JR浜松町駅から徒歩1分のところにある都立旧芝離宮恩賜庭園は、典型的な大名庭園です。江戸時代に作庭された江戸の庭園の中でも小石川後楽園とともに最も古い庭園の一つであり、国指定名勝の文化財庭園です。しかも都立9庭園の中で最も駅から近い庭園でもあります。
この庭園は延宝6(1678)年に大久保忠朝(ただとも)が将軍から拝領した土地に作庭した庭園「楽寿園」が始まりで、そこから数奇な運命を経て今日に至る貴重な庭園です。
現在、江戸時代における江戸の大名庭園の遺構をしっかり残している庭園は、小石川後楽園、浜離宮恩賜庭園、六義園とこの旧芝離宮恩賜庭園しかありません。当時、江戸には300諸侯がおり、それぞれが上・中・下屋敷や抱屋敷を構え、それぞれの屋敷に庭園があったとされます。江戸には1000以上の大名庭園が存在する庭園都市でした。現在残されている大名庭園は4箇所ですから、1000分の4、すなわち0.4%しか残されてないことになり、まさに奇跡の庭園といえます。
京都大学名誉教授の白幡洋三郎氏が「じつに完成された回遊式庭園だと思える。回遊式の頂点をきわめた庭園に見えてくる」と評したこの庭園の歴史を紐解きながら、その特徴や見どころを探っていきます。
1 所在地 | 港区海岸1-4-1 |
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2 作庭年代 | 江戸時代初期 |
3 創建者 | 大久保忠朝 |
4 様式 | 池泉回遊式(大名庭園) |
5 面積 | 43,075.53m2(東京ドーム=46,755.0m2とほぼ同等) |
6 開園年月日 | 大正13(1924)年4月20日 |
7 指定 | 国指定名勝(昭和54(1979)年6月25日指定) |
8 樹木数 | 高木 1,929本 低木 3,059株+652m2 芝生 5,453m2 |
9 主な植物 | クロマツ クスノキ タブノキ フジ ハゼノキ サツキ ハナショウブ キキョウ ツワブキ ヒガンバナ |
10 名勝指定理由 | 元禄年間、小田原藩主大久保氏の上屋敷経営にともなって作庭され、「楽寿園」と称したと伝える。のち清水家、紀州徳川家と伝わり、明治8年宮内省の所管に移り、翌9年離宮となった。 庭園の地割の主体は岬・入江など屈曲の多い汀線で囲まれた広い池であって、池中央の中島の東西に橋を架し、南部に1島、北部に2島の中島を置く。池汀の北と西に州浜を、東辺中央部と南辺に築山石組を、西辺中部には枯滝石組を配する。 地割、石組などよく旧規をのこし、江戸時代大名庭の作庭技法を伝える優秀な庭園である。 (以上 国指定文化財等データベース より引用) |
寛永9(1632)年に作られたとされる『豊嶋郡江戸庄図』では、50年後に四代将軍家綱の老中、大久保忠朝が拝領することになる屋敷地は、葦が茂る将軍家の御鷹場であったことがわかります。江戸は日比谷入江や江戸湾の埋め立てで発展しました。土木技術が発達して、潮の満ち干にも耐える石垣を造ることができるようになったことが埋め立て造成の発展への鍵となったのです。かつては海面だったところを大久保忠朝が拝領してから旧芝離宮恩賜庭園の歴史が始まりました。
明暦(1655~1658)の頃に埋め立てられた土地を、延宝6(1678)年当時に唐津藩主であった大久保忠朝が老中就任(1677年)に際し、徳川4代将軍家綱から1万378坪(約35,000m2)の埋立地を拝領しました。その後、忠朝は延宝6(1678)年正月に下総佐倉の城主となり、貞享3(1686)年正月には、祖父忠隣(ただちか)がかつて藩主の座を追われた相模国小田原藩主となっています。
