東京タワーを知らない人はいないと思いますが、芝公園をどのくらいの人が知っているのだろうかと想像するとちょっと弱気になります。東京タワーが立っている場所は、かつては芝公園と呼ばれていた一角だったのです。今年(2020年6月)、東京タワーの真下に新しく紅葉の名所が出来ました。
今回は庭園と少し離れますが、近代の庭園ともいうべき芝公園における紅葉の新名所「もみじ谷」について、その歴史を繙きます。
歴史を今から150年程遡ります。1868年に元号が明治となり、近代化を目指す新政府が発足しました。それから6年後の1873(明治6)年に太政官布達第16号により、日本で最初の制度上の公園が誕生しました。東京では上野公園、浅草公園、飛鳥山公園、芝公園、深川公園が指定され、全国で開設された公園は25ヶ所になりました。
布達内容は、「人口の多い都市の、古来からの景勝地、旧跡など人が多く集まる場所で、年貢徴収の対象になっていない所を、『永く万人偕楽の地』として公園に制定する」というもので、既存の景勝地を公園と呼んだのです。すなわち、最初の公園は江戸時代からの名所として賑わっていた寺社仏閣をそのまま公園として指定しただけのものだったのです。浅草公園は浅草寺の境内敷地、上野公園は寛永寺の境内敷地跡地ですし、芝公園も増上寺の境内敷地でした。
太政官布達第16号の目的は、①都市の近代化(欧風化)、②旧来からの遊観所の安堵、③上地された土地の利用で、特に市民の楽しみの場所であった名所の社寺地などを公園という名目で保証したものと言えます。
芝増上寺は、徳川家康が帰依して寛永寺と並ぶ徳川家の菩提寺であり、門前には茶店が出来るなど賑わっていました。芝公園は明治6年の太政官布達による日本で最初の公園の一つですが、増上寺の境内地をそのまま公園の区域に設定したもので、公園敷地を1号地から25号地の計25区画に振り分けました。しかしながら当初は公園らしい整備は行われていなかったということです。
その後、1881(明治14)年、紅葉山に和風の高級料亭「紅葉館」が開業し、それに合わせて19号地のもみじ谷の整備がすすめられました。1945(昭和20)年には東京大空襲により、増上寺境内の五重塔と徳川家霊廟などほとんどが焼失しました。1947(昭和22)年「社寺等に無償貸付してある国有財産の処分に関する法律」により政教分離を図る為、社寺有地を公園として公費で管理することが禁ぜられ、増上寺本殿、徳川廟などが公園区域から外され、公園の敷地は増上寺を取り囲む「饅頭の皮」のような現在の形状になってしまいました。
1958(昭和33)年には芝公園旧20号地に東京タワーが完成し、ランドマークとして人気を博しました。東京タワーは総合電波塔の愛称で日本の「塔博士」といわれた内藤多仲を中心に設計されました。
高さは333mで完成当初は日本一の高さとなりました。その後高い建物が出来て日本一の座を降りましたが、自立式鉄塔に限れば、東京スカイツリーに次ぐ日本で2番目に高い塔です。
新しい公園区域には宗教色のない都立公園としてテニスコートや野球場などの運動施設などが設けられました。現在は区立芝公園、東京プリンス芝公園など管理者が異なる区域を含みますが、都内最大級の前方後円墳である芝丸山古墳や丸山貝塚など歴史的に価値のある遺産を持つ都立の総合公園です。
芝公園の歴史の概要は以上ですが、ここからは紅葉の新名所となったもみじ谷の歴史について振り返ってみます。
増上寺境内であった芝公園は、太政官布達で公園に指定された際の所管は東京府でしたが、1889年(明治22)年の東京市の成立とともに1898(明治31)年、所管が東京府から東京市へ移管されました。
