元号が令和と改まり初めての新年を迎えた2020年の元旦に新型コロナウイルス(以下、コロナウイルス)が今日の事態を引き起こすとは誰も想像だにしなかったでしょう。
1月16日に国内初の感染者が報告され、2月27日には全国小中高校の臨時休校の要請、3月13日に新型コロナウイルス特別措置法が成立し、3月21日には国内感染者数が1,000人を超えました。4月7日に東京都を含む7都府県に対し、緊急事態宣言が発令さ、4月16日には全国に宣言が発令されました。
その後、コロナウイルスの感染拡大が縮小されたことで、5月25日には緊急事態宣言が全て解除され、6月19日には東京など首都圏の1都3県や、北海道の都道府県をまたぐ移動の自粛要請が解除されました。
外出自粛が解除になると、外出を待ち望んでいた人たちが公園や庭園に押寄せました。家に籠り切りでは人は生きていけないのです。公園や庭園に出かけ、生きた自然に触れることで心を癒し、人と人とが会話を交わすことで生きることを実感できるのでした。不要不急といわれた公園や庭園が、実は人が生きていくためにはなくてはならない必要不可欠の空間であると理解されたのです。単なる生物として生きているのではなく、文化的生活をすることこそが人であるということを人々は実感したのだと思います。
コロナウイルスの感染拡大の影響は日本だけでなくパンデミックとなり、多くの感染者と死者を出して世界中が外出自粛や人との接触を制限され、当たり前の日常が当たり前でなくなった経験は近年にはありませんでした。
特に、3月24日に国際オリンピック委員会(IOC)と東京2020組織委員会が東京2020大会の延期を発表したことは大きな衝撃でした。
都立庭園でも、かつてないほどの大きな影響を受けることになりました。
2月22日から「梅香る庭園へ」などのイベントの中止、庭園ガイドの中止に始まり、2月26日半ば過ぎくらいからボランティアによる庭園ガイドをはじめすべてのイベントの中止が決まりました。3月28日(土)から4月12日(日)までコロナウイルス感染症の感染拡大防止のために臨時休園となり、臨時休園はその後感染拡大が収まらないために5月31日まで延長されました。
6月1日からは開園時間を10時から16時に短縮して再開園となりました。通常開園に戻ったのは7月1日からですが、イベントや庭園ガイドなどはいまだに中止となっています。
このような長い休園は都立庭園の歴史の中で初めてではないでしょうか。その間、職員たちも苦悩していました。
来園された方に美しい景色を見て頂くのが日常のあたりまえのことであり、見て頂くために様々な工夫や努力をしていたのですから、誰もいない庭園の現実を見ることはつらいことだったと思います。
では、この間の対応について小石川後楽園(以下、後楽園)ではどのような行動を取ったのか振り返ってみます。
後楽園は日本を代表する大名庭園で、国の特別史跡・特別名勝に指定されています。
水戸藩初代藩主徳川頼房が三代将軍徳川家光の指図を受けながら作庭し、二代藩主の徳川光圀が中国趣味を潤色して一応の完成を見ました。
天下の名園である後楽園を管理する職員の皆さんたちは以下3つの目標を立てて臨時休園の難局を乗り越えることにしました。
①いつでも再開園できるよう、日常の維持管理をしっかり行う。
②このような非常事態で休園している時だからこそできることを実行する。
③来園できないお客様のために常に園内の季節の変化などSNSを使って発信する。
この目標設定は、どのような事態が起きても名園を守るという職員の皆さんたちの強い決意の表れだと思います。
庭園は人と自然と時間の共同作品である。変化もすれば、成長もする。殊に日本の気候風土では樹木の成長は著しい。だから、手入れを怠れば庭は目もあてられないほどに荒れ果ててしまう。「作庭が四分、維持管理が六分」といわれるゆえんである。
『図説 茶庭のしくみ』尼﨑博正 淡交社刊)
「庭園は生きている」とよく言われます。「変化もすれば、成長もする。手入れを怠れば庭は目も当てられないほどに荒れてしまう」のです。雑草はあっという間に生え、樹木は芽を出し、葉を出した途端に生長します。そのため、庭を造ること以上に作庭後の日常管理をしっかりと行うことが名園になるための条件だと言われています。
現在の庭園の休園日は12月29日~1月1日とほぼ無休の状態です。臨時休園という事は門を締め切り来園者がいない状態になります。開園時には安全管理を徹底して作業を行わなければなりませんが、完全閉鎖されていれば安全対策は万全です。来園者の利用時には出来ないことが出来るというメリットが生じました。
そこで以下のような作業を行いました。
