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「江戸・東京の名庭園を歩く」バックナンバー

0052019.07.16UP奇跡の名園 清澄庭園

2度の大災害を乗り越えた奇跡の名園

図-1 現在の清澄庭園全景 2019年(筆者撮影)

図-1 現在の清澄庭園全景 2019年(筆者撮影)

 江東区清澄にある清澄庭園は都立の文化財庭園です。中央に池を穿ち、富士山と呼ばれる大きな築山があり、涼亭という数寄屋造りの建物が池にせり出しています。また、日本各所から運んだ名石が至るところに配置されている池泉回遊式庭園です。
 この季節は緑が濃くなり、静かな池面に映えています。庭園をめぐる人々は緑に包まれた癒しの空間にゆったりと歩を進めています。
 しかし、庭園を観賞している人たちはこの庭園が失われる運命にあったことを知りません。もし、2人の見識あるリーダーの市民を思う強い意志がなければこの美しい庭園は失われていたかもしれないのです。

岩崎家三代にわたり造り上げた深川親睦園

深川親睦園以前

図-2 本所深川絵図(部分) 深川親睦園以前の大名屋敷が並ぶ土地利用 嘉永5年(1852)

図-2 本所深川絵図(部分) 深川親睦園以前の大名屋敷が並ぶ土地利用 嘉永5年(1852)

 清澄庭園の前身は三菱の創設者である岩崎弥太郎が造った深川親睦園です。本所深川絵図によると、深川親睦園の敷地となる場所には、東側に幕府老中久世大和守の屋敷があり、西側には戸田日向守、松平美濃守、松平右京など大名家の下屋敷や伊奈半左衛門など豪族の館が所在し、敷地の南側は隅田川に合流する仙台堀川に接しており屋敷に水を引き込んでいることがわかります。


岩崎弥太郎による深川親睦園

図-3 深川親睦園周辺図 明治17年(1884) 五千分一東京測量原図 国際日本文化研究センター所蔵

図-3 深川親睦園周辺図 明治17年(1884) 五千分一東京測量原図 国際日本文化研究センター所蔵

 明治11年(1878)、明治維新により荒廃した江戸時代の久世大和守、松平美濃守などの大名屋敷跡を岩崎弥太郎が買収し、社員の慰安と貴賓接待のための庭園造成に着手しました。深川親睦園創設期の庭園の空間構成は中央の園地を挟んで東西に分かれ、それぞれに大泉水を配置しています。水系については、旧大名屋敷で使われていた引き堀を利用して仙台堀川経由で隅田川から引き込んでいます。すなわち深川親睦園は既存の大名屋敷の水路と庭園の既存の景を生かして作庭した潮入りの庭であり、三菱の水運を利用して全国から巨石を収集するなどして景色を整え、大名屋敷の名残である鴨場などを取り込んで作庭したものと考えられます。


 岩崎弥太郎は「吾は性来これという嗜好なけれど、常に心に泉石丘叡に寄す。憂悶を感ずるときは名庭園を見る。」として技巧を凝らした名園などは好ましく思っておらず、加賀藩の育徳園のおおらかで豪快な庭は作為を感じることがなく好ましいと評価しています。すなわち弥太郎は大胆に自然を取り込み、好きな石組を豪快に取り込んだ庭園を好ましいと考えていたのです。

岩崎弥之助・久弥の庭園大改造

 弥太郎の死後、岩崎弥之助が兄の意思を継ぎ、武者小路千家一門の茶匠、磯谷宗庸を招き、世界からの賓客をもてなすために本格的な庭園の改造に着手しました。ジョサイア・コンドルによる洋館、河田小三郎による和館を建設し、また仙台堀川から水を引き入れる潮入りの池として明治24年に回遊式庭園を完成させました。さらに明治42年には弥太郎の長男である久弥が、英国のキッチナー元帥を迎えるために涼亭を建てました。
 大改造された深川親睦園は、庭園の中心をなす大泉水の中央に大きな中島があり、それを境に庭園が洋館のある西エリアと和館のある東エリアで構成されていることがわかります。深川親睦園の主景観である富士山は、洋館からは大泉水に浮かぶ島々によって遮られて直接見ることができません。実は深川親睦園は、西エリアと東エリアがそれぞれ独立した二つの空間として構成された庭園だったのです。