1903(明治36)頃、20号地は紅葉館で賑わっており、さらに公園制定から30年を経て公園改良の機運が高まっていたので、隣接する19号地のもみじ谷の整備もそれに合わせるように行われました。芝公園の計画は東京市の技師であった長岡安平が携わっています。公園計画全体像は増上寺境内を意識して和風の世界を表現しており、その図面が(公財)東京都公園協会東京グリーンアーカイブスに残っています。19号地は武蔵野台地の最東端に位置しており、荒川と多摩川に挟まれたこの地域は、関東ロームが堆積しており、周辺の低地に比べて地盤が比較的強固です。なお、もみじ谷の東京タワー側から、急勾配の崖線が南北に走っており、15mの高低差があります。この崖線の地形を利用したのがもみじ谷のシンボルである「もみじの滝」です。
もみじ谷の名称(現在東京タワーが建つところで旧20号地)は、徳川二代将軍秀忠が江戸城内紅葉山にあった金地院をこの地に移す時に、モミジも一緒に移植したことから「紅葉山」と呼ばれるようになったと言い伝えられており、この名にちなんでもみじ谷と名付けられたようです。当時は深山幽谷の趣きの地であり、天然の滝や水が湧く地形であったとの記述があり、その面影はいまも残っています。
もみじの滝を設計したのは、自然の地形を生かす設計を心掛けた長岡安平であり、設計に際してはどの公園が滝を造る場所に相応しいか市内の公園を見て歩き、「上野すら尚それを懸くべきところを見出さず今回の設計である芝公園こそは自然の景色奈可にも深山幽谷の趣きあり加ふるにこの地素天然の瀑ありて瀑見茶屋など備えしありし時代もあれば瀑布を懸くるには最屈意の處なりければ」との談話を残しています。「もみじの滝」の図面は「芝公園内瀑布設計図」として東京グリーンアーカイブスに遺されています。
もみじ谷の整備は、設計、監理を長岡安平が行い、現場監督は後の東京市公園課長となり東京市の公園事業の基礎を確立した若き日の井下清でした。1905(明治38)年に設計を行い、1906(明治39)年3月に竣工しています。滝は東向きで高さは約17.1m、幅は5.4mから10.8mという雄大な瀑布でした。石材は東京府内で発生したものを主に使用し、滝壺はコンクリート造でした。
滝壺から1号地の弁天池までは約208mの底がコンクリート造モルタル仕上の流れを設けています。当時の新聞には、
「東京市にて芝公園に風致を添へんが為め紅葉館の横手に當る紅葉山に一條の瀑布を落下せしむることに決し設計を立て……瀑布は老樹鬱蒼せる丘上より落下し其高さ九間半あり此瀑布落下も成るべく自然的の趣致を保たしめんが為め流下しては岩石に當り當りては又流下するが如く幾層の屈折をなさしめ」
と宛然深山の雰囲気を表現しています。
もみじ谷・もみじの滝を設計した長岡安平は数多くの東京市の公園事業を手がけましたが、この滝は長岡の業績を偲ぶことが出来る東京で唯一の作品であり、貴重な設計遺構です。長岡が手がけた都内の公園は、関東大震災や戦災、その復興計画などの影響も受け、現在は残っておらず、もみじ谷のもみじの滝及び残された図面・写真でしかその業績を知ることが出来ません。
長岡は芝公園内の邸宅に住みそこを「長栢園」(ちょうはくえん)と名付けていました。18号地の住居跡には、翁の2周忌を期して井下清を中心に日本庭園協会有志が織部形の石灯籠と長栢園跡の記念碑を建立し、今でも記念碑が残っています。
長岡は長崎大村藩の出身で、郷土の先輩である新潟県令や東京府権知事、東京府知事、衆議院議長を歴任した楠本正隆に従って行動を共にしていました。1872(明治5)年楠本が新潟県令になったときに同行しており、楠本は太政官布達が出る前年の明治5年に日本最初の公園といわれている白山公園を手掛けていますが、長岡が関与しているのではないかと言われています。
また、楠本が1875(明治8)年に東京府権知事に就任した後、1876(明治9)年、公園業務を担当する土木掛が組織されて、1878(明治11)年に長岡は土木掛に採用され、東京府の公園や街路樹を手掛け、やがて秋田県の千秋公園、旧池田氏庭園等日本全国の公園整備に関与し、その数は80公園ともいわれ、地方にも多くの足跡を残しており、造園界におけるランドスケープデザイナー第一号といわれる由縁となったのです。しかし、そうなるまでには人知れぬ多くの苦悩があったと思われます。公園制度は出来ましたが、日本には「公園」なるものは存在せず、見本とするものが無い中で、長岡安平は「公園」とは何ぞやと言う問いを日本でいちばん多く考えた人ではないでしょうか。
