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「江戸・東京の名庭園を歩く」バックナンバー

0142023.01.10UP旧芝離宮恩賜庭園(後編)-庭園の歩き方-

1 庭園の三要素について

根府川石の飛石

 日本庭園の「景」を造る三要素は「水」と「石」と「樹」と言われています。「水」は変幻自在の存在であり、池泉は日本庭園の中心的景観を構成するものです。「石」は不変なものであり、「永遠」を表すものであり、庭園の持つ「テーマ」を主題とします。日本庭園では山や海から選んだ石(野面石)を加工や彩色をせず、そのまま用いるところに特色があります。何万年何億年を経た石は日本庭園の精神性を表現する石組としてその存在を保っているのです。石組は庭園の骨格となる要素を持っているので、時代の変化があっても配置が変わることがなく、作庭当初の姿を変えないので、石組によって庭園のテーマを解読できます。

 石の見方のポイントは「形」「色」「大きさ」をよく見ることです。その形が何を表しているのか、色の美しさや不思議さ、大きい小さいを比べながら観賞すると石の魅力が見えてきます。特に雨上がりの後は石の色がよく出ているので庭石観賞には最適です。

 日本の特色の一つに、春夏秋冬、すなわち四季の変化が明確なことがあります。「樹」は四季の変化を表し、春の新緑の美しさ、夏の深緑そして秋の紅葉など季節の移り変わりを表現し、人々に感動を与えます。やがて落葉した裸木の美しさも格別です。そしてそれはまた新たな命が始まることを教えてくれます。即ち生命の永遠性を表すものなのです。しかしながら樹木は生長するので、場合によっては樹齢何百年にもなります。生長することで作庭意図と異なる大きさになることもあるのです。「庭は生きている」と言われますが、特に樹木の生長はそのことを裏付けています。

 旧芝離宮恩賜庭園における庭園の三要素についてですが、まず水については前編ですでに述べているように海水を導入した潮入の池であったことが大きな特徴です。水中に没している飛石や海水の出入り口など様々な場所に潮入の池の痕跡が見られるので、それを探すのも楽しみの一つです。

 次にこの庭園の大きな特徴の一つとして池畔の飛石に根府川石(安山岩)が多用されていることが上げられます。根府川石は小田原で採れる庭石ですが、大久保家が小田原藩主であったことも根府川石を多用することになったのかもしれません。根府川石は小田原の近く根府川で採取され、板状節理が特徴で、割りやすく、大きな石材も得られるので、江戸の庭園で多く用いられました。京都にあってはなかなか入手できない貴重な石材とされていました。

 護岸に用いられているのが黒ぼく石(玄武岩)です。箱根火山の活動で海に流れ出た玄武岩質溶岩は、表面に気泡が多くあり、波に洗われて丸みを帯びています。小田原の海岸で採取された黒ぼく石を潮入の護岸に用いたことは、海の景色を表すのには適した石材と言えます。根府川石は京都にも出荷されましたが、この黒ぼく石は京都の庭には相応しくないと思われたのか用いられることはなかったようです。

 さらに豪快な石組を間近で見られるのもこの庭園の醍醐味です。特に大山のふもとにある枯滝石組や根府川山、唐津山の石組は見事です。武士の荒ぶる魂を表現したような石組です。また、中島の蓬莱石組も緊張感があり見ごたえがあります。

 樹木については、庭園入り口にある藤棚が目につきますが、5月初旬になると紫色の花房が1m近くになり、毎年多くの方が長い花房と甘い香りを楽しみに来園します。樹齢200年ともいわれています。

 タブノキは暖かい気候の海岸沿いに多く見られる樹木です。大木になるとお椀を伏せたような半球形の樹冠を形成します。近くの浜離宮恩賜庭園にも多く見られます。雌雄異株です。タブノキは漢字では「椨」と書きますが、中国語では日本でクスノキに用いている「楠」の字で表現しています。

