空間線量測定のフィルターを交換する物理学研究所物理技術アシスタント、アネッテ・ベルガー氏(出典:http://blog.alumni.uni-oldenburg.de/?p=530)
2011年3月末、長らく実習でしか使われていなかったドイツ北西部ニーダーザクセン州の国立大学の空間線量測定器が、再び通常測定のための常時稼働に入りました。日本の原発事故以来、このオルデンブルク大学の物理学者ハインツ・ヘルマース博士のもとには、メディアや一般市民からの質問がひっきりなしに寄せられたからです。人々の関心は測定値。
「確かに微増のヨウ素131を検出したが、自然放射線の通常の濃度の1000分の1であり、健康に全く影響はありません。」
博士はそう答えます。
日本の原発事故後、この大学に注目が集まったのは、25年前のチェルノブイリ事故時のめざましい活躍が人々の記憶に残っているためです。学生の応用核物理学や核放射線測定技術の実習目的で設置されたばかりだったこの測定所は、チェルノブイリ事故によって、まさに予期せぬ実証実験にさらされることになったのです。
政府の発表する「安全報道」に疑念を抱く近隣住民から測定値の照会が約55,000件、さらに詳しい個別の相談が約4,500件も寄せられました。測定所の電話は鳴りっぱなし。最初は学生や研究員が個別に対応していましたが、最終的には専用回線と6人のオペレーターを配置して対応せざるを得ないほどでした。
日本と同様、ドイツにも核戦争や原発事故が発生した際の公的な対応のためのガイドラインや勧告が定められています。そこでは以下の基準が参照されることが通例となっており、オルデンブルク大学もこれに倣って、大気、雨水、土壌、食品の幾千もの測定データを1986年5月から継続的に公開しはじめました。
国内法(1)と国際基準(2)に加えて、環境団体(3)の勧告も重視されていた点がドイツの特徴といえます。「BUND」(ドイツ環境自然保護連盟)と、バーデン・ヴュルテンベルク州の反原発運動【1】が母体となって1975年に設立された、ドイツ最大の環境保護団体です。事故直後の6月には、放射能汚染の概要をまとめた冊子を発行し、いち早く市民に配布しました。同会の内部機関である「放射線委員会」には、広島・長崎両市の被ばく実態を世界で初めて論じた最も初期からの研究者であるインゲ・シュミッツ・フォイヤーハーケ博士も名を連ね、1989年にはNPO「オットー・フーク放射線研究所」として独立しました。
当時、国やニーダーザクセン州政府は、ほとんど情報を出してこなかったため、測定所の公開データに対する市民の反響は大変大きなものでした。やがて役所の広報機関や地域メディアからも注目され、定期的に測定値が新聞に掲載されるようになります。放射線測定に関してはプロでも、データ公開や住民サービスについての経験がなかった大学側は、当初、地元メディアへの対応に困惑もありましたが、こうした大学の姿勢に対する住民の評価や信頼は急速に高まっていきました。
【図02】ベビーフードのセシウム137濃度(1986年5月?1987年5月までの検体)
(出典:http://uwa.physik.uni-oldenburg.de/1586.html)
【図03】1986年と1996年の一般的な北ドイツ土壌中のセシウム137の深度別分布
(出典:http://uwa.physik.uni-oldenburg.de/1586.html)
【図04】市民団体と協力して測定した旧東ドイツ地域におけるセシウム134と137の土壌汚染(1986年5月時点)
(出典:http://uwa.physik.uni-oldenburg.de/1586.html)
行政の放射線測定は、生鮮農産品が主で、加工品の場合メーカーや販売店は公開されません。個人の家庭農園や自宅の土壌などはそもそも対象外でした。一方、大学に寄せられた相談内容は、「クラインガルテン(貸し農園)のサラダ菜を食べても大丈夫でしょうか?」、「庭の汚染が知りたい」、「粉ミルクやベビーフードは安全ですか?」といった、毎日の生活での個別具体的なものばかり。マクロに対応しようとする行政の測定ではもちろん満たされません。大学ではこのようなニーズに即した測定キャンペーンを展開することにしました。
