年が改まり令和4年となり、歌舞伎座の公演を検索していると「二月大歌舞伎」第一部『元禄忠臣蔵』の「御浜御殿綱豊卿」とあるのに気がつきました。これは浜離宮恩賜庭園(以後浜離宮)の前身である江戸時代の浜御殿が舞台になっているのだろうと察しがつきましたが、浜離宮が歌舞伎の舞台になっているとは思いもよらなかったので興味がわき、二月の小雪が舞う寒い日に歌舞伎座を訪れました。
『元禄忠臣蔵』は、劇作家で小説家である真山青果(1878~1948)が、松竹の創業者である大谷竹次郎の依頼を受け、元禄15年12月14日(1703年1月30日)の赤穂浪士の討ち入りを題材とし、今までとは異なる視点で書き上げた全10編の大作戯曲です。昭和9(1934)年2月初演の最終話・第10編『大石最後の一日』から始まり、昭和16(1941)年11月初演の第8編『泉岳寺の一日』までの約7年間で、計10編11作が好評のうちに制作・上演されました。新歌舞伎の名作とされています。その中でも、「御浜御殿綱豊卿」は今日でもしばしば上演される人気の演目だそうです。
「御浜御殿綱豊卿」は2幕物で第1幕は舞台が浜御殿の松の御茶屋になり、中島の御茶屋も登場します。甲府宰相綱豊(のちの第6代将軍家宣)が浜手屋敷(浜御殿)で催した当時の庭園の大名の遊び“小浜遊び”を再現し、次の将軍職になる可能性のある綱豊の難しい立場と、それを取り巻く奥女中との人間関係を描いています。
第2幕は、浅野家再興をどうするかを悩む綱豊と新井勘解由(白石)との台詞回しと、綱豊と赤穂浪士の一人である富森助右衛門(浅野内匠頭長矩の小姓として仕え寵愛を受ける)との本心を探って繰り広げられる重厚で緊迫した台詞の応酬は見ものです。最後は、能装束の綱豊と槍を抱えた富森助右衛門の立ち廻りが演じられ、歌舞伎の様式美を示した後、豊綱が「義」の本質を助右衛門に切々と説く長台詞が聞きどころになります。
久々に観た歌舞伎の様式美を堪能するとともに、歌舞伎の舞台となった浜離宮の長い歴史に思いを馳せることになりました。
それでは、歌舞伎の舞台になった浜離宮の波乱万丈の歴史を紐解いていきましょう。
浜離宮は江戸の大名庭園を代表する庭園で、江戸の発明と言われる潮入の池を中心にした回遊式庭園です。浜離宮はおよそ500m四方の四角形をしていて、面積は250,000m2で東京ドーム(46,755m2)の約5.4倍という広大な広さを誇っています。なお史跡範囲には、園内全域に加えて海上50間(91m)、河川上10間(18m)が含まれています。
文化財としては特別名勝・特別史跡に指定されています。これは日本の庭園では6カ所しかないうちの一つです。東京では小石川後楽園、京都では金閣寺庭園、銀閣寺庭園、醍醐寺三宝院庭園と奈良の平城京左京三条二坊宮跡庭園です。
この庭の特徴は現在、都内では唯一の潮入の庭であること、鴨場を備えていること、御茶屋群が再現されていることや芝生広場や東京湾が目の前にあることによる広がりと眺望があることです。
庭園は、延遼館跡の北庭と潮入の池を含む旧来のお庭の区域である南庭に区分され、南庭は江戸に広く行われた潮入の池で海水たたえた大泉水を中心として景観を整え、また東部及び西部にそれぞれ鴨場を設け、かつては東南部、品川湾を越えてお台場と房総の山々、富士見山から西方遥かに富士山を望む眺望を備えるとともに、おおらかな景色を見せる芝生地は広がりをみせる、江戸大名庭園の典型的な特長をよく保存しています。
なお、浜離宮は「徳川将軍家」のお庭という他の大名庭園にはない軍事機能と饗応の場を備えているという特別な要素があります。浜離宮は徳川将軍家唯一の別邸であり、軍事上、城の外郭の一角を担い、江戸湾から江戸城への入口として渡櫓のある大手門と桝形が備えられています。また京都の公家たちをもてなす饗応の場として潮入の池周辺に配置された御茶屋群や池そのものの釣りや船遊びの機能を有しているのです。