 クロマツは庭園の主木で、常盤木であり大名庭園には多く用いられています。背の高くないマツが景観を引き締めているのが特徴です。

 ハゼノキはもみじが色づく前に鮮やかに紅葉するので、注目を集めています。山野に生える落葉高木で雌雄異株です。果実は外側の果皮がはがれると白いロウ質の中果皮が露出します。果実からはロウが採れるので、古くから栽培されてきました。


藤棚

ハゼノキ


2 庭園の歩き方

 旧芝離宮恩賜庭園はJR浜松町駅から徒歩1分の所にあり、330年前の江戸を感じることができる大名庭園です。このような交通至便な場所に大名庭園があるのは東京では唯一であり、庭園の中に入ると都会とは思えない別世界が待っています。

 さらに、この庭園は大名庭園の醍醐味をコンパクトにまとめた規模であり、大名庭園とは何かを知るのにすべてを兼ね備えている模範的な庭園です。

 庭園を巡る前に確認しておきたいことがあります。この庭園は江戸時代に造られた庭園で330年の歴史がありますが、昔の庭ではないということです。前編でも触れましたが、大久保家から始まった庭園の歴史は持ち主が変わり、改造を重ね、しかも関東大震災や東京大空襲など大きな災害を受けて、大久保忠朝以下歴代の園主が見ていた庭とは異なっています。御殿や迎賓館もなくなりなくなり、樹木もすべて入れ替わっていると言えるでしょう。お殿様やお姫様、皇族、貴族が見ていた庭とは違うのです。しかも現在は服装も履物も違うし、教養も庭に対する価値観も異なっているのです。周囲に高層ビルがあろうはずもなく、大海原が目の前にある時の庭園とはスケール感が異なります。ですから私たちが見ているのは今現在の庭です。それを踏まえて想像力を駆使しながら庭園を一緒に巡りながらこの庭園の見方を探りましょう。

案内図

庭園を一望する


 園内に入ると砂利敷の広場があり、その先に池を中心にした庭園が広がります。ちょうど180度の視野に入るパノラマのような景色が目に入ってきます。これがこの庭園の醍醐味です。高層ビルに囲まれていることとそのビル群が池泉に映っていることが気になりますが、想像力を駆使すれば、330年も続いている「庭園の力」がビル群を圧倒して庭園美を出現させるのです。

 庭園の全貌を見渡してから大泉水沿いに庭園のディテールを見ながら進んでいきます。左手に藤棚があり、右手には旧芝離宮の洋館のレンガの基礎遺構が目に入ります。その脇にある手水鉢は離宮があった時に使用したものです。

 反時計回りの方向に進みます。中央の池は庭園の要であり、約9,000m2です。かつては潮入りの池で海水の干満による景観の変化を楽しみましたが、今は海との繋がりを絶たれているので、現在は淡水池になっています。池には中島、浮島、大島など大小4つの島を築き、洲浜や砂浜、半島など変化に富んだ形をしており、高層ビルから見ると多島海のようにも見えます。池の護岸には黒ぼく石(玄武岩)が使われています。小田原の海岸で採取される黒ぼく石は波で洗われ丸みを帯びているので、海岸の景色を表現するにはふさわしい石材です。

芝離宮洋館の基礎遺構

護岸に用いられた黒ぼく石


 庭園のシンボルともいえる雪見灯籠は花崗岩のゴロタ石を敷き詰めた洲浜の中央に立っていますが、関東大震災で火を浴びたようで、ところどころ黒くくすんでいます。上部を支える3本の脚は安山岩で、火袋や笠は凝灰岩です。風化が激しくざらついており一部が欠けています。

 雪見灯籠を過ぎると砂浜が見えてきます。庭園では珍しい海岸の砂を入れています。かつて見られた江戸湾の砂浜を表現しているのでしょうか。砂浜の先の築山は園内で一番高い大山です。かつては江戸湾の大海原、西に富士山、北に筑波山が望めましたが、現在は、海は埋め立てられ、周囲には高層ビルが立ち並び絶景は失われてしまいました。しかしながらここからは変化に富んだ潮入の池の汀線と多島海のような景色が楽しめます。