長岡安平の公園に対する考え方は、①市民の為、②地形を大切にする、③花を植えたり市民が喜ぶ樹木を植えること など現代にも通じる市民本位の公園造りを心掛けていました。
長岡安平語録:
「庭園は芸術である。此の業に依って富を得ようと思ふものは断然思ひ止る方がよい。吾々は庭の設計並に其の築造に依って自分の希望が容られ、又自分の抱負が実現された作品を作ることに大なる歓喜があるのであって、報酬を得んが為めの事業であってはならない」
長岡安平は晩年、号を祖庭と名乗っていました。「庭の祖」と名乗るにはそれだけの業績と矜持があったのだと思われます。
さてこのもみじ谷は、祖庭長岡安平の唯一の遺構と言って良いのですが、東京タワーが出来たことなどで忘れられた存在になっていました。しかし、長岡の作品であることが近年再評価されて、東京都による本格的な改修工事が3年前から進められることになりました。
もみじの滝は、今までに何度か改修が行われてきましたが、大規模な改修は行われていませんでした。今回は3ヶ年をかけて本格的に長岡が手がけた当時に復元する意向であり、初めて滝の石組を全て外し、周辺も含めた再整備を行うものでした。東京都は本格的な改修を行う上で長岡の考え方を理解し、それを再現するには作庭意図も十分理解し、滝石組を指導できる人材が必要であるとして、日本庭園協会の龍居竹之介名誉会長、廣瀬慶寛常務理事・技術委員長に監修の要請をしました。特に石組みの改修の方法、石材の配置等の検討及び現地指導を行うものです。長岡は江戸時代からの造園技術を独学で身に付けており、このもみじの滝の石組には大名庭園などで用いられた江戸の庭園技術を駆使しています。日本庭園協会は伝統的な造園技術を保持しているので白羽の矢が立ったのです。
工事を施工するにあたっては大きな課題が二つありました。安全施工と長岡安平の「思い」を再現することです。
①安全施工
もみじの滝は崖線の急傾斜地にあり、法面は崩落を繰り返す等危険な状態なので、安全に工事を行うことが最も重要な課題。
②長岡安平の「思い」を再現
日本最初のランドスケープデザイナーの東京における唯一の設計遺構を明治39年当時に蘇らせることであり、長岡の「思い」を後世に伝えることが今回の工事に課せられた使命。
この課題を踏まえた再整備のコンセプトは次の3点です。
まず、平成29年度から30年度にかけて既設の滝石組撤去工事を施工し、主に既設滝石組の撤去及び滝石組南側法面の緑化を行ないました。滝石組は高さが約10m弱で勾配は1:0.5と急峻であり、しかも滝の下部には流れや飛石があり、最大で10tはあろうかという石材を撤去することになりますが、大型クレーンを使えない非常に困難な施工条件でした。危険度が高い作業場での安全性確保のために、解体工事には遠隔操作が可能なバックホウをワイヤーで支持して滝石組を解体する手法を導入するなど安全工事に徹しました。滝石組撤去後の露出した急峻な法面にはグラウンドアンカー工法を採用し、滝石組両側の法面には長繊維混入厚層基材吹き付け工法で法面の安定を図りました。
平成30年度から令和元年度に掛けては、主に滝石組、植栽、棚等のもみじの滝を再現するメイン工事が行われました。滝石組の躯体工事は、池の下部から施工範囲の高低差は約13m、造成したコンクリート躯体は高さ約7mになりました。滝石組のベースが出来ていよいよもみじの滝の修復工事を施工することになります。もみじ谷の再整備工事においては「もみじの滝」が重要な景観の要であり、長岡の設計意図を再現するために、遺された長岡の「芝公園内瀑布設計図」と竣工当時のもみじの滝の古写真を参照しながら、滝及び周辺の現況を踏まえて平面ライン、縦断ラインなど滝の形態を慎重に決めていきました。