浜離宮の最も充実した時期は第11代将軍家斉の時代とされ、江戸時代に発明された潮入の池を中心として趣の異なる5つの御茶屋と3つの築山や松を拝して移り行く景色を楽しむ回遊式庭園です。当時はお伝い橋を渡り、御茶屋を巡り、築山に登り、近景には大泉水や築山、中景に品川湾や白帆船、遠景に富士山をみるという雄大な眺望が江戸大名庭園の特徴を実によく表していました。
庭園は、その時々の「主:あるじ」が特徴ある景観を作り出したことで変化し続けて今日に至っています。次に当時の「主:あるじ」の庭園観に向き合い、時代を追って庭園の変化し発展した様子を探ってみます。
平成元(1989)年の年間入園者数は約52万人であり、1990年代のバブル崩壊による景気の落ち込みとともに減少しましたが、平成10(1998)年を境として増加していきました。これは都立庭園の管理が東京都直轄から当時の(財)東京都公園協会に委託されて、庭園の魅力を高めることに力を注いだことが大きく寄与しています。
コロナ禍前には70万人強の入園者を数えることになりました。これは都立庭園の外国人入園者が増加したことの影響が大きくかかわっています。都立庭園の外国人入園者は平成24(2012)年度は、入園者数全体のうち外国人の占める割合が11.6%でしたが、平成27年度には18.6%を占めるまでになるなど国の観光施策であるインバウンド増加の効果であり、外国人(特に東アジア人)の増加が、総入園者数の増加につながっているといえます。
浜離宮の地は、寛永年間(1624~1644)までは武州豊島郡江戸庄図(寛永9(1632)年)に見るように、葦の茂る遠浅の海で将軍家の鷹狩の場でした。承応3(1654)年に、4代将軍家綱がこの地を弟の甲府宰相徳川綱重に与え、綱重が埋め立てて邸地としたものです。埋め立ては、海に松杭を打ち込み、土嚢を積んで堤防を作り、海水を抜きとり、神田山などを切り崩して土砂を入れたものと思われます。元禄6(1693)年には現在の形の敷地が出来上がっており、寛文4(1664)年に御殿が建てられると同時に作庭も行われたようです。寛文9(1669)年11月に、築山や池泉など庭園の造営に功績があったとして、反町武兵衛と玄斎という者に褒美が与えられた記録が残っています。
宝永元(1704)年に綱豊が綱吉の継子となり名を家宣と改めたことで、「浜御殿」と呼ばれるようになりました。宝永6(1709)年に家宣は第6代将軍となり、「浜御殿」は徳川将軍家の別邸となりました。
将軍となった家宣は、綱重時代の庭園を大きく改変します。宝永4(1707)年、敷地のほぼ中央に御殿を置き、大手門を建て橋を架け、大泉水や横堀、中島の御茶屋、海手茶屋(汐見の御茶屋)、観音堂、庚申堂、稲生神社、馬場等が設けられ、当時の絵図でそれらを確認でき、この時代に庭園としてのおおよその骨格が形づくられたと想定されます。
まず、大手門や馬場などを設置することで軍事的要素が現れるとともに、大泉水の周囲に御茶屋を配置するなど饗応の場としての庭園の役割が垣間見えることから、現在に通じる回遊式庭園の萌芽を見ることができます。
※徳川綱重(1644~1678)は第3代将軍徳川家光の三男で家康の孫にあたります。慶安4(1651)年に甲府藩15万石の初代藩主となり、甲府宰相と呼ばれます。兄である第4代将軍家綱に先立ち35歳で亡くなり、第5代将軍は弟の綱吉がなりました。綱重の長男が綱豊(1662~1712)であり、のちに第6代将軍家宣となりましたが、将軍在職はわずか3年余りで死去しています。
