3月になると早咲きの桜の便りが届けられますが、それと共に8年前の平成23年(2011年)3月11日に発生した東日本大震災のニュースが話題の中心になります。
2011年3月11日(金)、マグニチュード9.0の発生時点における観測史上最大の地震が東日本を襲いました。いわゆる東北地方太平洋沖地震です。死者・行方不明者18,432人、建築物の全壊・半壊は402,704戸。避難者40万人以上、停電世帯は800万戸と未曽有の大被害をもたらしました。
地震発生の最中、日本庭園協会(以下庭園協会)は奇しくも明治神宮文化館で総会の真っ最中でした。総会に参加していた東北地方の会員(当時東北支部)は未曾有の被害を受けたと伝えるニュースに不安を抱えながら鉄道網、道路網が寸断する中を3日間かけて、死ぬ思いで我が家へたどり着いたのです。
大震災の影響などにより、東北支部は2年後の4月に解散することになりましたが、「東北から日本庭園の灯を消したくない」という庭園に対する熱い思いが、支部解散からわずか2か月後に宮城県支部を発足させました。
その設立趣旨には、復興を祈念して「絆の森」となる鎮魂と永遠の平和の願いを込めた日本庭園を造ることが含まれていました。被害を受けた宮城県支部の会員たちは「復興に向けて自分たちにできること、それは庭を造ることだ」として、「東日本大震災記念公園(以下復興記念庭園)」築庭を提案したのです。被害を受けた会員たちが自分のことを脇に置いてまでもこのような強い思いで鎮魂と復興のための新しい庭を造るという発想は、3.11の地震発生の時から帰宅する間に芽生えていたのかもしれません。
5年の歳月を掛けて日本庭園協会と宮城県支部が共催で造り上げた復興記念庭園を紹介します。
復興記念庭園の築庭テーマは、(1)大震災の鎮魂と復興、(2)伝統庭園技術の継承で、その設計コンセプトは次のような鎮魂と復興を願うものでした。
東日本大震災で被害を受けた被災者の供養と早期の復興を願い、造園に携わる我々一人ひとりが汗を流し、心のよりどころとなるような「名園」をつくり復興に寄与する。園内には研修道場を設け、若者を対象とした伝統技術を習得する発信基地とする。庭園形式としてはいわゆる「池泉回遊式庭園」とし、背景の森林と西側の山を借景として取り入れ、現況地形を活かしながら特別な趣向を凝らし、沢水を利用した幽玄な庭とする。さらに、伝統的な手法と現代技術を融合させながら明日への日本庭園の方向を探る。
復興記念庭園は、地元の寺院である覚照寺の協力を得て、その敷地内に築庭することとなりました。そこは沢筋の藪に覆われた森の中で、果たして庭を造ることができるのかと思われるような場所でした。しかし、そこの立地条件は、地形的にも歴史的にも築庭に相応しい条件を兼ね備えた空間でした。
歴史的には、臨済宗大義山覚照寺は宮床伊達家の廟所を持つ由緒ある寺院で、その境内敷地には古びたお堂や石碑が点在し、歴史を感じさせる雰囲気があります。地理的には沢筋からの水を堤でせき止めれば池泉の水源となり、両側の雑木林は視線が庭園に向くような衝立の役割を果たしています。そして眼前には優美で、そしてどこか懐かしさを覚える七ツ森とも呼ばれている地域のシンボル・笹倉山が悠然と聳えています。まさにこの地は復興記念庭園築庭の場所として最もふさわしい作庭条件が備わっていました。
山裾の沢筋にある農業用貯水池跡を修復し、貯えた水(約1,000立方メートル)が流れ出て滝となり、上池から中池、中島のある下池へと流れていきます。池のまわりには石積を行い、園路、沢飛石、土橋、東屋を設けました。ポイントになる樹木は造成地に生えている樹木を移植し、地表面は苔で覆いました。
笹倉山を借景として回遊する雄大なスケールで景色の変化を楽しむことができる池泉回遊式庭園で、庭園面積は約4,000平方メートルで、くの字形の地形となっています。
記念庭園の隠れたテーマは、池泉回遊式庭園の手法を取り入れて人の一生を表現しているとも言えます。誕生から成熟期、そして老齢期を経て、輪廻は転生しまた誕生へ向かう永遠によみがえる命を表しています。それは、誕生(沢の水)→→幼年期(第一の池)→→壮年期(第二の池)→→成熟期(第三の池)そしてその先には笹倉山がありこれは西方浄土に見立てることができます。魂はそこに帰っていくのですが、また復活してこの世に戻ってくる、いわゆる「輪廻転生」をイメージしています。それはまた、自然を畏敬し、自然を生かし、自然と共に歩むという東日本大震災の教訓から得た自然の中の一員としての人間の意識を再確認するものでもあります。
