東京には都立文化財庭園が9つあります。浜離宮恩賜庭園、小石川後楽園、六義園、旧芝離宮恩賜庭園、向島百花園、旧古河庭園、殿ヶ谷戸庭園、旧岩崎邸庭園、清澄庭園です。
この庭園には「庭園」あるいは「園」という名称がつけられています。小石川後楽園、六義園、向島百花園は江戸時代に作られた庭園です。旧古河庭園、殿ヶ谷戸庭園、旧岩崎邸庭園、清澄庭園は明治以降に作られた庭園で、財閥の名前や庭園があるところの地名に庭園を付けて名前にしています。なお、江戸時代につくられた浜御殿と楽寿園は浜離宮恩賜庭園と旧芝離宮恩賜庭園と名付けられていますが、明治以降に皇室の離宮になり、当時の東京市に下賜された関係で恩賜庭園という名称になりました。
「庭園」という言葉は明治以降に一般的に用いられるようになった比較的新しい表現で、江戸時代は「林泉」という言葉で庭園を表していました。明治に入ってもその表現はよく使われていました。
庭園は「庭」と「園」という空間的意味が異なる言葉を合わせて作られたものです。「庭」は人が何かを行うための広い平坦な場所で、農作業や芸能、仏神事が行われる儀礼・仕事の場を指していました。また、「園」は果樹や花木が植栽され、それが囲われた場所を表していました。
現在は庭園という言葉が一般的に使われますが、歴史的に見ると庭園を指す表現は様々なものが見られます。自邸に池を堀って小さな島を築いた蘇我馬子は「島大臣」と呼ばれました。『万葉集』では「にわ」の意味で、「その」や「しま」が使われています。平安時代になると「泉石」「山水」「仮山」「枯山水」「泉水」などが用いられていました。明治以降に庭園という表現が定着した理由は定かではありませんが、今日では庭園あるいは庭という言葉が使われていています。
ところで小石川後楽園と岡山後楽園という二つの「後楽園」があるのをご存知でしょうか。実は本来の後楽園は小石川後楽園なのです。水戸黄門で有名な水戸徳川藩2代藩主光圀が政治・文化の顧問として招いた明の亡命者の朱舜水に庭園に名前をつけるように命じ、朱舜水が宋の范文正の『岳陽楼記』のなかから「士はまさに天下の憂いに先んじて憂い、天下の楽しみに後れて楽しむ」という「先憂後楽」から後楽園と名付けたのです。
一方、岡山後楽園は江戸時代、「菜園場」とか「後園」と呼ばれていましたが、明治4年(1871)に「後楽園」と命名されました。その後、大正8年(1919)に制定された「史蹟名勝天然記念物保存法」では常盤公園(偕楽園)、兼六園、平等院庭園、大沢池、栗林公園と一緒に名勝に指定されました。
一年後に本家の後楽園も史蹟及び名勝に指定されましたが、すでに岡山の「後楽園」が名勝に指定されていたため「小石川後楽園」として指定されたのです。岡山の後楽園は昭和27年(1952)に特別名勝に格上げされましたが、その際に名称を「岡山後楽園」と変更して小石川後楽園との混乱を整理しました。
東京では後楽園というと今では野球場や遊園地が有名になってしまいましたが、「後楽園」は本来、庭園の名前が本家本元なのです。
浜離宮恩賜庭園と旧芝離宮恩賜庭園は、いずれも皇室の離宮であったものが東京市に下賜され恩賜庭園という名称になったということですが、旧芝離宮恩賜庭園にだけ「旧」が付いているのは何故でしょうか。
(2023.05.22)
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