第8代将軍徳川吉宗は、「享保の改革」を推進しており、それは浜御殿にも及び、役人の大幅な削減や維持管理の効率化を進めました。享保9(1724)年には、火災により御殿、中の御門橋などが焼失し、御殿跡には綱吉の側室であった寿光院、6代将軍家宣の側室、蓮淨院尼と法心院尼が居住する「三尼の館」が建てられましたが、宝暦6(1756)年に火災で焼失した後は、御殿などの建物は再建されませんでした。吉宗の時代には、まさに「実用」としての庭の機能が求められたといえます。織殿、薬草園、製糖所、製塩所、鍛冶小屋、火術所、大砲場等が新たに設置され、また、樹林を切り開き田や畑、水路等が造られるなど実用を重んじた吉宗の庭園観が反映された庭園利用となっています。
※第8代将軍徳川吉宗(1684~1751)は、徳川御三家の紀州藩第2代藩主・徳川光貞の四男で徳川家康の曽孫にあたります。2人の兄が亡くなり紀州藩主となりました。第6代将軍家宣の長男で第7代将軍になった家継が8歳で早世しました。そこで、第2代将軍徳川秀忠の血脈である吉宗が第8代将軍に推挙されたのです。
江戸時代までに、異国の象が日本へやって来たのは7回とされ、室町時代の応永15(1408)年、若狭の国(現在の福井県)に、インド象が到着したのが最初といわれています。その後、豊臣秀吉・徳川家康などへ各国から象が贈られました。
第8代将軍徳川吉宗が直々に注文したともいわれる象は、享保13(1728)年6月に交趾広南(ベトナム)から長崎に到着しました。牡牝2頭の象で、牡は7才、牝は5才でしたが、牝は上陸3ヶ月後に死亡しています。
生き残った牡の象は、通訳官と2人の飼育係とともに3トンもある巨体をゆすってゆっくりと長崎街道を行進しました。長崎を享保14(1729)年3月13日に出発し、4月26日に京都に到着しました。京都では「広南従四位白象」の位を与えられ、朝廷に参内し、中御門天皇、霊元上皇に拝謁しました。ちなみにこの日が日本における「象の日」記念日になっています。
5月25日に江戸に着いたという記録があります。約1200kmの道のりを約80日間かけて長崎から江戸へ到着したのです。
吉宗は江戸城大広間の前庭から、牡の象を観覧したということです。吉宗への拝謁が終わると江戸市中を練り歩いた象は、浜御殿(浜離宮恩賜庭園)に収容されました。江戸の人々は初めて目にした象に驚き興奮し、「象ブーム」が出現し、書籍、瓦版、錦絵などが続々と出版されました。
象は浜離宮のどのあたりで飼われていたのか、明確ではありませんが、現在の花木園の中ではないかと言われています。象は藁、米、笹の葉、草、麦まんじゅう、九年母などを飼料とし、年間200両もの飼料代が掛かり、また、番人を殺すなどの事故があったため、およそ14年間も浜御殿で飼われていましたが、寛保元年(1741年)、中野村の源助に払い下げられました。
源助は見世物として公開する一方、霊獣である象の糞を萬病に効くとして丸薬を売り出し、当時疫病が流行していた江戸の町ではとても良く売れたそうです。
象は寛延(1748~51)頃死んだそうで、現在の中野区の宝仙寺に葬られたそうです。
家斉の治世は、文化文政(化政)時代といわれ、寛政の改革と天保の改革のはざまで、町人文化が栄えた時代でした。園癖(庭好き)・宴癖将軍と言われた家斉は庭園をより楽しく、面白くなるよう大改造しました。潮入の池周辺には、燕の御茶屋、松の御茶屋、藁葺の茶屋(鷹の御茶屋)、お伝い橋、御亭山の腰掛、藤棚等を設けるなど回遊性を高め庭園での楽しみ方を追求しました。その結果、従来の庭園空間に新たな意匠が加えられ、浜離宮の歴史の中で最も充実した時代を迎えたといわれています。家斉が「御成」になった時、庭園には富士山や海原を遠く見渡す眺望があり、新銭座鴨場の池の周辺には草の生い茂る田園が広がり、お伝い橋には藤棚が架かり、潮入の池の周囲には松と芝生が植栽されていたことが記録されています。また、京都から訪れた日野前大納言資愛は池越しに松を見ながら広々とした海に帆船が行きかう景色を気に入り、京都にはない海を背景とする潮入の池と、漁労の見物や釣りを楽しんだといいます。