昭和初年に龍居松之助氏(一般社団法人日本庭園協会名誉会長龍居竹之介氏のご尊父)が大久保家文書から貴重な庭園資料である『楽寿園記』を発見しました。この資料は貞享3(1686)年に書かれたとされ、そこからは忠朝が作庭した庭園は「楽寿園」と命名され、「観日荘」と名付けられた殿舎や「月波」と扁額をかけた楼閣があったと記されています。また、海水を庭園に引き入れた「潮入の池」がすでに存在していることがわかります。園の東に馬場が設けられ、弓の射場もあるなど武士の庭としての体裁も整えられていたようです。すなわち、現在の庭園の原形がすでにこのころ出来上がっていたと考えられます。
園名については、「この園はすなわち、四時の勝状同じからずして八面の風景をあわせ具う。なかんずくその安きは人理においてなり。彼の山の千古遷らざるがごとく、其の達するは事理においてなり。此の海の万里周流して必ず要むるがごとく、太守の得たるは智仁の楽寿なり。これ其の名を取たる所以なり。」と園名の由来としています。
さて、一般的には屋敷地を拝領してからそう遅くない時期に庭づくりが始められると想定されます。しかしながら、文献資料には「忠朝が祖父忠隣の領地であった小田原から庭師を呼び、作庭が行われたといわれている」とするものがあります。忠朝が老中としてこの地を拝領したのは忠隣が改易された64年後のことであり、小田原城主に復帰したのはさらにその8年後(改易から72年目)でしたから、小田原から庭師を呼び寄せたという記述には疑問を感じます。
1629(寛永6)年に小石川後楽園が作庭された際には京都から高家の庭師・徳大寺左兵衛が呼び寄せられており、江戸には大きな庭を造るだけの庭師がまだ育っていなかったと推定されます。それを思えば、小田原に庭師が十分育っていたとも思えないので、作庭当初に小田原の庭師を呼び寄せたとするのは妥当なのでしょうか。
忠朝は元禄11(1698)年に家督を忠増に譲り、「木工頭:もくのかみ」と号してこの庭を隠居所としました。老中の職にあれば庭づくりもままならないであろうことを想像すれば、隠居後に小田原から庭師を呼んで自分好みの庭に作り直したのではないかと想像されます。
忠朝以後に、何度か加増があり、忠朝から6代目に当たる忠顕(ただあき)の時には総面積約48,600m2となっています。
『大久保加賀守芝金杉上屋敷之図』という安永5(1776)年~天明2(1782)年頃の図面を読み解くと、池の北西に御殿、南西に家臣の長屋など建物群が目立ちます。庭の中央を池が大きく占め、海側は「原」と表記されています。中島には橋が2橋架かり、浮島との間は沢渡りで結ばれています。南側にはびいどろ茶屋の表示があります。ガラス障子の茶屋の事と思われます。同絵図には池を中心に樹木が茂り中島が大きく描かれ、後方には築山群が描かれています。絵図左側には円筒形に整形された樹木の刈込が異彩を放っています。海には白保の帆船が三艘見えます。西湖の堤も表現されています。
二宮尊徳を登用して、藩政改革を行った第7代藩主大久保忠真(ただざね)は、文政元(1818)年に老中に任ぜられることになりました。上屋敷は江戸城近くに移され、楽寿園を手放すことになり、大久保家としての楽寿園は約140年の歴史を以て幕を閉じました。そのあとに下総国佐倉藩2代藩主・堀田正順の世嗣(長男)である堀田相模守正功(まさこと)が拝領したと関係資料にはあるのですが、正功は享和2(1802)年に早世しているので矛盾があり、当時の下総国佐倉藩4代藩主・堀田正愛(まさちか)と思われます。堀田家の時代は短く約4年半で文政6(1823)年に御三卿の清水家(4代斉明)の下屋敷となります。
