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「ドイツ市民の食と暮らしの安全づくり」バックナンバー

0082013.10.29UPマルチプレーヤーな環境NGOに発展「ミュンヘン環境研究所」

地域の高濃度の放射能汚染を明らかに

 多くの市民測定所がチェルノブイリ事故後の数年間の測定活動で解散したのと対照的に、27年後の現在も、食を中心に環境問題全般について積極的な活動を継続しているのが、今回ご紹介する「ミュンヘン環境研究所」。南ドイツにあるバイエルン州のNGOです。ツィッターやフェイスブックなどのSNSも駆使して、ドイツの最新の環境問題を発信し続けています。

 チェルノブイリ事故から3ヶ月後の1986年7月、バイエルン州の州都ミュンヘン市北部の町ガルヒング市に測定所が立ち上がります。事故後の風向きと降雨の関係から、ヨーロッパのなかでも、バイエルン州を中心とするドイツ南部の汚染はとりわけ深刻でした(コラム002参照)。
 もともと、ガルヒング市には、ミュンヘン工科大学の物理学部や化学部、マックス・プランク研究所、ルートヴィヒ・マクシミリアン大学の一部物理学科、ヨーロッパ南天天文台本部、低温物理学研究のウォルター・マイスナー研究所、バイエルン応用エネルギー研究センター、原子炉安全研究所、など、大学や専門機関の研究所が数多く立地しているほか、ドイツを代表する自動車メーカーBMWの研究センターもあります。
 州政府は保守政党で原発推進だったため、当初、汚染は軽微であるとする連邦政府の姿勢を踏襲していた(つまり情報を公開しなかった)のですが、北西部に隣接するバーデン・ヴュルテンベルク州政府の迅速な汚染情報の公開や、フライブルク市の環境保護団体BUNDの警告などが、この科学研究の拠点のようなガルヒング市にも届きました。
 まず、市内にあるエネルギー・環境研究所の物理学者クリューガー博士が、他の科学者や市民と共に、『大気、土壌、牛乳、果物のなかに何が潜んでいるのか?』と題した、生活のなかの放射線に関するハウツーパンフレットを発行しました。この売り上げと寄付金によって、ガンマスペクトロメーターを購入、研究所内に設置し、登録社団(ドイツのNPOのような法人格)として活動をスタート。食品だけでなく、土壌や環境放射線も測定しました。これによって次第に、バイエルン州は、州政府の姿勢がどうであれ、ヨーロッパのなかで特別に高い汚染度であることが明らかになっていきます。

補助金獲得による多方面での環境研究とアクションの展開

当時のボランティアによる会議
当時のボランティアによる会議

 すぐにガルヒング市の研究所では手狭になり、翌年はじめには、ミュンヘン市内に「環境研究所」が設立されます。1週間ごとに、食品、大気、土壌の測定結果を掲載した「環境ニュース」を会員に配布しました。24時間体制の測定もボランティアだけでは足りず、「雇用促進措置」(コラム006参照)の補助金に申請し、州政府の認可を受けて採用され、有給スタッフを雇います。ニーダーザクセン州にあるオルデンブルク大学の市民測定所では州政府の方針に合わないとして申請が却下されたのに対して、ミュンヘン環境研究所の申請が許可されたのは、バイエルン州という高濃度汚染地域ならではの展開だったようです。
 補助金を受けたことで環境研究所は、規模的に拡大するだけでなく、内容的にも公共の福祉に貢献する活動を行う団体になることが求められ、放射線の測定に加え、飲料水中の硝酸塩測定、ホルムアルデヒドやアスベストなどのシックハウス原因物質の研究も行うようになりました。

多国籍食品企業の不買運動「22kgの“はがきアクション”」
多国籍食品企業の不買運動「22kgの“はがきアクション”」

 その翌年1988年には、遺伝子組み換え技術に対する批判的キャンペーンを開始します。EU委員会によるノベル・フード条例【1】実現に向けて、1万人の署名を集め、バイエルン州内務省に提出しました。当時、まだ他の環境団体は飢餓の撲滅に有効と信じて肯定的な見解を持ち、なんのアクションも起こしていない時期でした。時代は移り、ドイツのほぼすべての環境団体が、原発と同じく遺伝子組み換え技術も環境リスクと見なすようになった今、ミュンヘン環境研究所の視点の正しさが証明されています。
 放射線に関する活動も、測定所としては異例の反原発運動へと発展し、州内のヴァッカースドルフという中間貯蔵施設の建設中止運動に参画するようになります。当時、ヴァッカースドルフには、核廃棄物を再処理し新たな核燃料として使用するための中間貯蔵施設を、125ヘクタールの土地に10年間かけて建設するという計画があり、反対派住民の激しい運動が繰り広げられていました。チェルノブイリ事故後に反対運動はいっそう激しさを増し、内乱さながらの様相を呈しましたが、1989年に、計画は中止され、運動は成功を収めました【2】
 多方面での展開は、この反原発運動の成功後もとどまるところを知りません。1980年代広範から1990年代を通じて、炭酸飲料ペットボトル容器の利用に反対する運動(ペットボトル容器の一時的な禁止を実現)や、ゴミ分別市民投票の呼びかけ、スイス・ネスレ社をはじめとする多国籍食品企業の不買運動などを繰り広げます。環境研究においても、オゾン層の破壊の実態測定、携帯電話の電磁波の測定を地道に行い、パンフレットやホームページでの情報公開によって、啓蒙活動に取り組んでいます。

