10時間を超える退屈なドライブ。
早朝6時にカイロを出発し、ナイル川に沿った田園地帯を、地中海デルタ地方に向けて北上すること220km。アレキサンドリア郊外を西に折れ、地中海を右手に望みながら沿岸道路をさらに290km。途中、第2次大戦の激戦地となったエル・アラメインの外人墓地を過ぎ、沿岸のリゾート、マルサ・マトルーフの浜辺でランチをとった後、今度は左に折れて再び内陸に入ります。ここからは、だだっ広い礫砂漠をひたすら300km南下するだけの単調な道。
渇いた風景。視界に映るのは、空の青と、砂漠の乳白色、アスファルトの灰色だけ。しかしこのルートは、紀元前331年、あのアレクサンドロス大王が、砂嵐に巻き込まれ、道を見失いながらも、2匹の蛇【1】に導かれて歩んだ道なのです。
シーワのアメン神殿は、エジプト第26王朝のアマシス(紀元前570?526)の治世に建立されました。アメン【2】はエジプトの国家守護神ですが、当時、ギリシャ人は、アメンをギリシャの最高神ゼウスと同一視しており、特にシーワのアメン神殿は、その名高い神託【3】で知られていました。
ギリシャ北部のマケドニア王族に生まれ、東地中海世界の覇権を手にしたアレクサンドロス大王は、ペルシャへの東方大遠征を前にして、この神託を受けるため遙々シーワを訪れたのです。当時は砂漠の道なき道を行く、危険な旅でした。
アメン神殿は、今もシーワのアルグミの丘に残っています。中世のモスクの廃墟をくぐって丘に登ると、北西の角に遺跡があります。壁が崩れ落ちてしまった中庭の奥に、前室、それから託宣室と続きます。この神殿最奥の聖なる場所で、アメンの神官が大王に向かって、「神の子よ」と呼びかけたと伝えられています。大王の神格化の始まりです。
その後、大王にとってシーワは、生涯を通じて精神的な故郷でありつづけました。死後はこの神殿に埋葬されることを望んでいたといわれています。しかし、志半ば32歳11ヵ月で夭逝したあと、後継将軍たちの争いの中で、遺体は行方不明【4】となってしまいました。
神殿の裏手の絶壁に立つと、オアシスが一望に見渡せます。北東にアルグミ湖を望み、眼下にナツメヤシが鬱蒼と茂る景観には、隔世の感があります。ここで一句。
「夏草や ナツクサならぬ、ナツメヤシ…」
今日私たちは、大王の足跡を追って快適な舗装道路をセダンで走ることができます。
真っ平らな地平線に向かって、直角に交わるまっすぐな道。シーワまであと150kmというところで、砂漠にぽつりと建つ一軒茶屋が見えてきました。映画「バグダッドカフェ」を彷彿とさせます。BGMには、どこか演歌に似た中近東独特の音楽。テラスでは、アラブのトラック野郎がくゆりと水煙草をふかしていました。カフェの裏には、小さなモスクがあります。まっ白な壁にパステルグリーンの小さなミナレット(お祈りの時間を呼びかける塔)。中を覗くと、ゴザを敷いただけの質素な床、メッカの方角の壁には、のたくったような字で「アッラーは偉大なり」と書かれてあるだけ。
カフェに戻って、ミントティーを注文しました。4杯頼んだのに、なぜか27エジプト・ポンド。
「割り切れない。どういう計算をしているのだろう…」
リビア国境もすぐそこというエジプト最西端のシーワ・オアシスに到着したのは、日も陰り始める5時頃でした。オアシスに近づくと風景が一変します。町の中心には向かわず、群生するナツメヤシ林を抜けると、視界にシーワ湖が現れます。水辺には塩が白く結晶し、白サギが羽を休ませています。湖を横断する泥道に入ると、前方に岩山が立ちはだかりました。頂上は台形のように平らで、側面は侵食された地層から真っ白な石灰岩がむき出しになっています。「アドレーレ・アメラール」。シーワの言葉【5】で「白い山」という意味です。
次回はこの白い山の麓に建つ、究極の隠れ家・エコロッジについてご紹介します。
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