11代将軍家斉の49人目の男子は、文政10(1827)年に清水家の養子となり、元服して第5代斉彊(なりかつ)と名を改めます。弘化3(1846)年には御三家の一つ紀州徳川家の養子になります。この時点で清水家下屋敷は紀州徳川家が敷地を拝領し、「芝御屋敷」と称されるようになりました。
弘化4(1847)年8月には第12代将軍家慶が浜御殿御成りの途中に来園しています。また、嘉永6(1853)年のペリー率いる黒船襲来騒ぎに際して、紀州藩はお屋敷内の南東に砲台を築きました。この頃の『芝御屋敷御庭略図』によると、敷地の南西の長屋はなくなり、大泉水の南西に「大山」が築かれています。馬場の北側には4本の柱があり、大山と四本の柱の中間に枯滝があり、臥龍橋が架かっています。東側中央から東南にかけては「ヒイラギ山」「ネブカハ山」「唐津山」「スリバチ山」「九脚」などが設けられて、ほぼ現状に近くなっています。
明治維新後には芝御屋敷は紀州藩邸でしたが、明治4(1871)年に有栖川宮家の所有となります。明治8(1875)年には、明治天皇が行幸され、東側(海側)にある築山「九尺台」に上って芝浦の漁業のありさまを天覧され、その後、馬見所で休憩したとされます。
明治8(1875)年に当地を皇室が買い上げて、英昭皇太后の非常時御立退所(おたちのきしょ:避難場所)としました。翌明治9(1876)年に芝離宮と命名され、明治24(1891)年に洋館(154坪)が建ちました。浜離宮の延遼館に替わる迎賓館として、アメリカ元大統領グラント将軍、イタリアやドイツの皇族、ロシアの陸軍大臣クロパトキン、韓国皇太子、オーストリアのフェルジナンド親王など多くの外国賓客を迎えています。
迎賓館の設計者は内匠寮の足立鶴吉で、エリザベス式ルネサンス様式を基調にしたスティックスタイルを採用しています。ちなみに延遼館は1869~1889年で廃止となり鹿鳴館時代は1883~1887年と短期間で終焉を迎えています。
明治28(1895)年には、既存の邸宅部分を日本館に改装しています。
大正12(1923)年に起きた関東大震災により、芝離宮は迎賓館を含む建物と樹木の総てを焼失してしまいました。
大震災の傷を受けた芝離宮は、大正13(1924)年に皇太子殿下(後の昭和天皇)のご成婚の記念として上野公園(上野恩賜公園)・猿江公園(猿江恩賜公園)とともに東京市に下賜されました。
これらの下賜を機に東京市では恩賜公園の重要事項を調査審議するための常設委員会条例が制定され、井の頭恩賜公園(大正2(1913)年下賜)、上野公園、旧芝離宮、南葛飾第一御料地(後の猿江恩賜公園)を対象とする委員会が設置されました。
旧芝離宮については東京市の公園課長・井下清の立案により復旧整備工事が短期間のうちに進められました。のちに東京の公園の育ての親と言われた井下清の案は、名園を早急に復旧し市民に公開したいという意気込みを感じるもので、復旧計画は以下の通りです。
芝離宮御下附ニ就テ
芝離宮ノ主ナル建物ハ全部焼失セルモ苑池ノ被害ハ案外僅少ニシテ之ヲ原形ニ復スル事難シトセズ。
本園ハ観賞本位ノ廻遊式林泉ニシテ歴史的ニモ芸術的ニモ価値極メテ高キモノナレバ別紙ノ方針ニ従ツテ苑池ノ復旧策ヲ講ジ散策地区ト入園時間ノ制限ヲ附シ之レヲ公開スレバ市内有数ノ散策休養公園トシテ一ツハ名園ヲ保存利用シ一ツハ市民ヲシテ広ク聖恩ニ沐セシムルコトヲ得ベシ。
計画説明
焼失地ノ一部ハ芝張広場トナシ一部ハ細砂広場トシ清楚ナル休憩所ヲ建設スルニ止ム。
庭園周囲ノ内鉄道線路側ニハ高六尺ノ簡単ナル鉄柵ヲ設ク。
植樹ハ境界沿其他焼失セル個所ハ可及的旧景ニ近似セシメ植替ヲナシ藤棚、池縁、橋梁、四阿、水門等ノ焼失破損崩壊セルモノハ総テ在来通リ修築シ共用水栓、便所、電燈、露床、門等ヲ新設シ庭園ヲ公開スルニ必要ナル設備ヲナスモノトスル。
