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「江戸・東京の名庭園を歩く」バックナンバー

0062019.12.10UP国指定名勝「旧古河庭園」-近代日本庭園の原型を今に残す-

庭園の概要

洋館とテラス花壇)

洋館とテラス花壇

 東京都立旧古河庭園は、北区西ヶ原にあり、バラと洋館、そして近代造園家の第一人者である小川治兵衛作庭の日本庭園を有する近代の日本庭園で、大正初期の庭園の原型をとどめる貴重な存在です。昭和57(1982)年に東京都文化財に指定され、平成23(2013)年には国の名勝に指定された文化財庭園です。
 旧古河庭園の文化財庭園としての価値については名勝指定理由に最もよく表れています。


 旧古河氏庭園は飛鳥山の南東に位置し、台地とその南側の斜面・低地を巧みに取り込んで、大正時代に古河虎之助が造営した。主屋の洋館とそのまわりに設けられた整形式庭園はジョサイア・コンドルの設計により大正6(1917)年に竣工し、台地下の斜面から低地にかけては7代目小川治兵衛(植治)の手による回遊式の日本庭園が大正8(1919)年に完成した。
 東京に特徴的な台地・斜面・低地の地形を生かした庭園は、近代の東京において造営された庭園の典型を示すとともに、台地上の主屋を中心に敷地北部に造られた整形式の洋風庭園、台地の斜面から低地にかけて敷地南部に造られた回遊式の日本庭園、敷地東部に設けられた茶室に伴う露地の3つの部分から成るその構成は、伝統的な手法と近代的な技術の融和により和洋の見事な調和を実現している秀逸で代表的な事例であり、現存する近代の庭園の中でも極めて良好に保存されている数少ない事例として重要である。国指定文化財等データベース(文化庁)

 このように洋館及び洋風庭園の「洋」と、回遊式の日本庭園及び茶室の「和」が見事に調和した「和洋併置式庭園」とも呼べる旧古河庭園は、春と秋のバラそして紅葉が人気で、年間30万人近くが訪れる観光スポットになっています。

  • 開園年月日 昭和31年4月30日
  • 開園面積  30,780.86平方メートル(平成27年7月1日現在)

旧古河庭園の空間構成

 近代の庭園は明治維新後の西洋の文化を取入れる欧化思想の影響を受けています。それまでの江戸時代の庭園の特徴を生かしながら、今までには無かった洋館と建物の前に広がる芝庭が新たに導入されたことが大きな特徴です。しかし、完全に西洋式建築と庭園を取入れたのではなく、日本人のテイストが見え隠れしています。洋館に対して和館があり、生活は和館で、外国人を含む客人の接待は洋館で行うなど完全なる西洋を拒否して、日本人の感性をモザイク状に入れた新しい様式が近代日本庭園です。
 それは、日本初の西洋式公園を目指した日比谷公園が、完全な西洋式であった辰野金吾の案を退け、日本の色を残した長岡安平の案を拒否し、結果として見た目は西洋式でありながら中身は和の世界があちこちに見受けられる本多静六の案が採用されたのと同様の日本人の感性(西洋文化を受け入れながらも完全なる西洋文化は拒否し、西洋文化に日本の感性をまぶして変形させる意識)が見受けられるのと同じではないでしょうか。
 地形的に見ると旧古河庭園の敷地は、北側に台地があり、その縁(へり)が崖となって、大昔は海に接していた地形の名残の低地と繋がる高低差が十数メートルある変化に富んだ地形です。武蔵野台地(上野台地)に西洋式の建物と庭園を配置して「洋」の世界を展開し、日本庭園の特徴を生かせる崖線と低地に回遊式の日本庭園と茶室を配して「和」の世界を表現しています。