①庭園入口園路などの高木剪定
開園している時には利用者の安全を考慮すれば、通行止めにする必要が生じ、多大な不便を掛けることになります。
②京都の風景を映した大堰川の泥さらい
後楽園は各地の景勝を写した海・山・河・田園などの景観が巧みに表現され、その景を巡る回遊式庭園です。4つの景の河の景を代表する景色が大堰川で、この水を抜いて河床を清掃することは開園中には出来ませんでした。
③植込み地の落葉清掃
人手不足で手が回らない植込み地の落葉清掃をこの機会に取り組みました。すべてを対象にするのは無理でしたが、主要園路など目立つところを中心に植込み地の中まできれいに清掃しました。
④その他雨どいの清掃や職員も行くことがめったにない船で渡る蓬莱島の除草などを行いました。
大径木の剪定を行った結果、落枝の心配がなくなって安全度が高まり、また落葉清掃、除草、泥さらいをした事で、すっきりした景色が取り戻せました。
今までも庭園の開花状況などをTwitterで発信していましたが、来園者不在の庭園で美しく咲く花たちを誰にも見てもらえないのはとても辛いことでした。そこで今まで以上にtweetを増やすことにしました。また、動画を積極的に活用して、日頃利用者が立ち入ることが出来ない場所、例えば通天橋の下を流れる流れの中まで分け入って石組みの様子など庭園の裏側を紹介し、庭園の仕組みの一端を伝えることに力をいれました。
①サクラ(桜)
今年は桜の開花が早く、3月27日までの開園中に咲き始めを見ることのできた来園者はいましたが、一番きれいな盛りの時は臨時休園になっていました。Twitterではそのきらめく桜の絵巻模様を紹介しています。
②フジ(藤)
4つの景の一つ「田園」ののどかな風景が広がる北側の神田上水跡付近には6枚の藤棚があり、最盛期には花房が数十センチにもなり、とても見事な景色になります。
③カキツバタ(杜若)
『伊勢物語』の中で、三河の八ツ橋で詠まれた和歌には清楚な花カキツバタの名前が読み込まれています。
からころも
きつつなれにし
つましあれば
はるばる来ぬる
たびをしぞ思ふ
④ハナショウブ(花菖蒲)
ハナショウブが見頃を迎える頃に合わせて菖蒲田の脇に「花菖蒲の小道」が設置され、660株の初夏の庭園を彩るハナショウブを間近で鑑賞することができます。
園内にある田んぼは、天下の水戸黄門で有名な水戸徳川二代藩主の光圀が、三代藩主綱條夫人に農民の苦労や農耕の大切さを教えるために造ったと言われています。現在は、文京区立柳町小学校5年生の田植え体験の場になっていますが、今年はコロナウイルスの感染症拡大防止のため中止となり、小学生に代わって職員が田植えをしました。子どもたちにとって貴重な経験になるはずだったと、苗を育てて準備していた職員たちはとても残念がっていました。
後楽園は1629(寛永6)年に、水戸初代藩主徳川頼房が、将軍家から小石川に邸地を下賜されたことに始まります。390年以上も前のことです。その長い歴史の中で庭園の存続が危惧される事態に何度か遭遇していますが、それらを乗り越えて今日に至り、名園として市民の貴重な財産となり、多くの人々に親しまれています。
では、主な受難の歴史を紐解いてみましょう。
1702(元禄15)年、綱吉の生母である桂昌院が後楽園を訪ずれることになり、庭園の特徴である奇岩大石を撤去し園路の改修を行うとともに、危険であるとして文昌堂の屋根飾りを儒教思想に基づく剣形から宝珠形に変えるなど、幕府に配慮した改変をしています。この時、桂昌院は78歳であり、いわばお年寄りに対する配慮であり、バリアフリーを実施したことになるのでしょうか。
1703(元禄16)年、関東地方を襲った巨大地震で、マグニチュード(M)は7.9~8.5と推定されています。この地震で蓬莱島が瀑布とともに崩れ、砂洲が沈みました。また、龍骨車(水車)が倒壊して音羽の滝が枯れ、福禄堂や鳴門が崩壊するなど貴重な景観が大きく損傷しました。
明治維新により徳川幕府は崩壊し、諸藩の敷地は明治政府所有となり、300諸侯が上・中・下屋敷に造成した庭園はその多くが荒廃し、名園が短期間のうちに消失しました。小石川後楽園も240 年におよぶ水戸徳川家の時代が終了し、厳しい運命を辿ることになります。1869(明治2)年10 月には101,800余坪の旧水戸藩邸跡敷地が兵部省に移管され、屋敷部分を中心に軍事利用のため兵器製造工場が建設されていきます。兵部省内部では工場の設備拡充のために、後楽園全域を潰廃する構想がありましたが、当時の陸軍卿の山縣有朋が「…あの名園を失うに忍びない」と反対したり、フランスから招聘されたルボン陸軍大尉らによる保存の声により国政の一端として庭園保存が実現した稀有な例となりました。しかし、1879(明治12)年までに、庭園の富士見台一帯や琴画亭があった周辺が破壊され、さらに内庭の北側部分をはじめ外周部分が取り壊され、神田上水も暗渠化されました。また、工場建設により排煙による環境悪化で多くの樹木が枯死したと言われています。