以上の復旧計画に基づき整備は迅速に進められ、大正13(1924)年4月20日に「旧芝離宮庭園」として開園(無料で一般公開)の運びとなりました。なお、開園名称は8ヶ月後に「旧芝離宮恩賜庭園」と改称しています。
海側については、大正12(1923)年3月から(関東大震災による一時の中断がある)庭園東側海面埋め立てが行われていましたが、昭和5年5月に工事がひとまず竣工したことにより、この庭園は海の景観を失うことになりました。
昭和8(1933)年11月、明治天皇聖跡として「旧芝離宮址」の名称で国の史蹟に指定されました。しかし、昭和20(1945)年戦災で再び荒廃し、昭和23年6月には史蹟指定が解除されることになりましたが、昭和54(1979)年6月に国の指定名勝となっています。
現在は東京市から東京都になり、平成18年からは指定管理者制度のもとに公益財団法人東京都公園協会が旧芝離宮恩賜庭園の管理運営の指定管理者となっています。
以上、持ち主について整理すると下記のように九つの時代に区分されます。
旧芝離宮恩賜庭園は、最初に庭園が完成されていたとする貞享3(1686)年から今日まで約330年の歴史の中で、庭園の危機ともいえる災害や事件があり、それらの様々な試練を乗り越えて、今日存在しているのです。
宝永4(1707)年11月に富士山が噴火し、楽寿園にも白い灰が数日降り続いて雪のように白くなったと伝えられています。国元の小田原は降灰により「豊かであった田畑は荒蕪地」となり、藩政に大きな影響を与える被害を被ることになりました。天明2(1782)年には小田原を中心とする大地震が起きて藩の財政を圧迫する被害が生じるなど、庭園の管理にも支障をきたしたのではないかと推測されます。
なお、明治維新で幕藩体制が崩壊し、明治新政府が樹立され新しい体制が確立し、芝御屋敷も芝離宮となりました。
芝離宮以降、さまざまな危機が庭園を襲いますが、この庭園が持っている「庭園力」によって危機を乗り越えて今日に至るのです。昭和54(1979)年には名勝に指定されています。
明治以降の庭園の主な災害は、都市化に伴う敷地の減少や利用の形態そして景観の変化です。以下主な災害・事件を列挙します。
以上のように旧芝離宮恩賜庭園は数々の試練を乗り越えて今日残されている数少ない江戸の大名庭園ですが、ここにおいて大きな局面に立たされています。
令和4(2022)年4月に浜松町駅から竹芝桟橋を結ぶ新しいペデストリアンデッキ(歩行者専用通路:関係者はペデと呼んでいます)が設置されました。地上16mの地点に幅6mの歩行者のための専用通路です。ある有識者は「日常では見ることができないパースペクティブ(透視図法的)な視点で庭園を鑑賞することができるし、庭園のディテールまでよく見える」として、「竹芝のデッキは日本庭園が超高層の街を牽引することができるほどのエネルギーを持っているのだということを改めて教えてくれた」と絶賛していますが、果たしてそうなのでしょうか。
庭園を見るということはどういうことなのでしょうか。ペデから見る庭園は絵葉書の中の庭園を見ることと同じではないでしょうか。庭園を見るためにこのペデを通っているわけではなく、通行者はちらみをする程度でしょう。また、毎日通っている人は日常の中で関心も薄くなっていくものです。
このペデは浜松町駅から竹芝桟橋とを信号なしで最短で結ぶ機能が目的であり、庭園を鑑賞するために造られたのではありません。しかもガラス越しに見ることになっていて、このペデから庭園の中心部まで50mもあるため、庭園のディテールがわかるはずもありません。さらに庭園外周には樹木があるので、その全容はつかめない状態です。