 大山から下を見下ろすと枯滝の石組が望めます。両側を切り立った断崖を思わせる石組が壁のように続き、その間を流れる渓谷に大小の滝が流れ落ちる迫力ある石組です。以前はこの渓谷に玉澗流の手法を用いた橋が架かっていました。渓流は園路になっているので厳しい景色の石組の間を通り抜けることができます。岩手県にある国指定名勝及び天然記念物の厳美渓は船に乗って左右の奇岩や大滝など様々な渓谷美を眺めることができますが、この枯滝はそれを写したかのような趣があります。厳美渓の渓谷は凝灰岩ですが、枯滝の石組も凝灰岩が多用されています。

雪見灯籠

砂浜


大山

枯滝石組


 ここで大山の北側にある一直線の西湖堤を渡って中島に行ってみます。西湖堤は中国の蘇堤を模した石橋で小石川後楽園でも造られており、当時は西湖堤を庭に造ることがブームだったようです。西湖堤を渡り中島に行く途中に、中島と浮島を結ぶ飛石が池中に見えますが、これは潮入の池の名残です。中島は仙人が住むという不老不死の地である蓬莱山を模したもので、大名が子孫繁栄を願う神仙蓬莱思想を反映したものと言えます。

 石組は力強く、神仙蓬莱石組とすれば、神仙島を表す蓬莱、方丈(ほうじょう)、瀛州(えいしゅう)、壺梁(こりょう)という4つの島を表現した石組です。

 中島の先には木橋が架かり、泉水の東岸と中島を結んでいますが、現在は通行止めになっているので、大山まで引き返します。なお、潮入の池においては、潮の干満による景の変化と回遊性を高めるために橋の果たす役割は重要です。橋からの眺めがビューポイントであり、また遠くから見るとその橋は庭園の景色となります。

西湖堤

池中に沈む飛石(潮入の池の名残)


中島の石組

浮島


 大山の先には不思議な4本の石柱があり「謎の石柱」と言われています。この場所は馬場があった場所に近いので、駒繋ぎ石とか、砲台観測塔などの説がありますが、柱の由来は長らく謎でした。最近になって東京新聞の記者が取材を重ねた結果、古文書などの解明により、相模の戦国武将、松田憲秀旧邸の門柱だと解明されたそうです。大久保家の上屋敷だった時に、徳川5代将軍綱吉御成の際に立てた富士見の御茶屋の柱に用いたとされました。また、この御茶屋には珊瑚のすだれをかけてあったというので「びいどろ御茶屋」と称したそうです。これで一件落着なのかと思われますが、疑問がいくつかあります。

 まず、御茶屋の柱に用いられたとされますが、私見ではありますが、茶室は千利休が大成した草庵茶であり、質素を旨とするところからも石材を柱に用いるとは考えにくいのです。しかも柱は太いもので高さ約2.3m、幅45㎝と武骨なサイズです。また、御茶屋だとしても石の柱を用いるのかという疑問があります。浜離宮には5カ所の御茶屋がありましたが、石材を柱に用いた御茶屋はありません。石材を御茶屋もしくは茶室に使うのは茶の精神とは異なるように思えます。また、なぜ戦国武将の松田憲秀旧邸から門柱を持ち込んだのか理由などが解明されていません。

 御茶屋については白幡洋三郎著『江戸の大名庭園』にヒントがあります。豊洲に移転した築地市場は、松平定信の作庭した庭園「浴恩園」の跡地にできたのですが、その浴恩園には眺望を楽しむ仮設の見晴らし台を用意していたという記述があります。単に、見晴らしを楽しむだけではなく、野点を行ったり、様々な楽しみ方があったと思われます。仮設の見晴台兼御茶屋を建てるのは大変なので、基礎となる柱を堅固な石柱にして見晴らし台として使う際には石柱部分には幕(ビロードの幕)で覆ったのではないかとも推測されます。