滝の流れを古写真のようにするため工事前より緩やかにし、滝の上流部には、流床に変化をつけるために凸凹の多い配石をして流れに変化をつけ、滝下流部の流れからは、水平に保ちながらも広範囲に広がるように水を流して、滝の大きさが際立つようにしました。工事に際して龍居名誉会長と廣瀬技術委員長が滝石組工事のポイントとなるたびに現地に赴き、長岡安平の設計理念を再現できるように直接指示を出しながら工事を進めました。
滝の主石は黒ボク石とし、群馬県吾妻郡嬬恋村まで出かけて使用する石の選定をし、また、撤去した既存の石の中からも、再利用できるかどうかを十分吟味して、できるだけ多く再利用を図りました。
滝石組の施工に際しては、主石の黒ボク石を滝の下部からクレーンを用いて徐々に下から積み上げ、石の向きや位置を確認しながら、また、施工途中で滝に水を流して滝の完成の様子を検証しながら慎重に工事を進めました。植栽工における主材料であるモミジについては滝の景観を際立たせる重要な要素であり、群馬県前橋の圃場まで両氏が同行して相応しい苗木を選定しました。かくしてもみじの滝は完成しました。
祖庭長岡安平の東京における唯一の作品である「もみじの滝」は後世に伝えるべき貴重な歴史的造園遺構ですが、その修復には江戸時代から伝わる日本庭園の伝統的技術を生かすことで、長岡が手がけた貴重な滝が現代に蘇ることになり、その足跡を後世に伝えることが可能となりました。改修工事はそのことが評価されて第36回 都市公園等コンクールで国土交通大臣賞を受賞しています。
もみじの滝の躍動的な飛沫を眺め、背景にある東京タワーを見上げながら約300本のモミジを同時に楽しむことが出来る紅葉の名所は日本中探してもこのもみじ谷だけです。
12月の初旬にもみじ谷に行ってみると、多くの人出でにぎわっていて、紅葉・滝・東京タワーが画面に収まるようにスマホで撮影していました。
紅葉の新名所誕生です!
芝公園の北側4号地周辺は1945(昭和20)年5月の東京大空襲で焼け野原になりました。しかし、業火で幹の半分近くを焼かれていながらも枯れることなく生き残り、現在もたくさんの葉を繁らせている「戦災イチョウ」と呼ばれているイチョウがあります。焼け焦げた跡が炭化して真っ黒な幹肌を見せていますが、それは戦災の記憶を語りかけているように見えます。戦災イチョウの樹高は約12m、幹回り約5.27mです。
芝東照宮は、以前は増上寺安国殿と呼ばれていましたが、明治の神仏分離によって増上寺から切り離されて芝東照宮となりました。
ここのイチョウは、1641(寛永18)年、安国殿の再建に際し、三代将軍徳川家光が植えたものと伝えられています。1930(昭和5)年に史跡名勝天然記念物保存法に基づいて国の天然記念物第二類(地方的なもの)として指定されましたが、文化財保護法が1952(昭和27)年に改正された時に国指定は一旦解除され、その後1956(昭和31)年に東京都の文化財保護条例に基づいて東京都指定天然記念物として指定し直されました。
1993(平成5)年の調査では、高さ21.5m、目通り幹囲約6.5m、根元の周囲が約8.3mの測定結果となっています。
増上寺の南東端にある慈雲閣ある巨木です。目通り(地上1.5mの高さ)の直径が約1.3m、周囲約4m、樹高約25m、推定樹齢600年を超える雄株です。カヤは屋久島などでは直径が1mを越えるものがありますが、一般的には80cm以下なのでこのカヤは巨樹としても全国的に有数なものです。カヤは暖帯の植物で関東地方を北限としているので、北限に近い東京、港区内にこの大きさで残存していることは大変貴重であり、港区の文化財(天然記念物)として保存されています。
※1:(公財)東京都公園協会東京グリーンアーカイブス所蔵
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