図-4 深川親睦園実測図(震災前) 大正11年?12年(1922?1923) 静嘉堂文庫所蔵

図-4 深川親睦園実測図(震災前) 大正11年?12年(1922?1923) 静嘉堂文庫所蔵

図-5 川瀬巴水 洋館より庭園を望む 三菱深川別邸の図より 1920年 国立近代美術館所蔵

図-5 川瀬巴水 洋館より庭園を望む 三菱深川別邸の図より 1920年 国立近代美術館所蔵


未曽有の大震災が深川親睦園を襲う

大震災の被害と岩崎家の対応

図-6 関東大震災被害状況 東京グリーンアーカイブス所蔵

図-6 関東大震災被害状況 東京グリーンアーカイブス所蔵

 1923(大正12)年9月1日正午2分前に発生した関東大地震はマグニチュード7.9と推定される、近代化した首都圏を襲った唯一の巨大地震であり、南関東から東海地域に及ぶ地域に広範な被害が発生しました。死者105,385人、全潰全焼流出家屋293,387に上り、電気、水道、道路、鉄道等のライフラインにも甚大な被害が発生しました。
 深川親睦園は主要樹木であるマツやカエデをすべて焼失し、また、西洋館、日本館の主屋も焼失するなど甚大な被害を受けました。しかし、石組みなどはほぼそのままで地割は残されたことが大正12年9月の庭園協会の調査で明らかにされています。
 関東大震災で最も悲惨な状態に遭ったのが陸軍被服廠跡です。公園予定地でもあった本所の陸軍被服廠跡は2万4千坪の広大な敷地で、附近の人々は絶好の避難地と考え、地元の相生署署員も同時に避難民を誘導したので被服廠跡には多くの人々が家財とともにあふれました。ところが、火が四方から襲いかかり、家財に引火し、さらに思いがけぬ大旋風も巻き起こって、避難民4万人のうち、推定3万8千人という死者が出ました。この数字は、関東大震災による全東京市の死者の55パーセント強に達するもので、関東大震災における死者の半分近くがこの場所で被害を受けたことになります。その時の避難した人々の気持ちは、一部が公園予定地であり、広い空地があれば市民感情としてそこに逃げ込めば安全と思うのは当然のことだったのではないでしょうか。
 一方、被服廠跡から南に2キロメートル離れた深川親睦園(清澄園)では、庭園を樹木が囲み、広大な池の水面があることによって1万人とも推測される避難民のほとんどが助かりました。庭園の持つ防災効果が実証されたのです。


震災時における岩崎家の対応と社会貢献

図-7 清澄庭園周辺図 昭和6年 帝都地形図第1集 東京都中央図書館所蔵

図-7 清澄庭園周辺図 昭和6年 帝都地形図第1集 東京都中央図書館所蔵

 当時の三菱の総帥であった岩崎久弥は、深川親睦園の震災被害が甚大でその存続が難しいと判断し、震災復興にとって喫緊の課題である住宅供給と医療について貢献するべく行動を起こしました。住宅建設に必要な材木需要に対応するためには隅田川の舟運を利用するのが最も有利であり、庭園西側の水路で隅田川につながっていることから、庭園西側半分を材木供給に必要な貯木場にすることを決断したのです。そして水面を拡大するために島を削り、洋館跡地を製材所にするなどして庭園を改造しました。庭園の東側については医療施設の建設を計画していたと言われています。即ち、この時点では岩崎久弥の頭の中には庭園再生をあきらめていたことが窺えます。しかし、後に井下清の説得に応じて庭園の果たす役割と価値を理解して医療施設設置を断念し、破損の少なかった庭園東半分を東京市に寄付したのです。


庭園の必要性を痛感した東京市公園課の井下清

図-8 清澄園記 2018年(筆者撮影)

図-8 清澄園記 2018年(筆者撮影)

 陸軍被覆廠跡の大参事を目の当たりにしていた東京市の井下清は、震災時における防災・避難空間として庭園の必要性を痛感しており、同時に市民の憩いの場として池と樹木のある庭園を市民に供給することを熟考していました。市民を大震災から守るためには公園・庭園を拡張することが最重要課題であると認識し、震災復興52小公園の整備を果敢に行うと共に、岩崎久弥に庭園の存在意義や防災効果を強調して粘り強く説得して、失われようとしていた深川親睦園の東側部分について、医療施設の計画を翻らせて東京市に庭園として寄付させたのです。後に東京市の公園として開園した清澄庭園の一角には、岩崎家の功績を永久に残すべく、清澄園記として巨大御影石が設置されています。