時代は下り、幕末に黒船が浦賀に来航すると、園内に大砲を設置して軍事訓練を行うなど東京湾に面した立地から軍事施設としての役割が重要視されるようになり、慶応2(1866)年に海軍奉行の所管となりました。このため、敷地南端にあった富士見山を現在の位置に移動し、砲台を備えました。
明治維新により幕府は倒壊し、徳川将軍の庭であった浜御殿は多くの建物が取り壊されました。また、観音堂や他の建物が払い下げられるなど、将軍の庭は様相が一変しました。
明治2(1869)年5月、英国皇子エジンバラ公の訪朝にあわせて、当初、慶応2年に江戸幕府が海軍所の建物として建設を開始して未完成であった石室を、明治2年に完成させました。「延遼館」と名付けた日本最初の洋風建築です。これに伴い、大手門を含む延遼館周辺の園地が延遼館敷地として外国官の所管となりました。延遼館正面には整形の西洋風刈込が左右対称に列植され、延遼館南面には、建物と一体的に利用する社交の場として緩やかな流れと広々とした芝庭が整備されていました。
明治3(1870)年10月、延遼館敷地以外の園地はすべて宮内省の所管となり、「浜離宮」となりました。明治17(1884)年には、延遼館は宮内省に引き継がれ、敷地全体が離宮となりました。延遼館は、明治22(1889)年12月には取り壊しが決定し、明治23(1890)年に解体されています。
戦後、浜離宮は東京都へ下賜されました。物資不足の中でトイレ、人止め策など最小限の整備を行った東京都は、昭和21(1946)年4月1日に「浜離宮恩賜庭園」として一般公開しました。その後も復元整備を進め、昭和23(1948)年12月に史蹟名勝天然紀念物保存法(1919年制定)により名勝及び史蹟に指定されました。昭和27(1952)年周囲の水域部分を文化財範囲に追加指定し、同年11月に文化財保護法による特別名勝及び特別史跡に指定されました。
昭和57・58(1982・1983)年に中島の御茶屋の復元、平成5・6(1993・1994)年に庚申堂鴨場の浚渫、護岸修復工事を行うなど、順次、園内の復元整備を行い、家斉時代の庭園の再現を目指しています。
また、新樋の口山からは海への眺望がありましたが現在は、レインボーブリッジなど、新たな東京のランドマークを望むことになっています。近年、潮入の池の中島にある御茶屋をはじめとして、4か所の御茶屋を復元し、潮入の池に映える眺望がよみがえりました。
大正10(1921)年5月27日に、芝離宮と浜離宮を魚市場用地として宮内省が払い下げることが内定した、という記事が新聞に掲載され、当時の庭園協会(現一般社団法人日本庭園協会)代表である本多静六(日比谷公園設計者)をはじめとする有識者達が、海外と日本での公園面積を比較し、緑地の重要性についての資料を基に、浜離宮存続の意見書を宮内大臣に提出するなど、市場化に強く反対する行動を展開したことにより、浜離宮の消滅は免れたのでした。
また、大正12(1923)年9月1日に発生した関東大震災では、大手門渡櫓や大手門橋、汐見の御茶屋等が焼失しました。その後、太平洋戦争による東京大空襲で、中島の御茶屋、燕の御茶屋、松の御茶屋、鷹の御茶屋、籾倉など、園内の主な建造物はほとんど焼失し、稲生神社や現在の芳梅亭などがわずかに焼失を免れました。
昭和26(1951)年12月には、幅員20mの都市計画道路(放射十八号)が貫通する道路計画が告示されましたが、文化財保護委員会は強く反対し、計画は中止となり、庭園消滅の危機を免れたのです。
その後、首都高速道路建設により園の北西側の汐留川の一部が埋め立てられたり、周辺に高層建築物が林立し、富士見山から富士山を望む眺望が失われました。さらに、東京湾の埋立てが進み、水害対策で昭和40(1965)年代に防潮堤と水門が整備され、庭園の重要な要素であった東京湾の大海原と房総半島の眺望が失われることになりました。