1)西洋式建築と庭園

 正門から入ってすぐ目に付く洋館は、「日本の近代西洋建築の父」といわれたジョサイア・コンドル(1852?1920)最晩年の設計であり、大正6(1918)年に竣工した英国の別荘風洋館です。建物の規模は延414坪で2階建・地下1階です。主構造は煉瓦造、小屋組と床梁は木造で一部に鉄骨梁を使用しています。外壁は真鶴産新小松石(安山岩)の野面石積みで、切妻屋根は天然スレート葺きです。出窓や玄関ポーチの屋根は銅板瓦棒葺きとなっています。
 1階は完全な洋間ですが、2階は見た目には洋間なのですが扉を開けると和室になっていて、仏間もあります。コンドルが西洋文化と日本文化の融合を目指して到達した最後の建築デザインといえます。
 建物を取り巻く洋風庭園(ビクトリア朝のイタリア(テラス)式)もジョサイア・コンドルの設計です。台地からつらなる崖線をうまく生かした三段のテラス式庭園は洋館から見下ろす構図になっていて、建物周囲の上段はバラやユッカランで、中段がバラ園、そして三段目はツツジの植栽となり、そこから日本庭園へと緩やかにフェイドアウトする絶妙な設計となっています。
 バラ園のバラは約100種類あり、その特徴は王室や皇族にちなむ名前のバラが多いことです。プリンセス・ミチコ(美智子上皇后)、エグランタイン(雅子皇后)、黄木香(眞子内親王)、ロイヤル・プリンセス(愛子内親王)、クイーン・エリザベス(エリザベス女王)、プリンセス・オブ・ウェールズ(故ダイアナ元妃)などがあります。このほか現代バラ(モダンローズ)第一号のラ・フランスや20世紀を代表するバラと言われるピースやクレオパトラ、カトリーヌ・ドゥヌーブ、マリア・カラスなど世界的な女優や歌手などの名前が付いたバラがあり妍を競っています。

洋館

洋館

バラ園

バラ園

バラ(カトリーヌ・ドゥヌーブ)

バラ(カトリーヌ・ドゥヌーブ)


黒ボクの石積

黒ボクの石積

 西洋式庭園と日本庭園を繋ぐ斜面には黒ボク石積があります。黒ボクは富士山の溶岩で、多孔質であり軽く、加工もしやすいので、良い形の庭石の産出が少ない関東エリアで流行しました。黒ボクを組み合わせて大きな庭石に見せる技法は江戸の庭師の腕の見せ所でした。黒ボクを使うと山肌のごつごつした感じが出るので山の中にいる雰囲気を出す石組として用いられています。京都の庭園では黒ボクを見ることは殆どありません。


2)回遊式日本庭園

展望台から見る日本庭園

展望台から見る日本庭園

 斜面と低地を活用して見事な日本庭園を築きあげたのは、京都の庭師・七代目植治こと小川治兵衛(1860?1933)です。明治26(1893)年に平安神宮神苑工事に参加し、明治27(1894)年?29(1896)年には、椿山荘などの庭園を保有し庭園に一家言のある明治・大正時代の政治家山縣有朋の無鄰菴を手掛け、その作庭技術が評判を呼び、当時の日本第一流の造園家と称せられました。その後東山界隈の野村碧雲荘や対龍山荘などを作庭しています。
 東京における小川治兵衛による作庭は、古河虎之助邸のほかに西園寺公望邸、村井吉兵衛邸、鳥居坂の岩崎邸(現在の国際文化会館)、長尾欣也邸宣雨荘などがありますが、原型をしっかりとどめているのは古河邸だけです。
 京都における作庭では、東山や北山、比叡山があり、借景の手法を用いることが可能ですが、関東においては平坦な地形であり、借景の手法を取り入れる対象物が無いのが実情です。そこで眺望を手に入れることが重要であり、高台に邸を構えることが流行となっていました。
 台地上に邸宅を構えるには、富士山や紫峰筑波山を眺められる場所が良い立地条件とされました。
 旧古河庭園も高台に洋館を建て、富士山や筑波山を眺めたものと推測されますが、崖下の日本庭園を造る場所は借景も眺望をかなわない条件でした。そこで植治は洋館と日本庭園を遮るために、本館から斜面には厚く植栽を施し、台地上の洋館を含む「洋」の世界を遮断しました。日本庭園エリアの中心に心字池を穿ち、そこで出た土を池の南側に盛土して築山を築き、周辺植栽を厚くして外部を遮断することにより独立した庭園空間を作り上げました。
 庭園の特徴は池を中心に回遊する池泉回遊式庭園です。水は芝生広場の下あたりの台地が崖になる高低差を利用した十数メートルの高所から落ちる大滝から流れ出て心字池に入ります。滝は断崖を流れ落ちるように園内の最も勾配の急なところをさらに削り造り上げた滝で、濃い樹林が一層深山幽谷の景を醸し出しています。また、心字池南側には日本庭園のシンボルである雪見灯籠を配し、大滝に向き合う枯滝があり、その上は見晴らし台となっています。
 中島の北を流れる渓谷は、「小川治兵衛が最も力を入れた場所の一つであり、また数ある氏の作庭の中でも当庭園の渓谷風の流れは珍しい。まさに人工の粋を尽くした自然の描写は素晴らしい。」と解説板に記されているように絶景です。