東京市公園課が再構築して新たに誕生した清澄庭園

 岩崎久弥より寄附を受けた東京市は、本所被服廠跡惨場の跡片付や野天火葬を行う事や、皇室から下賜された上野公園、芝離宮、猿江貯木場の三大御料地の早急な開設が求められており、さらにこのような状況で市が分担する52小公園と17旧公園の復旧に直ちに着手しなければならないという膨大な仕事量の中で清澄庭園の復旧も進めなければならなかったのです。
 しかし、このような厳しい状況の中で東京市は直ちに庭園の復旧に取り掛かりました。寄付を受けた庭園部分については深川親睦園当時に比べると半分程度に縮小されたので、新たな庭園に造り変えるためには空間構成を再構築する必要がありました。
 焼けた和館に代わる建物として大正天皇葬場殿を下賜され、大正記念館が建設されましたが、その際、分割されたことで空間が狭くなり、しかも南北に細長くなるので、奥行き感と広がり感のある空間を再構築するために視点場をセットバックしたのです。そして新たな庭園の主景観として富士山と涼亭が庭園を際立たせています。

東京市公園課の技術力

 井下清の意図と空間デザインを実現へと導いたのは東京市公園課の職員の技術力です。東京市は予算、人手、資材が不足する中で直営を主体とする庭園復旧工事を直ちに行いました。造園職員はそのような厳しい施工状況の中で庭園修復に様々な工夫をしています。庭園と貯木場の境には道路が出来て直線的に分断され、しかも池面とは狭い空間しかなかったのですが、狭いながらも園路をうまくカーブさせるなど奥行き感を出す工夫が施されたり、新たに洞窟を造ったり擬木の四阿を建てるなど新しい見せ場が付加されたのは東京市の技術力のレベルの高さです。
 以上のことから、清澄庭園は、深川親睦園の面積と比べると、新しい庭園は半分になりましたが、東京市公園課の技術力により、深川親睦園にはなかった新たな見せ場を付加するとともに、西エリアの貯木場との境界を感じさせない工夫が施されたことにより独立した空間を生み出した結果、元の庭園に勝るとも劣らない新しい庭園に生まれ変わったのです。

図-9 新たに造られた洞窟 2018年(筆者撮影)

図-9 新たに造られた洞窟 2018年(筆者撮影)

図-10 傘亭 東京グリーンアーカイブス所蔵

図-10 傘亭 東京グリーンアーカイブス所蔵


未来に語り継ぐ清澄庭園の歴史

図-11 大磯渡 2019年(筆者撮影)

図-11 大磯渡 2019年(筆者撮影)

 現在の清澄庭園は、大正記念館から芝庭と泉水を通して見る富士山と涼亭を視野に入れる空間が主眺望です。対岸に泉水に張り出した涼亭があり、大泉水には4つの島を配し、2島は孤島であり、他の2島は橋で陸と繋がっています。泉水中に沢渡があります。特に巨石を用いた沢渡は大磯渡と呼ばれ特徴的な景観構成要素の一つです。主屋をセットバックした効果で庭園に奥行きが生まれ、深川親睦園時代に引けを取らない景色となっています。

清澄庭園の開園の意義

図-12 主景観の富士山を望む 2019年(筆者撮影)

図-12 主景観の富士山を望む 2019年(筆者撮影)

 清澄庭園の誕生は、深川親睦園という近代庭園の先駆けである名園の一部を残しつつ新しい庭園として市民に提供されました。名園が完全消滅することなく、主景観を残して現在も存在しているのです。また、関東大震災時において防災効果を発揮した庭園が残ることで、震災の悲惨な教訓を後世に伝えることができるなど、防災意識を市民に普及啓発する効果があります。そして、東京市の造園技術者の技術力が発揮され、技術力の賜物である洞窟などの石組の実例が残されることになりました。その結果、関東大震災に匹敵する被害を出した東京大空襲においても防災効果を発揮したのです。
 清澄庭園が今日あるのは、岩崎久弥の社会への貢献意識が東京市への寄付という行為を産み、造園家としての井下清の見識とそれを支えた東京市の技術力が相まって元の深川親睦園に勝るとも劣らない新たな庭園として清澄庭園が誕生したのです。大参事において、市民のために何をなすべきかという時のリーダーの究極の判断と行動力及び見識が、清澄庭園が現代に存在している本質的価値なのです。

隠れたエピソード

深川親睦園の遺構

 気付かない人がほとんどですが、富士山の裾野西側に深川親睦園の水路の遺構があります。池からこの水路を経て菖蒲田に流れ、そこから松尾芭蕉の碑のそばに仙台堀へ向かう水路が確認できます。また、深川親睦園の日本館には松ノ茶屋がありましたが、関東大震災で焼失しました。大磯渡の中央辺りに伊豆磯石や紀州・秩父青石で組んだ奇妙な石組がありますが、その秩父青石などの頂部によく見ると四角い穴が残されています。それは松ノ茶屋の縁先の支柱の束穴です。

図-13 水路遺構 2018年(筆者撮影)

図-13 水路遺構 2018年(筆者撮影)

図-14 束石と束穴 2018年(筆者撮影)

図-14 束石と束穴 2018年(筆者撮影)


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