開通後の状況は、利用者が一番多い朝の通勤時には会社へ急ぐ人に庭を立ち止まって眺める余裕はなく、庭園鑑賞のテラスがあるわけでもなく、庭園をじっくりと見る人はいないに等しいのです。
庭園を鑑賞するということは、「歴史を感じながらその場に立って季節や生きている実感を五感で楽しむ」ものです。庭園から東側を見ると、横にのびるペデの直線が視覚に煩わしく、また、ペデを利用する人々は空中を浮遊するように見えるので不思議な違和感を覚えます。
この件について一般社団法人日本庭園協会名誉会長の龍居竹之介氏が遠州流茶道月刊茶道誌「遠州」2022年3月号に「空と庭」の関係を掲載していますので、その一部を紹介します。
「空を恋する庭の声」
つい先日、東京は浜松町駅三階から旧芝離宮恩賜庭園に沿って竹芝の一ビルまで歩道がつくられ、庭園内からは不釣り合いな景色と思っていましたら、いまは「庭の見物客がたいへん増えて結構」という評価が多く関係者は大喜びなのだそうです。来年は日比谷公園ができて百二十年の記念とかで、あるビルから空中歩道を出し、日比谷通りをまたいで公園を上から楽しまそうとの企てもあるとか。これでは庭と空の握手どころかむしろ関係は逆に遠のくばかりではありませんか。ここは一つじっくりと、空を恋する庭の声、庭を愛する空の声を、みなさんにも聞いていただきたいところではありますね。
一般社団法人 日本庭園協会名誉会長 龍居竹之介
旧芝離宮恩賜庭園から徒歩10分の所にある浜離宮恩賜庭園で、一世紀に一度開花する植物であるとしてセンチュリープランツの別名を持つリュウゼツランの仲間であるアオノリュウゼツラン(青の竜舌蘭)が10年ぶりに開花しました。
5月30日に浜離宮恩賜庭園のTwitterに初投稿されたのは「内堀広場のリュウゼツランの茎が伸びてきています! 数十年に一度咲くと言われ、前回は2012年に開花が確認されました。花が咲いた後は子株を残して枯れてしまいます。花言葉は「繊細」「気高い貴婦人」。開花するまでが楽しみですね。」という開花予告で、花茎が数メートル伸びた様子を紹介していました。
その後、花径はぐんぐん伸びて7月7日には6.6mになり、7月19日に3輪ほど開花しました。花は下部から咲き出し、8月9日にはついに最上部まで咲きました。8月13日の台風で花は終了しましたが、すでに子株ができているので、何十年後かには開花することでしょう。
アオノリュウゼツラン(青の竜舌蘭:リュウゼツラン科属)は北アメリカ・メキシコ原産で、テキーラの原料になります。別名はセンチュリープラント、アガベなどと呼ばれています。とがった葉の形が竜の舌をイメージさせることが名前の由来です。実は「一回結実性」という非常にめずらしい特徴があります。30年以上という長い期間を準備期間に使って、アオノリュウゼツランは花を咲かせます。そして開花し、実をつけたあとは、そのまま枯れてしまうのです。長い期間をかけて葉に栄養分を蓄えていたアオノリュウゼツランは、「開花期」になると葉から茎へと栄養分を移動させます。そして下の葉が枯れるのと同じ時期に、花茎が急生長するのです。1日10センチというスピードで生長を続け、2ヶ月ほどで開花が始まります。
後半がアップされるのを楽しみにしています。
”明治3(1970)年に紀州徳川家は”の箇所は正しくは(1870)年と思われますので修正ください。
(編集部より)
ご指摘ありがとうございます。
修正いたしました。
(2022.11.11)
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