なお、保存が決まると砲兵工廠も庭園復元に力を入れ、その評判が高まり、1873(明治6)年に明治天皇が行幸されています。皇后や皇太子、他の皇族も度々行啓され、その名声は一段と高くなりました。
庭園は、海外貴賓の迎賓の場としても利用され、1882(明治15)年には皇族各大臣各国公使並びに公使館員等貴賓400名余りの招待会が開催され、その後内外貴賓を招待した観桜の催しが行われるようになりました。また、外国艦隊司令官や来訪の外国陸海軍将校等軍関係の貴賓も頻繁に訪れるようになり、その名声は世界に知れ渡ったのです。
1923(大正12)年9月1日の昼頃、マグニチュード7.0の大地震が首都圏を襲い、死者・行方不明10万5千人、全焼家屋21万2千棟という大災害となりました。後楽園は清水観音堂、八卦堂、涵徳亭が焼失し、唐門、九八屋をはじめとする建築物の損傷、徳大寺石が周囲の石組とともに池中に倒伏、白糸の滝等の施設に甚大な被害を受けました。
戦時中には、本園の北側に高射砲陣地があり、周辺に軍の施設がおかれていたので米軍の攻撃目標となりました。戦災による資料は乏しいのですが、1945(昭和20)年の空襲により、棕櫚山の樹林や唐門、九八屋、丸屋、琴画亭等の建物が焼失しました。
1972(昭和47)年~1978(昭和53)年の6年間にかけて都立庭園などは無料化されて一般市民に開放されていましたが、来園者の急増や園内でキャッチボールをするなど利用の仕方に変化を生じ、庭園が著しく荒廃しました。庭園保存の重要性からこの施策は中止となり、再度有料化されました。
このような災害を乗り越えて、後楽園は今日に至りました。
江戸時代、江戸は庭園都市と言われ300諸侯が上・中・下屋敷にそれぞれ庭園を構え、その数は1000を超すと言われましたが、現在、当時の庭園の体面を保っている大名庭園は小石川後楽園、浜離宮恩賜庭園、六義園、旧芝離宮恩賜庭園の4カ所だけです。1000分の4カ所、すなわち0.4%しか残っていないのです。これはまさに奇跡と呼んでよいのではないでしょうか。今にして思えば、後楽園が残ったのは、国民からは強面で人気のなかった山縣有朋の鶴の一声が奇跡を生んだのです。庭園史から見れば山縣有朋は名園を救った神さまに思えてきます。
5月25日に緊急事態宣言は解除になりましたが、コロナウイルスが収束したわけではありません。"姿が見えない敵"は厄介でどこに潜んでいるかわかりません。やはり、コロナウイルスの感染は完全に収束することなく、7月に入り、再び感染が拡大され、現在は第2波が押し寄せている事態となっています。
いつ終わるか先が見えない不安や同調圧力で息苦しい日々が続く時には自然に触れるのが一番だと思います。庭園や公園に行き、青空を見上げながら緑の中で深呼吸をすれば生きる力が湧いてきます。
7月に入り、通常開園となった後楽園に行きました。永らく修復工事が続いていた「白糸の滝」が復活していました。滝をじっと見つめている方がいたのでお話を伺うと「コロナウイルスで鬱屈とした日々を過ごしていたが、緑が多く、静かな庭園にいると不思議と心が落ち着きます。滝が飛沫をあげて流れる様子を見ていると心が洗われます」と穏やかな表情で答えてくださいました。まさにこのことは、人々のささくれた心を癒し、生きる希望を引き出す力が庭園にあることの確かな証です。
日本の魅力は四季の変化の美しさだと思います。それらは世界に誇るべき日本の美意識を育んだのではないでしょうか。現代はあまりにも自然を隔離することで、そのツケが今、回ってきているように思えます。
道元禅師は「春は花 夏ほととぎす 秋は月 冬雪さえて 冷(すず)しかりけり」と詠みましたが、この歌には『本来面目』という題がつけられています。
道元禅師のいう面目とは、"すがた"とか"おおもと"になるもののことですが、自然の中にこそ人のあるべき姿があると示唆しています。
コロナウイルスの影響で人通りのない街を散歩していた時に、アスファルトの隙間を縫って咲いているタチアオイ(立葵:アオイ科ビロードアオイ属)を見つけました。その桃赤色の花はとても鮮やかで心に灯がともるような気がしました。どのような場所でも明るく生きていく強靭さと優しさ、そして美しさを秘めているように見えました。
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