平成7(1995)年から汐留の都市再開発事業が進み、超高層ビルが林立し、富士見山から潮入の池を望むと中島の御茶屋は超高層ビルが屏風のように立ちはだかる景観となっています。
このような状況の中で、東京都は今後の都市づくりに秩序ある美しい景観を創出するため、平成19(2007)年4月に「東京都景観計画-美しく風格のある東京の再生-」を策定しました。計画の中で、良好な景観形成に重点的に取り組む必要がある地区を「景観形成特別地区」とするものです。都立庭園の外周線から概ね100~300mの範囲は「文化財庭園等景観形成特別地区」に指定し、文化財庭園等の眺望が保全されるよう、当該庭園の周辺で計画される建築物等やそれらの色彩等を適切に誘導すことにより都立庭園の景観を保全する法律ができたので、いずれ超高層ビルが庭園のそばに立つことは無くなる可能性が出てきました。
※浮世絵に見る浜離宮
この浮世絵は歌川広重による『名所江戸百景』の「芝うらの風景」で、徳川将軍家の別邸である浜御殿の沖から芝浦を見る景色です。今とは異なり海の上にはお台場が浮かんだように見え、房総の対岸まで見通せる景観でした。白い鳥はユリカモメ、左の海上には台場も描かれています。木の杭は浅瀬であることを示す澪標(みおつくし)です。
現在、庭園というと鑑賞することが第一義のように思われていますが、庭園は「見る」「知る」「楽しむ」ものだと思います。特に庭園を「楽しむ」ことが少なくなっていますが、庭園は楽しんでこそ、その魅力が見えてきます。江戸のお殿様たちや奥方様、お姫様は庭を楽しんでいました。では、浜離宮では、どのような楽しみ方をしていたのでしょうか。
第6第将軍家宣の時代である宝永7(1710)年に公卿達が浜離宮を訪れた際には、和歌を詠んだという記録があります。また家宣は自ら遊覧して楽しむと同時に、乗馬など武芸鍛錬の場として庭園を利用しています。また、家宣が京都の公家や僧侶を招いて饗応した社交の場として使われています。海から離れている京都の人々にとっては、浜御殿の庭が特別な景観として感じられたと推測されます。
第8代将軍の徳川吉宗は薩摩から甘蔗(サトウキビ)の種子を取寄せて黒砂糖を栽培したり、400種もの薬草を栽培するなど様々な研究を行う実用的な試験場として利用しました。また、新刀の鋳造、御家人による騎射の訓練、ベトナムから献上された象を飼ったのも吉宗です。
11代将軍家宣は248回も浜離宮を訪れ、大いに庭園を楽しみました。その半分以上は鷹狩だと言われていますが、それ以外にも釣り、舟遊、皷吹、囃子などを楽しみ、また新造船を上覧したり乗馬などで庭園を思う存分楽しみました。園癖将軍と言われた所以です。さらに園内にある水田に農婦を呼んで田植えを奥方や姫君達に見せたと言います。これは水戸黄門と言われた徳川光圀が小石川後楽園で農民の苦労を奥方たちに知らしめるために田を作り田植えと稲刈りの様子を見せたことにつながります。
鴨場での鷹狩は饗応の手段であり、江戸の大名庭園が遊びの空間であった特徴をよく表しています。
明治以降は、迎賓館としての国賓などを迎える機会が多くなりました。英国皇子エジンバラ公の来朝をはじめ、明治天皇と前アメリカ大統領のグラント将軍が中島の御茶屋で会談するなど、多くの外国貴賓を迎え、天長節や晩餐会が行われました。また、明治16(1883)年から行われるようになった観桜会では、来賓が天皇皇后に接見し、その後、潮入の池で雅楽や洋楽の演奏を聞きながら桜を眺め御茶屋で会食するなど遊覧し、園全体が迎賓の舞台として利用されるようになりました。
なお、観桜会は大正5(1916)年まで浜離宮で行われ、その後新宿御苑へと移りました。