築庭に当たっては、宮城県支部と庭園協会本部が共催で行うこととし、庭園協会が若者たちに日本庭園の伝統的技術を伝える「伝統庭園技塾」を組み込むことにして、全国から若手の庭師が参加できる仕組みにしました。
築庭はまず宮城県支部による藪の伐開から始まりました。生い茂った笹や蔓類を刈払い、不要な高木を伐採し、発生したスギ材は製材して四阿の柱として利用しました。
2年目は主に滝石組を行う予定でしたが、台風が接近する中で緊張感ある整備となりました。3年目は伝統庭園技塾開始の1月前に50年に一度という大雨があり、貯水池堤体部分が大きくえぐり取られて技塾開講が危ぶまれましたが、宮城県支部による堤体法面修復や流出した土砂運搬など復旧が突貫工事で行われ、何とか技塾を開講することができて、滝口から下池までの流れと石橋・土橋を整備しました。4年目は中島の護岸石組、洞窟石組などを行い、5年目は四阿の建築や苔張を行って、総仕上げをしました。
築庭を開始してからの5年間は全国から多くの参加があり、特に滝組や土橋など若者が日頃触れることのない伝統技術を伝えることができました。また、第3回からは外国からも参加があるなど国際的支援も得られました。
この庭園の築庭において特筆すべきことは、(1)すべてボランティアで造り上げた庭園であり、延3,500人が参加した「無償の愛」で完成した庭園であること、(2)行政からの補助金を受けることなく、庭園協会の会員の3回にわたる寄付などで資金・資材を賄ったこと、(3)津波で流された庭園の灯籠や庭石は廃棄物として処分される運命にありましたが、それらを庭園材料として再利用し、流されて流失した「庭の命」を再生した、等があります。特に、補助金を受けることをあえてしなかったのは、補助金を得て造る庭園は、東京から大手ゼネコンが仕事を取り、地元は下請けとなり、いわゆる仕事として造る庭となってしまうためです。それでは被害を受けた地元の「思い」が込められなくなり、地元の心からのさけびである真の意味での「鎮魂と復興の願い」が届かなくなるという宮城県支部の強い思いがあったのです。「お金で造る庭ではなく、心で造る庭」を目指したのです。
東日本大震災復興記念庭園は日本庭園協会が100周年を迎える記念すべき年に開園しました。2018年5月18日、昨夜から降り始めた雨が上がった午前10時に大義山覚照寺(宮城県黒川郡大和町宮床)にて復興記念庭園」の開園式が挙行されました。築庭開始から5年の歳月が流れ、ここに東日本大震災の鎮魂と復興を願う市民の力のみで造り上げた復興記念庭園が完成したのです。
築庭完成の最大の功労者は、1年365日ボランティア精神で5年間も庭園を見守った宮城県支部の働きがすべてです。台風や集中豪雨により、築庭した場所が流されるなど、その復旧や日々の雑草管理など血のにじむような努力と行動力があったからこそ完成することができたのです。また、地元からの絶大なる支援がなければ、この庭は完成を見なかったかもしれません。
復興記念庭園が完成するまでを見て思うことは、「庭には二通りの作り方がある」ということでした。権力者や財産家がお金と時間を掛けて芸術的に作り上げる庭と、お金や人手が足りなくてもやむにやまれずに造る庭があるということです。復興記念庭園はまさに後者に属する作庭ですが、そこに関わった人たちの、純粋に鎮魂と復興を願う気持ちが込められた庭園は、どの庭園よりも美しい輝きを放っていと思います。
東北の復興が一刻も早く進むことを祈念するとともに復興記念庭園築庭の思いを多くの方に伝え、100年後にはこの庭園が国指定名勝になることを願わずにはいられません。
平成31年3月18日から3月22日まで、世界遺産であるイギリスのキュー・ガーデン(Kew Gardens)から日本庭園担当の職員2名が日本庭園の研修と被災地の視察に来日しました。公益財団法人東芝国際交流財団が東北復興支援の一環として招聘したものです。
18日から3日間は、復興記念庭園で庭園築堤の主旨説明や樹木の剪定、庭石の種類などについて研修をし、21日?22日は石巻?女川?気仙沼?陸前高田の震災被災地で行われている巨大な防潮堤や芝生だけの復興記念庭園が目立つ復興状況を視察しました。
復興記念庭園築庭の「思い」を彼らに伝えましたが、その主旨は確実に伝わったとものと期待しています。しかし、自然や植物を愛する唐らには巨大な防潮邸や芝生だけの公園はどのように見えていたのでしょうか。
わざとなのかもしれませんが、もっとわかりやすく庭園の場所が書いてあればよいと思いました。
(2020.10.01)
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