大滝

大滝

雪吊

雪吊


雪見灯籠

雪見灯籠

枯滝

枯滝


 回遊式日本庭園とは区画を異にして、茶室ゾーンと呼ぶべき空間が日本庭園の東側にあります。茶室の土留めとして施工された見事な崩れ石積は関東ではあまり見かけませんが、京都ではよく用いられる手法です。簡素な庭門をくぐると左手上方に「上の茶屋」がありますが、一般公開はされていません。公開されている茶室は14坪程度の数寄屋で八畳の部屋と水屋があるだけです。茶室前にはモミジが植栽され苔が覆う小庭で、左手には枯滝があるようにも見えます。大滝を男滝と見立てた場合の女滝に擬せられています。ここは台地上の「洋」の空間と日本庭園からも隔絶された露地空間として独立した雰囲気があります。

茶室

茶室

女滝

女滝

崩れ石積

崩れ石積


見落とせない演出

1)庭園へのアプローチ

馬車道

馬車道

 旧古河庭園には本郷通りの坂を登り切った西ヶ原交差点のところの正門から入るのが通常ですが、大正の頃は賓客が馬車で庭園を訪れることが多かったようで、馬車専用の園路が作られていました。庭園の南側にある染井門前は現在「旧古河庭園児童遊園」に改変されていて門は閉鎖され、庭園に入ることは出来ませんが、ここが馬車で来た客人の入口でした。門の内側には園路幅が6メートルもある馬車道があり、洋館前の車廻しまで続いています。このアプローチは緩やかなカーブを描いており、園内に入っても庭園や建物が直ぐには見えません。庭園の手法として目的物をすぐに見せないで、カーブを曲がったら何かがあるのではと期待感を持たせる手法が用いられています。旧岩崎庭園のアプローチ、殿ヶ谷戸庭園のアプローチも同様です。数度カーブを曲がった時に、突然、洋館の雄姿が現れます。


2)新小松石の石積み

新小松石の石積

新小松石の石積

 新小松石は真鶴の小松で採取される安山岩です。旧古河庭園の洋館の外壁に用いられていますが、庭園東側本郷通りの坂(大炊介坂)の脇の石積にも使われています。この石積は高さが3.6メートルもある新小松石のこぶ出し石積で、石材面を突出させて凹凸(こぶ)を目立たせる技法で、こぶが5センチ以上も突出しています。こぶの分だけ石材を必要とするわけですから贅沢で豪華なな石積といえます。


3)気になる樹木

・ヒマラヤスギ 庭園の入口を入ると大きなヒマラヤスギ(マツ科ヒマラヤスギ属)の巨木が目に入ります。大きいものだと直径1メートル位あります。30本くらいある綺麗な円錐形のヒマラヤスギは芝生広場の東側に並び、芝生広場が独立した空間に見えます。
・ブラシノキ 名前からどのような樹だろうと想像できないのですが、花が咲くとなるほどと思います。試験管を洗うブラシのような形をした赤い花が5月中旬?下旬くらいに洋館前の花壇脇で咲きます。

ヒマラヤスギ

ヒマラヤスギ

ブラシノキ

ブラシノキ


4)灯籠

奥の院型灯籠

奥の院型灯籠

 旧古河庭園には巨大な灯籠が12基あります。雪見灯籠は庭園のシンボルでビューポイントになっています。奥の院型灯籠は3基あり、その中でも庭園東側にある灯籠は高さが15尺(約4.5m)ある巨大灯籠です。当時庭園には大きな灯籠を用いることが流行していたようです。植治は大きな灯籠は好まなかったのですが、施主の要望であればそれを聞き入れ、さりげなく配置する技を駆使して巨大さを打ち消しています。


氷紋敷

氷紋敷

5)氷紋敷

 茶室回りの貼り石をよく見ると氷が割れたような貼り方になっています。氷紋敷という技法です。めったに見られない技法で、このようなところに庭園の技が隠れています。


おわりに

 旧古河庭園は近代にできた庭園が次々と姿を消す中で、今もその時代の形を残している貴重な庭園です。それは奇跡と言って良いのではないでしょうか。
 庭園は春夏秋冬いつでもその表情を変えて迎えてくれます。庭園を訪れた際には、当時の人物になりきって庭園を「見る・知る・遊ぶ」で楽しんでください。

旧古河庭園案内図

旧古河庭園案内図


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