昭和20年に東京都に下賜された後も、都知事が外国大使等を招いた友好交歓会を開催するなど、江戸時代から現代に至るまで、宴遊の庭園として現在は一般市民を含むおもてなしの庭となっています。
大泉水と横堀を合わせて、「潮入の池」と呼びます。潮入の池は、水門によって海水を導く「潮入り」の手法を取り入れた池で、潮の干満によって池の水位が変化し水景が変わるという京都には無い江戸時代の大名庭園ならではの発明です。
大泉水の南側に位置し、大泉水周辺が一望できる重要な視点場です。かつては、庭園の最南端の隅に位置していましたが、幕末に砲台を設置した際に、現在の場所に移されました。当時は富士山や房総の山々、筑波山まで眺めることができたという記録があります。庭園の重要な要素である「眺望」を演出する場所でした。
大泉水を取り巻く御茶屋群は、将軍や京都から来た公家たちが饗応の場として、それぞれ特徴のある御茶屋を巡り楽しみました。中島の御茶屋は大泉水の中島にある御茶屋で、ここから松の御茶屋や燕の御茶屋、大泉水等の雄大な景色を眺めることができ、最も重要な視点場の一つです。甲府宰相綱重が宝永4年(1707)に創建したとされ、東京大空襲で焼失しましたが、昭和58(1983)年度に復元されたものです。明治天皇が第18代アメリカ大統領のグラント将軍を謁見したのも中島の御茶屋です。
松の御茶屋は、御茶屋内部の戸障子類の全てに松が描かれていたという名前の由来があります。創建は11代将軍家斉の時代ですが、東京大空襲で焼失し、平成22(2010)年度に復元されました。燕の御茶屋の創建は家斉の時代であり、数寄屋風で茶座敷として使われていましたたが、やはり空襲で焼失し、平成27(2015)年度に復元されました。鷹の御茶屋は、藁葺き屋根と土間のある農家風の造りで、家斉が鴨場で鷹狩を行う際の休憩場所として用いられた建物です。やはりこの御茶屋も空襲で焼失しましたが、平成30(2018)年に復元されました。
大泉水の中島の御茶屋と両岸を結ぶ木橋です。橋から見る大泉水や周辺の御茶屋、築山の景色と、橋を主景とする景色は浜離宮の重要な景観を構成しています。江戸期には橋全体を藤棚が覆っていたと言われていますが、現在は燕の御茶屋側に僅かに藤棚が残されています。大泉水の水面に映し出されるお伝い橋と中島の御茶屋の姿は見事な景色です。
お伝い橋は掛替が何度か行われていますが、現在の橋は平成24年に架け替えた橋長約118mで高知県産の総桧造りです。
新銭座鴨場(大覗)と庚申堂鴨場の2か所があります。江戸時代には鷹狩、離宮時代には鴨猟が行われ、浜離宮の中で特徴ある饗応の施設として最も重要なものの一つです。鴨場には、鴨池、中島、引堀、大覗、小覗等鴨猟のための施設があります。宮内庁所有の鴨場以外に、現存する鴨場として、本来の姿で市民が見られるのは鴨場は浜離宮だけです。
新銭座鴨場(大覗)の東側に位置し、武芸鍛錬の場としても使われ、京都の庭園には無い大名庭園の特徴を伝えるものです。現在の延遼館跡にかつてあった表馬場に対して内馬場と呼ばれ、将軍上覧の際の御座所や馬見所がありましたが、関東大震災による被害で取り壊されました。
宝永4(1707)年に松平綱豊が創建して以来、浜御殿の正門でした。関東大震災で渡櫓が焼失し、現在は石垣のみが残っています。かつては築地塀をもつ高麗門形式の表門と櫓門形式の大手門が桝形を構成していました。大手門と桝形には江戸城の出城としての意味があり、将軍家の別邸であった歴史を伝える重要な施設です。
築地川から構内に深く入り込んでおり、各地から運ばれてきた物資を籾倉に保管した後、江戸城に入れるための港湾施設でした。内堀には荷揚げ場の石段が残っています。フジツボ・カキなどの貝類が石垣に付着しているので、海水が引き込まれていることが分かります。水門による水位の調節ではなく、園内で唯一自然の潮汐を見ることができます。
