【図009-1】人種とジェンダーによるリスク認識レベル(出典:Slovic, P. (1999): Trust, emotion, sex politics, and science: surveying the risk assessment battlefield. In: Risk Analysis, Vol.19, No.4 )
これまでご紹介してきた、チェルノブイリ後に発展したドイツ人の生活を放射線から守るためのムーブメントは、隣国フランスと比べても際だっていました。これは、それまで反原発運動がドイツ国内で活発化していたことと無関係ではありません。独仏の国境を隔てるライン川沿いには、多くの原発が立地しており、事故の可能性と影響は両国で同程度です。ドイツでは市民がそのリスクを大きく捉え、大規模な反原発運動に発展していたのに対し、フランスではそれほどでもなかったというのは、大変興味深い現象です。環境破壊のリスクは、客観的な事実としてではなく、人々の意識のあり方に大きく左右されると言えます。
では、国民性の違いがリスク意識の違いを生んでいるのでしょうか? 国民性の話に入る前にまず、社会的属性(年齢、性別、人種、職業など)がリスク意識にどのように影響を与えているのかを論じたリスク心理学の研究をご紹介します。
オレゴン大学心理学研究所のスロヴィック教授は、1999年、白人と非白人の男女を対象に、一般的なリスク意識の度合いについての調査結果を発表しました。これによると、最も低いのが白人男性、中間に白人女性と非白人男性、最も高いのが非白人女性と、おしなべて男性よりも女性、白人よりも非白人のリスク意識が高いという結果が報告されました(図009-1)。
実は、女性のリスク意識が男性よりも高いことはすでに認識されていました。これは、女性の(育児などによる)社会進出の低さと健康意識の高さゆえと考えられてきましたが、人種を含めた場合に「白人女性と黒人男性が同レベル」という結果を示したことは、性差以外の社会的属性、特に社会的地位がリスク意識に与える影響に目を向けさせることになりました。
白人と非白人の社会的地位は、個人差はありますが、平均的には白人優位です。ここで、社会的地位が低いほど、権力と影響力が原則的に制限されるため、リスク意識が高くなると考えられたのです。
つまり、非白人女性は性差や人種によって、権力や影響力が最も低い立場に置かれることが一般的なため、リスク技術に対して自分たちの意見や不安が反映されないと認識することが多くなり、その結果リスク意識が鋭くなると考えられました。逆にリスク意識が最も低い白人男性層は、概ね社会的地位が高く、政治的、経済的意思決定を行うグループに属します。こうした彼らの意識や考えが、リスク技術の扱いにも反映されていると考えられたのです。この社会的地位とリスク意識の関係は、各個人が持っている自然科学系の知識の多少に関わらず、当てはまるとされています。
では、ドイツ人はフランス人に比べて、権力や社会に対する影響力をより少なくしか持ち得ていないと感じているのでしょうか。両国民とも主権者としての国民の権利は有しますので、法的な意味での差はありません。しかし、原発というリスクを持った技術に対する影響力、つまり巨大技術を人間が支配できるかという点については、ドイツ人は非常に悲観的な考えを持っているようです。
福島の東電原発事故後、一転してそれまでの原発維持路線を撤回し、脱原発を閣議決定したドイツのメルケル首相は、2011年6月9日に連邦議会で行った演説で、「…絶対にありえないものと考えられてきたリスクが、完全にありえないわけではないということを教えてくれた」と述べています。
この「絶対にありえないリスク」とは、科学技術の水準をもってしても排除することのできない微小な「残余リスク(Restrisiko)」と呼ばれるもので、これまで原発保有国がその正当性を論証するためのキー概念でした。この残余リスクが、その影響の大小にかかわらず許されないものとして認識されたことは、科学技術が起こす万が一の事故を人間は制御できないという、悲観的な考え方に立っています。大げさに言えば、確率は低くても、もし事故が起これば地域に壊滅的な打撃を与えたり、国家の滅亡を招いたりするかもしれないというレベルまで残余リスクを重視するようになったと言うことです。
ところで、客観的な「科学」と「技術」により構成される最先端の科学技術によって、「残余リスク」を排除することはできないのでしょうか。個々の要素は人間の主観を排した客観的なものでも、複雑化・大規模化した現代の科学技術は、個々の要素を集積させた巨大なシステムですから、確率論的な計算を積み重ねていくことで不確実性は大きくなっていく性質があるのです。そしてすべてがコンピュータ制御されていたとしても、システムを管理・運用するレベルでは人間の手が入りますから、わずかな間違いをするかもしれないし、体調が悪くて見過ごす手順があるかもしれません。確率論的な計算で最小化したはずの残余リスクは、システムの複雑化・大規模化によって増大する不確実性と人の手を介することで生じるほころびとの相乗作用によって、制御できない事故の可能性を引き起こすのです。つまり、人間が科学技術システムを完全に支配することは不可能だと、人間の影響力を悲観的に捉える考え方ということです。これは原発だけでなく、遺伝子組み換え技術や再生医療、電磁波など、人体というシステムへの影響が未知の技術にも当てはまります。
チェルノブイリ後も福島の事故後も、ドイツ人の間には、事故によって突然、食や暮らしのなかに入り込んできた放射能汚染の前に、人間の支配やコントロールが無力であることを悲観するリスク意識が広まりました。こうしたリスク意識は、科学技術システムに向き合う人間が万能でないことを受け入れ、思慮のない科学技術至上主義に陥らないよう、自らを戒める機能を持つものなのです。
次回は、暮らしの隅々におよぶこのリスク意識が、個人の生活を守るだけでなく、社会や政治さえも変えていった様子をお伝えします。
■参考文献
・Slovic, P. (1999): Trust, emotion, sex politics, and science: surveying the risk assessment battlefield. In: Risk Analysis, Vol.19, No.4
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