前号で「サステナビリティってなに?」というタイトルで「Sustainability」について考えました。この英語を日本語訳すると持続可能性として使われています。海外から入ってきた言葉のように感じられるかもしれませんが、はて?それ以前の日本には「持続可能性」に該当するような言葉や概念は無かったのでしょうか?
いえいえ、そんなはずありませんよね。なにか、私たちが生まれた時から近しい概念を持っているように感じませんか?でもうまく言葉にできない…。調べてみるとそこには、「目に見えないものへ畏敬の念」や「制限のある暮らしの中でのモノへの愛着」など、日本に古来息づく「精神文化」が見えてきました。
「持続可能性」という言葉は、1987年の国連報告『Our Common Future(ブルントラント報告書)』の中に出てくるSustainabilityに対応する翻訳の言葉などとして、日本では使われてきました。それならばと、この国連文書の全文を読んでみました。全374ページのうち、Sustainable developmentは195か所、Sustainabilityは30か所で登場しています。
この報告書は「持続可能な開発(sustainable development)」とはいったいどんなものなのか」を報告しています。本文の第2章1項には有名な「持続可能な開発(sustainable development)とは、将来の世代が自らのニーズを満たす能力を損なうことなく、現代の世代のニーズを満たすような開発」iであり「本質において、資源の搾取、投資の方向性、技術開発の進路、および制度的変革のすべてが調和し、人間のニーズや熱望を満たすための現在および将来の潜在能力の双方を高めるような「変化のプロセス」である。」iiという文章があります。
そのうえで、全体を通して「持続可能性Sustainability」がどう使われているかというと…
「持続可能な開発」を実現するために必要で多様な行動が続いていくこと、その可能性を表していることが読み取れました。
たとえば、第2章 39項では、"Sustainability requires views of human needs and well-being that incorporate such non-economic variables as education and health enjoyed for their own sake, clean air and water, and the protection of natural beauty."
【抄訳】 持続可能性(sustainability)を実現するには、教育や健康といったそれ自体が目的となる要素、きれいな空気や水、そして自然の美しさの保護といった非経済的な変数を組み込んだ、人間のニーズやウェルビーイング(well-being)に関する視点を要求する。
という文章があります。この報告書は「真のサステナビリティ(持続可能性)とは、ただ経済的に豊かになることではなく、人間のウェルビーイングの視点が必要である」と言いました。そして、そのウェルビーイングの中身として、お金に換算できない「教育」「健康」「きれいな空気や水」「自然の美しさ」を挙げています。
持続可能な開発の中身は、人間の本質的な幸せであることを言っているんですね。通読すると、その後のMDGsやSDGs、ESGなどの考え方の卵がギュギュっと詰まっている文書に感動しました。二律背反する課題や目標は、制度や施策で解決すべきであるという考えもすでに示されています。
さらに、世界的標準化の動きとして1999年に、企業のサステナビリティ報告書について全世界で通用するガイドラインを策定する目的で設立されたオランダに本部のある民間組織GRI(グローバル・リポーティング・イニシアティブ)が公開草案を公表したことも(2年ごとに改定)影響しています。
そこには「サステナビリティ(持続可能性)は単に環境的側面だけでなく、経済・社会的側面を持っており、それらの側面は互いに密接に結びついている。持続可能性パフォーマンスの向上を目指す場合には、これら3つの分野すべての向上に励もうと努力するが、環境・経済・社会的目標が常に調和するとは限らないことも明白である。すなわち、3つの側面が連動するということは、ある1分野における行動が他の2分野に及ぼす影響について慎重に検討しなければならないということを示唆している」iiiとあります。環境だけでなく、社会も経済も含める考え方として示されています。
日本では、翻訳の言葉としてのサステナビリティより以前は、類似の概念は「恒続性」「永続的」などの語で表現されていたようです。
それではあなたは「持続可能性」と聞いて、どんな言葉や概念を思い起こしますか?