甲府宰相から将軍継嗣となった徳川家宣(第6代将軍)は、宝永4(1707)年に甲府宰相時代に親しんだ庭園を大改修しましたが、その偉業をたたえて植えられたといわれるクロマツです。高さが10m、正面が17.7m、幹回り4.4mあり、太い枝が低く張り出し、堂々たる姿を誇っており、都内では最大級の黒松です。
横堀よりも更に北側の海際にあり、歴代将軍が舟で浜御殿に御成する際にここから上陸しました。第11代将軍家斉は、隅田川で遊覧した後に浜離宮に立ち寄り、また、江戸城から直接将軍お上がり場に船で来たこともあったようです。幕末に鳥羽伏見の戦いに敗れた慶喜が、大坂から船で帰還して上陸して、庭も見ないで江戸城に向かったという滞在時間記録最短の将軍と言われています。昭和24(1949)年のキティ台風で石段下部を損傷しました。
明治維新で、浜御殿が浜離宮となり、慶応2年に海軍所の建物として建設が開始され、幕府時代は未完成でしたが、明治新政府が明治2年に完成させた日本最初の迎賓館としての洋風建築です。それは、「遠来の客を引き寄せる宿舎という意味と願いを込めて」延遼館と名付けられました。
明治12年5月にドイツ皇族ハインリッヒ殿下、明治12年7、8月には米国前大統領グラント将軍が長期滞在するなど、迎賓館としての役割を果たしました。当時の建物は明治20年の地震により損壊し、明治22年に破損がひどく取り壊されました。建築後20年という短命に終わりましたが、延遼館はいわば鹿鳴館時代のさきがけともいうべき役割を果たしたと言えます。
鹿鳴館は、旧薩摩藩装束屋敷跡(現在の帝国ホテルの隣のビルであるNBF日比谷ビル)に明治13(1880)年に着手して明治16(1883)年7月に煉瓦造2階建ての洋館として完成しました。設計は旧古河庭園の洋館などを手掛けたジョサイア・コンドルです。「鹿鳴」は『詩経』小雅にある「鹿鳴の詩」に由来し、来客をもてなすことを表す語で、中井櫻洲が名付けました。しかしながら、鹿鳴館外交の推進者である井上薫が明治20(1887)年9月に外務大臣を辞任することで鹿鳴館時代は短命の内に終息します。
その後、芝離宮において、迎賓館である離宮を建設(明治23年9月着工し明治24年4月竣工)し、明治26年6月オーストリー国フェルジナンド親王などをお迎えしましたが、大正12年9月1日の関東大震災により離宮は焼失しました。
浜離宮は将軍の庭、皇室の庭として閉ざされていた空間であり、現在も制限公開しており、定期的な維持管理が継続して行われているので、一般開放の公園などとは異なり、珍しい貴重な植物が残されています。
オドリコソウ(踊子草:シソ科オドリコソウ属)は日本全国に分布する半日陰を好む多年草です。近年は外来種(ヨーロッパ、北アフリカ、西アジア原産)であるヒメオドリコソウに押されてその姿を見ることが少なくなっていますが、浜離宮には庚申堂鴨場のそばに大群落を形成しています。葉の間から出るシソ科特有の花が、笠をかぶった踊り子に似ているのでこの名が付いたそうです。
ヤブミョウガ(薮茗荷:ツユクサ科ヤブミョウガ属)は日本をはじめとする東アジアに分布する多年生草本植物です。葉がショウガ(生姜:ショウガ科ショウガ属)に似ているのでこの名がついたそうです。ヤブミョウガの葉は表面がざらつき、葉が2列に出ないのでミョウガと区別できます。
8月頃に白い花を咲かせますが、花には両性花と雄花があります。初秋のころから直径5mm程度の球状で瑠璃色の美しい実を付けます。梅林の西側あたりで大群落を形成しています。
アマナ(甘菜:ユリ科アマナ属)は日当たりの草地に生えますが、やや湿ったところを好みます。葉は線形で長さ10~25cmで幅は5~10mmで、花茎の下部に2枚つきます。葉の中央はややくぼんでU字になっています。花は広い鐘形で白色の地に暗紫色の筋がはいります。花は日光が当たらないと閉じてしまいます。最近ではめったに見られなくなりましたが、稲生神社そば、花木園で見られます。