「チェルノブイリはまだ食べられない」

パンフレット表紙
パンフレット表紙

 事故後20年の節目を翌年に控えた2005年には、『キノコと野生生物:チェルノブイリはまだ食べられない』と題するパンフレットを発行し、野生のキノコやイノシシ、木の実、淡水魚など、ドイツ人が秋の味覚として好んで食べる食物が今でも高濃度に汚染されていることを、アクチュアルな測定値によって示しています。バイエルン州などドイツ南部では、イノシシ肉にキノコや木の実を添えた料理が、秋の猟の解禁とともに市内や田舎のレストランで振る舞われるのですが、この結果は、そのような伝統的な食のあり方に警鐘を鳴らすものでした。最も高い値は北部オーストリアの栗で、1kgあたりセシウム137が3300ベクレル、その他の多くもEUの基準値である1kgあたり600ベクレルをゆうに超えていました。
 ただし、同じ地域の別の栗の木では0.4ベクレル程度にとどまっているものもあり、放射性物質の濃度は産地で一概にはくくれません。2003年から2007年までバイエルン州環境大臣を務めたシュナッパウフの、「キノコや栗を食すための不安は、今でも完全に払拭されているわけではない」という発言は、このような実態把握の困難さを表しています。
 27年以上経った現在も野生の獣肉を販売する際の放射性物質の検査が義務づけられているドイツ。バイエルン州では、基準値600ベクレルを超えるイノシシ肉が今でも2%ほど検出されるそうです。特に心配される森の食物に対して、きめ細やかな測定を継続していくことの必要性が示されています。

次世代の人材育成

ミュンヘン環境研究所フェイスブック
ミュンヘン環境研究所フェイスブック

 長年の地道な測定活動とならび、幅広く食や環境の問題を研究し、市民に情報を提供してきたミュンヘン環境研究所は、現在、ドイツ連邦環境省が指定する「環境ボランティア年活動団体」になっています。
 「環境ボランティア年」とは、連邦政府の助成制度で、教育的見地から若者の環境意識を育成することを目的に、義務教育終了後の16歳から27歳までの希望者を対象に、半年から1年半の間、環境ボランティア活動に従事してもらうものです。国の助成金からボランティア活動中の保険、扶養手当、お小遣い(月に2?5万円ほど)が支給されるので、大学進学を控えた18?19歳の若者が、入学前に1年ほどこの制度を利用して環境ボランティア活動を行うことが多いようです。毎年15,000人ほどが参加しており、ここでの経験が、環境問題に直接かかわることへの関心と意欲を高め、その後の大学での学びや、社会に出てからの職業観に影響を与えることもあります。
 このボランティアの受け入れ先としては、公益性の高い環境NPOが指定されています。ミュンヘン環境研究所は毎年2名のボランティアを受け入れ、調査研究、情報発信やPR、組織運営などの事務などの業務を委託しており、宿泊施設、交通費を提供しています。ボランティアのポストは9月の募集後すぐに埋まってしまうそうです。ツィッターやフェイスブックなどでも積極的に情報公開しているので、若い人たちにも身近な存在になっているのでしょう。

 原発事故を契機に立ち上がった市民研究所が、長年の活動を経て公益性を有し、次世代の人材育成に取り組むに至った経緯は、原発事故や放射能汚染という負の経験を乗り越えて、食や環境の安全を守るための力を市民がつけてきているという、私たちにとっても希望の持てる展開を示してくれているのではないでしょうか。

脚注

【1】ノベル・フード条例
 欧州で1997年5月15日以前に食用として使用されたことのない方法で作られた食品あるいは食品原料の表示を義務づける条例
【2】ヴァッカースドルフの中間貯蔵施設建設反対運動
 ヴァッカースドルフその他のドイツの反原発運動については、名古屋大学の青木聡子さんの著書『ドイツにおける原子力施設反対運動の展開』(2013年、ミネルヴァ書房)に詳しく述べられています

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