カイロの南90km、ナイル河岸から30km西の砂漠地帯に浮かぶファイユーム・オアシス【1】の歴史は古く、先史時代から農耕民が住んでいたと考えられています。
伝説では、上下エジプトを統一したとされるファラオ・メネス王が、カルーン湖【2】畔で狩りをしているところを野犬に襲われ、危うくワニに助けられた恩に報いるため、この湖をワニの保護地にしたと伝えられています。そのためこの地方は、のちにワニの姿をしたセベク神【3】信仰の中心となりました。
紀元前20世紀の中王国時代【4】になると、第12王朝アメンエムハト1世にはじまる歴代ファラオが、ファイユームを穀倉地帯とすべく一大治水事業に着手します。ナイル川からカルーン湖に流れ込むユースフ運河を拡張し、広大な灌漑農地を開墾しました。紀元前3世紀のプトレマイオス王朝期にも、大規模な治水事業が続けられ、水流を利用した揚水水車が灌漑に使われるようになりました。
ファイユームでは、中王国時代のピラミッドや、ギリシャ・ローマ時代の神殿や墳墓など、35を越す考古学遺跡が発掘され、その歴史の長さを物語っています。
エジプト最大の塩湖・カルーン湖はオアシスの北、海抜下45mの低地に広がっています。北岸には道路もなく、乾いた砂漠と地層が露出したカタラニ山が、蜃気楼のように湖水の向こうに霞んで見えます。これとは対照的に南岸には豊かな田園地帯が広がり、ナツメヤシの茂みとみずみずしい牧草畑をぬって、ロバに乗った少年がのんびり農道を行き過ぎていきます。漁業も盛んな湖の沿道には、釣った魚を高々と掲げて売っている人々を見かけます。
このように一見豊かなファイユームですが、かつては深刻な水問題を抱えていました。ファラオの時代に築かれた運河を基礎にオアシスを縦横にめぐる水路は、農地を潤した後、すべてカルーン湖に流れ込みます。砂漠の低地に位置する湖には水の出口がなく、流入量が多すぎると塩分の強い湖水が広がって周辺の土壌に浸透し、塩害をもたらします。そのため豊富なナイルの水も、排水ができないために十分に使うことができず、水を多く必要とする作物を育てることができませんでした。
デルタの南、胎児が臍帯(へその緒)でつながるように、母なるナイル河岸緑地から枝分かれしているのがファイユームオアシス。
オアシスの北縁に細長く横たわるのがカルーン湖で、オアシス左下(南西)に2つ離れて見えるのが、新たな排水運河で形成された人工湖。
オアシスを塩害から守るため、1973年に新たな治水事業が始まりました。カルーン湖に流れ込む運河に支流をつくり、オアシス南西のワディラヤーン低地に水の一部を流すことにしたのです。事業は成功し、涸れ谷に2つの人工湖ができました。およそ4000年前に始まったファラオの治水事業が、ようやく完結したともいえます。
新たにできた湖には、カルーン湖とともに渡り鳥や在来の鳥類が飛来するようになり、稀少種のリムガゼルやフェネックキツネなど、野生動物の棲息も確認されています。生物学的、地質学的、考古学的に重要な遺産が多く残ることから、1989年には「クジラの谷」を含めたワディラヤーン地区全体が保護区に指定されました。エジプト政府は、ファイユーム地方をエコツーリズム地域として盛り上げていく方針を出しています。
保護区内にはキャンプのできるスポットもあり、朝夕刻々と色彩を変えていく砂漠を楽しむことができます。湖畔の湿地には葦が深く生い茂り、月の明るい晩には湖水が蒼白く妖艶に浮かびあがります。波打つように稜線を描く砂丘は、朝日を浴びる瞬間が最も幻想的です。冬の早朝にはオオフラミンゴの群れも見られます。
人工湖の南西のはずれには天然の泉があり、かつては次のオアシスへ出発するベドウィンの隊商(砂漠などを隊を組んで通行する商人の一隊)が最後に水を補給する場所でした。さらに南のモンガル山麓の岩窟には、コプト派キリスト教[5]の修道院があります。1960年に建てられた砂漠の修道院では、世俗を離れた修道僧が静かな祈りと瞑想の日々を送っています。
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