クネンボと聞いただけでは何のことか分かりませんが、江戸時代に今の温州ミカンが無かったころの“元祖ミカン”です。
クネンボ(九年母:ミカン科ミカン属)は、柑橘類の一種で、マレー半島からインドシナ原産です。日本には中国南部、琉球王国経由で室町時代後半にもたらされたといわれています。皮が厚く、松脂臭やテレピン油臭のような独特の匂いがあり、私たちが食している甘くおいしい温州ミカンより酸味が強く、品質は落ちます。果実は直径6㎝位の球形です。江戸時代まではキシュウミカンと共に主要な柑橘類でした。
昔将軍が召し上がったという記録が残っており、第8代将軍の時代にベトナムから贈られた象も食べたそうです。現在、芳梅亭の近くの植栽帯に1本ありますが、この木が江戸時代からあるものなのかは不明だそうですが国内ではかなり希少な樹木のようです。
籾倉跡地の地下遺構を保護するため、平成元(1989)年に暫定的にお花畑として整備したものです。現在、春はナノハナ(菜の花:アブラナ科アブラナ属)のお花畑が、秋にはコスモス(キク科コスモス属)の一面のお花畑で来園者を楽しませています。
昭和26(1951)年にウメの木を100本程植栽して整備されました。大名庭園では戦さの際の非常食に用いるために梅を植えたといわれています。春に先駆けて咲くウメは「好文木」ともいわれ、学問に励むと梅の花が咲き、怠ると花は散りしおれるという故事にちなむウメの古名です。
牡丹園は平成3(1991)年2月に籾蔵跡に暫定的に整備したものです。ボタン(牡丹:ボタン科ボタン属)は、8世紀ころに中国から薬用植物として渡来したと言われています。美しさを象徴する花として「百花の王」や「花神」などとも呼ばれています。江戸時代に観賞用として品種改良が盛んにおこなわれました。
ハナショウブ(花菖蒲:アヤメ科アヤメ属)は東京都に下賜されてから中の御門付近に植えられたもので、その後も園内各所に増やしています。初夏の水辺に咲くハナショウブはノハナショウブの園芸品種で、江戸系、伊勢系、肥後系と原種の特徴を強く残す長井古種の4系統に分類されます。江戸の古典園芸植物として来園者を楽しませています。
いつからパワースポットがブームになったのでしょう。明治神宮の清正の井戸などは閑散としていましたが、ある日突然行列ができて1時間も並ばなければ近づけない状況になりました。
ところで、パワースポットでは「龍脈の通り道」というのがあるそうで、東京では、皇居、高尾山、御岳山、浜離宮恩賜庭園、品川神社、飛鳥山公園(旧渋沢庭園)などがその通り道と言われ、パワーが出ている場所だそうです。
浜離宮については、東京都内の中でも特にエネルギーの高い場所の1つとして数年前に雑誌で紹介され、にわかにブームとなり、それを目当てに来園する姿も見られます。広大な庭園内で一番のパワースポットは、園の北西あたり馬場跡近辺にある「観音堂跡」付近といわれています。江戸時代には観音堂と鐘楼があった場所ですが、現在は階段のみが残されています。
さて、江戸時代、大名は300諸侯と言われ、それぞれが上・中・下屋敷に庭園を構えており、その数は約1000カ所ともいわれています。現在、当時のままの規模と地形を残しているのはこの浜離宮だけです。すなわち、1000分の1の確率!です。まさに奇跡の庭と言ってよいのではないでしょうか。今日まで生き残れたのは庭が持つパワー、すなわち底知れぬ「庭園力」を秘めていたからだと思います。海を失い、空を失ってもなお強烈なパワーを出し続けている奇跡の庭園、浜離宮を巡るとこの庭園力のパワーをもらえるかもしれません。
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