 また、『大久保加賀守芝金杉上屋敷之図』には庭の南側にびいどろ茶屋があったことが表示されていますので、この図とも位置が矛盾します。

 謎が解けたはずなのにますます謎が深まる「謎の石柱」です。

謎の石柱

馬場跡


 「謎の石柱」のそばにはかつて馬場と馬見台があったのですが、今はその面影もありません。池を回り込んで進むと、厳しい表情の石組が見えてきます。「根府川山」です。紀州家時代の図面に「ネブカハ山」「ヒイラギ山」と表示されており、両山は一体でつくられているようで、北面に根府川山の表示があります。根府川山の先には大島があり、島に渡るための橋は鯛の形をした根府川石で「鯛橋」と呼ばれています。

 鯛橋を渡らずに南へ行くと「唐津山」が見えてきます。大久保忠朝が老中就任の際は唐津藩主であったので、それを懐かしみ「唐津山」と名付けたのでしょうか。

根府川山

鯛橋

唐津山


 さて、唐津山を過ぎると、こんもりした築山が2つ見えます。スリバチ山と九尺台です。埋め立て地の庭園は比較的平坦なので、変化をつけるために築山を築いていますが、ここは海の景色を眺めるための要素でもありました。明治天皇が行幸された際に「九尺台」に上り、地元の漁師が網を打つ様子を天覧した記録があります。

 更に進むと、滝の石組があります。潮入の池の名残でしょうか、ここにも池中に飛石や景石を見ることができます。滝を過ぎると海水取入口の跡がありますが今は埋立が進み、潮入の機能を失いました。その役割を終えて滑車などの痕跡だけが残っているのですが、潮入の池であったことを示す貴重な遺構です。海水取り入れ口を過ぎると池泉の畔は黒ぼく石を荒々しく組んだ岸辺護岸が見えてきます。変化に富んだ大泉水ですが、ここだけが直線の岸辺を表し作庭の妙を感じます。

 この岸辺の右手に弓道場があり、一般開放されています(大久保忠朝は文武両道を唱え、園内に馬場と射場を設けています)。

九尺台

滝石組

池中に沈んでいる飛石


海水取入口跡

直線の護岸


 やがて小池が見えてきます。小池は紀州徳川家の時代に造られたようで、大泉水とは異なる池の景観を醸し出しています。そばに春日灯籠がありますが、全体に火を浴びたようにくすんでいます。関東大震災と戦災に遭った記憶なのでしょうか。

 小池そばの大泉水の岸辺には浮灯が据えられています。楽寿園時代に西湖の浮灯籠を模して造られたのですが、昭和47(1972)年の地下トンネル工事における陥没事故で失われ、その後新たに設置されたものです。浮灯籠は潮の干満で灯籠の竿の部分が水につかり、水位の変化を景観として楽しんだのです。ある意味では潮位計の役割を果たしているともいえます。

小池

浮灯

春日灯籠


 藤棚が見えてきてこれで庭園を一周したことになります。池の周囲を巡っていくと次から次へと景色が変わり、飽きることがなく、時には見晴らし台に立ち、大海原を眺め、あるいは富士山を遠望するなど歩きながら景色が変化するシークエンスを楽しむことができましたでしょうか。まさにダイナミックな景観の変化を楽しむことができるのが回遊式庭園なのです。現在は大海原や富士山を眺めることはできませんが、当時の庭園の基本の形が残っているので、大名庭園の醍醐味を十分楽しむことができます。

おわりに

 旧芝離宮恩賜庭園に入り藤棚の前に立ち庭園を眺めると一望のもとに全容が見えます。周囲はビル群で囲まれ、また新たなペデストリアンデッキ(歩行者専用通路)ができるなど、庭園はますます苦境に立たされていますが、それでもここに立つと「庭園の美」を感じます。

