「周囲を緑の森が取り囲む中に甍の屋根が連なり、屋敷の中には庭の緑が垣間見える。海岸沿いも緑で覆われている」
これは約300年前の江戸を鳥の目で見た情景です。三百諸侯の大名が上・中・下屋敷を持ちそれぞれの屋敷に大きな庭園を造っていたので約1000カ所もの庭園があったのです。さらに手付かずの自然も残っていました。江戸は庭園都市だったのです。
庭園都市・江戸の成り立ちは徳川家康が1590年8月朔日に江戸城に入城した時から始まります。北条氏の小田原城攻めの論功行賞で豊臣秀吉から命じられ、駿河、三河などの地盤であった地を失った代わりに移封されたのです。しかし、1603年に征夷大将軍に任じられ江戸に幕府を置き、本格的な町づくりが始まりました。町づくりが進んだ1657年、江戸は大火に見舞われます。明暦の大火で、世にいう振袖火事です。死者10余万人、江戸の大半を焼き尽くした大火でした。幕府は危険分散として大名に上・中・下屋敷を与えました。これが大名庭園を発展させる契機となりました。広大な屋敷地に建物を建ててもまだ土地に余裕があり、そこに庭園を造ったのです。
江戸の大名庭園の特徴を京都の庭園と比べてみます。
?大規模であること。例えば浜離宮は250,000m2です。著名な竜安寺の石庭は100坪(約330m2)なので約800倍です。
?おおらかな作庭。規模が大きいということで京都の庭園のように緻密な作庭をせず、各々の景色はむしろ自己主張しない添景として造られています。
?大きな池と芝生の効果。大きな池は広がりを感じさせます。また、芝生も広がりを演出しますが、苔の庭ではできない園内を歩き回ることが可能になり、遊興の場としての活用が生まれました。また、浜離宮や旧芝離宮庭園にあった潮入りの池は江戸大名庭園の最大の特徴です。潮の満ち干で景色が変わる庭園は京都にはない江戸庭園文化が発明した様式です。
?映画のような演出。大名庭園を歩いていると次から次へと景色が変化します。まるで映画をみているようです。これをシークエンスと言います。歩きながら庭園を楽しむので回遊式庭園と言われます。
?実用の庭。江戸大名庭園には鴨場、馬場、薬草園などがあり、饗宴、饗応、慰安などいろいろな体験が出来る「使う」庭です。
次に大名庭園はどのように使われたのでしょうか。
初期の大名屋敷の庭は将軍の御成を盛り上げる儀式の舞台でした。その後、大名庭園と呼ばれるようになると儀式よりも饗応や饗宴、慰安の場となりました。小石川後楽園では、当時大泉水に架かっていた長橋の中央部の舞台で、徳川光圀が大日本史編纂に関わった家臣を慰労したと言われています。また、浜離宮では遊びに来た奥方たちが魚釣りを楽しみ、いくらでも釣れるので楽しくてお城に帰りたくないとお付きの者を困らせたそうです。
庭園都市は明治維新により江戸幕府が消滅すると時を同じくして無くなりました。さらに関東大震災や東京大空襲により残された庭園もほとんどその姿を消してしまいました。庭園都市・江戸は消滅したのです。しかし、現在でも奇跡的に残っている江戸の大名庭園は、小石川後楽園、浜離宮恩賜庭園、六義園、旧芝離宮恩賜庭園の4庭園だけです。
ところで、築地市場の移転が話題になっています。この秋に豊洲市場に移転した跡地はどのようになるのでしょうか。実はこの地には明治の初めまで寛政の改革で知られる松平定信が造った「浴恩園」という池泉回遊式の名園がありました。明治維新の近代化の波に押し流されて海軍用地となり、1923年に日本橋にあった魚市場がこの地に移転して来て浴恩園は完全に消滅しました。
私の夢ですが、築地市場跡地を商業ビルにするのではなく、浴恩園を復元することができないでしょうか。浴恩園の隣は浜離宮恩賜庭園です。その隣は「旧芝離宮恩賜庭園があり、そのそばに日比谷公園があります。公園の隣は皇居に繋がるのです。まさに、庭園都市・江戸の復元になるのです。韓国ではチョン・ゲチョンの復元で世界的な話題を集めました。庭園都市・江戸を復元すればさらに大きな話題になると思います。
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