樹上を見上げると緑が茂る葉の中に、全体が茶褐色になり、枯れてしまったコナラやクヌギが目立っています。「ナラ枯れ病」が発生しているのです。この病気は近年急速にまん延している病気で、カシノナガキクイムシの食害により、瞬く間に樹木が枯れてしまう恐ろしい病気なのです。
これらの病気の原因は森を適切に管理しなくなったことにより、樹木の免疫力が低下し、一斉に枯れ出したのではないかと言われています。武蔵野の雑木林は、20年に1回くらいの割合で全面伐採をして萌芽更新する仕組みの中で生まれたものですが、何十年も更新を行わないで放置したままの状態では、林として健全な状態での存続が難しいのだと思います。
独歩が称賛した“武蔵野”はいずれ消えてしまうのかもしれませんが、殿ヶ谷戸庭園や滄浪泉園のように公共空地として保存されていれば、武蔵野のイメージを喚起することは可能ではないでしょうか。文庫本と一緒に森を散策すれば120年前の武蔵野のイメージが見えてくるかもしれません。
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