 江戸時代1000カ所あった庭園が今は4カ所残るのみで、そのうちの一つがこの庭園です。庭園を理解するには現地(庭園)に行ってみることからすべてが始まります。庭に立てば見えてくるものがあり、見えないものも見えてくるものがあります。今、私は奇跡の庭園の前に立っているのです。

 そこに立つと大久保忠朝さんに出会うことができます。彼もこの場所に立ったのでしょう。見る景色は当時とは異なるかもしれませんが、樹木に区切られた一画の青空は忠朝さんが見た青空と変わらないと思います。

 ジョンレノンが「イマジン」で目を閉じれば国境はないと言ったように、目を閉じれば時代を乗り越えて忠朝さんが見たかもしれない庭園の景色を見ることができるのです。庭園を見るには想像力が必要です。想像力を働かせれば本来の庭の姿が見えてきます。

 忠朝さんが造ってから330年間、営々と引き継がれてきた奇跡の財産を文化財と言います。それは市民のかけがえのない財産で、私たちの存在意義と言っても良いでしょう。ちょっと飛躍しますが、徳川時代をイメージできる空間であるこの庭園があるからこそ、私が今ここに立っているのです。それは受け継いで繋いできたまさに日本の文化なのです。この地を更地にしてビルを建てれば330年続いた庭は瞬く間に消えてしまい、それはもう二度と戻ることはないのです。この庭がなくなるということは、ここに立っている私がなくなることと同じだと言えないでしょうか。それは大げさかもしれませんが、日本の文化がなくなるということです。

 潮入の池がなくなり富士山が見えなくなり眺望を失いながらもなぜこの庭園が奇跡的に残ったのでしょうか。しかもビルに囲まれた庭園の現在の意義はあるのでしょうか。

 答えは庭園の持つ力、すなわち「庭園力」があったからこの庭園は残ったのであり、私たちが存在する限りこの庭は永遠に続くのです。

 庭園を見ながらそのようなことを考えた一日でした。

ジュウガツザクラ(十月桜)

オオバンの群れ

切株から新しい芽が!


コラム 冬支度

 例年、暮れも押し詰まってくると旧芝離宮恩賜庭園も冬支度が整います。門松、雪吊りは当然ですが、今年は珍しい鶴と亀の飾りがお目見えしています。また入り口には兼六園で行われている雪吊り(リンゴ吊り)が設えられ、根元は庭園で一般的な敷松葉ではなく網代に編んだ筵が施され、福寿草が添えられています。

 「良い年になりますように」の願いを込めて庭園の庭師がつくったものです。

雪吊り(リンゴ吊り)

霜除け


福寿草と市松模様の筵

鶴と亀の飾り


参考文献・引用文献

  1. 庭園の美・造園の心(白幡洋三郎 NHK出版)
  2. 大名庭園(白幡洋三郎 講談社選書)
  3. 名園の見どころ(河原武敏 東京農業大学出版会)
  4. 東京名庭を歩く(桜田通雄他 JTB)
  5. すぐわかる日本庭園の見かた(尼﨑博正監修 東京美術)
  6. 都立公園ガイド(東京都建設局公園緑地部)
  7. 東京の庭(西田富三郎 金園社)
  8. 江戸の都市計画(童門冬二 文春文庫)
  9. 東京・石と造園100話(小林 章 東京農業大学出版)
  10. 大名庭園(サライ編集部 小学館)
  11. 庭園花めぐり((財)東京都公園協会)
  12. 旧芝離宮庭園(小杉雄三 (財)東京都公園協会)
  13. 都立の庭園(吉川 需監修 (財)東京都公園協会)
  14. 江戸大名下屋敷を考える(児玉幸多監修 雄山閣)
  15. 岩波日本庭園辞典(小野健吉 岩波書店)
  16. 都市公園NO.230号((公財)東京都公園協会)
  17. 『東京都における文化財庭園の保存活用計画(共通編)』(東京都建設局公園緑地部 平成29年3月)
  18. 『東京都における文化財庭園の保存活用計画(旧芝離宮庭園)』(東京都建設局公園緑地部 平成30年8月)

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