小さな子どもを持つ親たちは、特に母乳やベビーフードの放射能汚染を心配していました。測定所では1986年5月から1年間に250のサンプルを調査するベビーフード・キャンペーンを展開し、ほとんどが低い汚染だったことを住民に示し(図02)、人々の安心に大きく貢献しました。
ちなみに1997年のチェルノブイリ近郊では、約9割が37Bq/kg以上。汚染の高さを示しています。
クラインガルテンや家庭菜園の利用者からは、セシウムの地層深度を測定してほしいとの要望が寄せられました。1986年5月に生物学部と協力して、土壌調査キャンペーンを行いました。10年後の1996年にも比較のため同じ場所を再度測定(図03)。調査の結果、土壌の質によって沈着や減衰の程度が異なることが確認されました。
当時測定所はこの知見から、「通常通り耕作し施肥してかまわない」とする州農業省の説明とは反対に、「耕作すると地表近くのセシウムが沈着し、根から吸収される恐れがあるため、表土を1cmはぎ取ること」とのアドバイスを行っています。
またそれまでほとんど行われていなかった旧東ドイツの土壌汚染測定を、市民団体「新フォーラム(Neues Forum)」とともに行い、マップ化しました。チェルノブイリの事故現場により近い旧東ドイツの土壌汚染が、西ドイツよりも深刻だったことがわかりました。
測定所によるオープンで実践的な情報公開は、地元メディアだけでなく、保健所や企業、市民団体、医者、オルデンブルク市役所も好印象を持ちました。ところが州政府からは、このような情報公開は州の業務を著しく妨害すると苦情が届きました。当時の州首相ハッセルマンは、測定所が地域住民を不安にさせた理由として、「測定結果の公開自体は問題ないが、コメントや情報の出し方、飲食や生活行動のアドバイスなどは批判されねばならない」と述べています。
州政府の不満は、補助金審査において顕著に表れました。当時、環境NPO等向けの補助金としてポピュラーだった雇用促進措置【2】に申請しますが、州の監査は行政の測定所を優先し、「市民測定所による測定プログラム実施のニーズはない」として申請を却下。理由は「あらゆる放射線が有害とはいえない」というもの。同プロジェクトは、雇用促進措置の助成金の必須条件である「公共の利益」に基づくものではないという説明がなされました。
ニーダーザクセン州は東西統一まで保守のキリスト教民主同盟(CDU)政権だったため、国の勧告を遵守する傾向にありました【3】。1990年になって社会民主党(SPD)と緑の党が連立政権を樹立すると、州政府もようやく測定所への助成金を認定しました。それまでは、500人ほどの個人や団体の年報会費収入【4】だけがスタッフ人件費の財源でしたが、州の助成金によって物理学者や化学技術者が測定所に専従できるようになり、さらに2台目の測定器やパソコン、分析ソフトなど設備が拡充されて、大気汚染物質のサンプリング(オゾン、窒素酸化物、ベンゾール、粉塵)もできるようになりました。しかし再度の政権交代で社会民主党政府になった1994年以降、財政支援は継続されず、測定は次第に縮小していきました。1998年以降は、オルデンブルク市の大気汚染関連の予算で夏期のオゾン濃度測定だけが継続されていた状態でした。
州立大学が州政府の不満を受けながらも、独立して測定所を運営し続けたことは、測定の透明性、オープンさによって信頼を築き上げるという「住民サービス」が、市民測定所の役割として課せられたことを示しています。一方で、州政府や省庁はこれを必要とは見なさず、引き続き不透明な情報公開によって、住民のリスクへの見通しを妨げ、むしろパニックを招いていたのではないか、と測定所は後に述べています。
公的な補助金が打ち切られてからも食品の測定は1998年まで続けられました。最後の公開となった4月26日の測定データでは、事故後12年が経っても野生の果物の加工品や獣肉などから十?数十ベクレルが検出されていることを示しています。また、ベラルーシのブルーベリーからEU規制値である600ベクレル/kgを超える764および609ベクレル/kgという非常に高い濃度が検出されました。市場流通品しているですから、行政検査が少なくなる中で、規制をすり抜けている食品があることを示しています。市民測定所が長期間、市場を監視する必要性を示すものでしょう。
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