井上醸造の仕事場には、味噌造りに欠かせないさまざまな道具類があります。一番の存在感を放っているのは、何といっても味噌を仕込む木桶でしょう。7尺、6尺、5尺、4尺【1】という大きさもさることながら、堂々とした佇まいには惚れ惚れします。
うちでつくる味噌のほとんどは、この木桶に仕込んでいます。残念ながら“すべて”ではなく、“ほとんど”としか表現できないのが、現在木桶が置かれている状況なのです。
大正期頃まで、まさに「産湯の湯桶から棺桶にいたるまで」日本人の暮らしにとって桶は欠かせないものでした。かつては大工よりも桶職人の数の方が多かったと聞きますから、それだけ桶の需要があったということでしょう。木桶や木樽の製造技術の発展が、日本で醸造業が栄えた理由のひとつでもあるのです。
しかし、現在では私たちの身近な桶と言えば、せいぜい“すし桶”くらい…。風呂桶も手桶もお櫃(ひつ)も、気がつけばその姿を見ることなどめったにありません。
同じように、味噌や醤油、日本酒などの醸造メーカーからも木桶が消え、代わりにステンレスや強化プラスチック製のタンクが現れました。木桶に比べると、タンクは扱いが簡単で、何段にも積み重ねることができるため、床面積あたりで仕込める量が格段に違ってくるのです。
それでも、木桶はいいです! 特に呼吸のできる木肌が、味噌や醤油などの旨みを醸す微生物にとって最適なのです。
昔は酒屋で使った桶を味噌屋や醤油屋が譲ってもらい、修繕しながら100年以上使って、そこでも使えなくなると一度バラして小さい桶を作り直し、いよいよそれも使えなくなると最後は燃料に…と、とことん活用されていました。今でいうところのリユース、リサイクル品。まさに木の命をまっとうしています。
日本酒を造るための木桶の寿命は短いのですが、味噌や醤油は塩分があり、木桶がその塩分を吸って長持ちするのだそうです。
うちにも譲り受けた木桶があります。譲り受けてもすぐには使いません。まずはよく洗い、何度も何度も水や塩水を張り替え、桶に付いている前の蔵元さんの菌を落とします。その後、内側にうちの味噌を塗っては洗い…を繰り返し、やっと自分の蔵の桶として使えるようになるのです。
そうやって代々大切に使い続けることで、木桶の表面にある無数の小さな孔(こう)にはその蔵の菌が棲みつきます。ステンレスやプラスッチック製のタンクではそうはいきません。
もちろん長い間使い続けると、なかには“箍(たが)”【2】がゆるんで、味噌のたまりが滲みでてしまうものも出てきます。こうなると僕たちにはなす術がなく、桶職人に頼んで箍を締め直してもらわなくてはなりません。
ところが、肝心の桶職人がいないのです。うちでも数年前から4尺の木桶3本を直してくれる桶職人を探していました。しかし、長野市内にはもちろんのこと近郊にも大桶を扱える職人はいません。
やっと見つけた職人さんは、70才を超えた風呂桶屋のおやじさんでした。「この歳じゃ、そんな大桶は無理だ」と最初のうちは断られていたものの、1年半通い詰め、何とか竹箍を掛け替えてもらうことができました。
こうして長い間仕事場の隅で眠っていた桶も蘇り、今では現役として活躍しています。
「うん、まだまだ行けそうです!」
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