売り手良し買い手良し世間良し、を意味する「三方良し」や、
義を先んじ利を後にするものは富む、を意味する「先義後利」、
ものを大切に使うこと、を表す「もったいない」なども頭に浮かぶのではないでしょうか。
ここでは、私たちに馴染み深い言葉である「もったいない」に焦点を当てて考えていきたいと思います。
『広辞苑』によると「‐もったいない(勿体無い)。もったいな・し(物の本体を失する意)①神仏・貴人などに対して不都合である。不届きである。②過分のことで畏(おそ)れ多い。かたじけない。ありがたい。」と出ています。
『語源海』によると、近代での使われ方として、「まだ十分に用いられるような場合に、おしいという気持ち。粗末には扱えないこと。分にすぎること。重々しいさま。語源として、重々しく威厳をもつものの意」とされています。
あたりまえに私たちが使ってきた「もったいない」。どうやらモノに対してだけの言葉ではなさそうです。いつ頃から使われていたのでしょうか。まずは今からさかのぼること800余年前…。それでは、タイムトラベルに、しばしお付き合いください。
1,『宇治拾遺物語』-鎌倉時代後期1220年ごろに書かれたと推定され、庶民から貴族、僧侶、動物まで幅広い登場人物が活躍する軽妙で人間味あふれる説話集では、「もったいなきことかな」は、老尼が地蔵菩薩の姿を見ようと毎朝出かけ、ついに童の姿に仏を見出した時に、畏れ多く、尊く、ありがたいという意味で使われているそうです。
AIによるイラストイメージ このような情景だったのでしょうか?
2,『明徳記』-室町時代前期の1392年~94年に書かれたとされる軍記物語では、「其の中にこの一所程の事さのみの御違背(ごいはい)はもったいなきの由」ivという文が出てきます。現代語訳では「そのような中で、この一所(一つの所領)ほどのことで、これほどまでにご違背(=反逆)なさるとは、もったいない(不相応で惜しく残念な)ことである、ということ。」を意味し、どうやら武家の忠義と反逆の是非をめぐる場面で使われたようです。
3,『下学集』-同じく室町時代1444年の辞書では、「勿体無し」は「勿ハ無也。勿体ノ二字即チ正躰無キ義ナリ、然ルニ日本ノ俗、書状二勿躰無シト云フハ大二正理ヲ失ナフナリ」vと使われているそうです。
現代語訳では、「『勿』とは『無い』という意味。『勿体』という二字は、すなわち『正しい本来の姿が無い』という意味、ところが、日本の「俗人たち」は、手紙などに『勿体無い』と書いて使っているが、それは大いに道理を失っていることである」とのこと。
辞書を作成した人は、室町時代の「勿体無い」は一般的に使われているものの、「勿体」だけで「正しい本来の姿が無い」と言えるのだから、使い方がおかしいと言っていますね。「勿」(なかれ)に「無い」の意味があるのだから、同じ意味の言葉が重なっていることを指摘しているんですね。例えるなら「頭痛が痛い」のような感じでしょうか。
こうしてみてくると言葉が時代とともに使い手によって変わっていくのはいつの時代でも同じで、興味深いですね。「もったいない」の歴史を振り返ってみると、「本来の形が無い」、ことのほかにも「畏れ多い」畏敬の念が込められていることにも気がつきます。
古くから日本の農村や江戸時代の生活様式では自給自足があたりまえ、着物や日常のモノも修理したリユースが一般的でした。鍋や釜を直す職業の「鋳掛け屋」や、「馬糞拾い」や「肥取(こえとり)」といって、道端の馬糞をひろって肥料として農家に売る商いや、屋敷や長屋の糞尿を買い取りに来る農民もあったそうです。他にも、
「古傘買い」-古傘を買い取って、傘屋に売った(さらに「傘屋」が傘を張り替えて売った)。
「下駄歯入れ」「雪駄直し」-下駄(げた)や雪駄(せった)の修理屋。
「損料屋(そんりょうや)」-レンタル業。衣類や布団、装身具を貸す。
などの商売があり、長く素材や商品を市場にとどめていた…今でいう、サーキュラーエコノミーを実践していたんですね。
密集した木造建築の江戸時代、人々は度重なる火事や水害、地震や飢饉、流行り病からの復興・再生の道を歩み続けてきました。気候や社会、地政学的にも不確実な現代において、江戸時代の復旧復興の中で生き抜いてきた暮らしや循環型社会からの学びは現代においても有益だと感じます。
2026年3月31日に4年ぶりにリニューアルオープンした東京都墨田区にある江戸東京博物館でも当時の暮らしや文化を詳しく知ることができます。ごみや汚染など、暮らしと社会課題について年代を追って考えることもできます。博物館の展示はもちろん、7階の図書室では江戸東京に関する情報などの資料が豊富で、とてもおススメです。
精巧に作られた縮尺模型で江戸の往来を楽しめる
(江戸東京博物館)
行商人「棒手振(ぼてふり)」の重さを体験できる(江戸東京博物館)
江戸時代の朝顔ブームは「棒手振(ぼてふり)」が鉢植えを
売り歩いたことで広まった(江戸東京博物館)
関東大震災後につくられた防火用水の水溜め(江戸東京博物館)
ごみ回収の変遷。左から「2003年~」「1960年代~」「1950~60年代」
(江戸東京博物館)
2005年にケニア人活動家でノーベル平和賞受賞者のワンガリ・マータイさんが来日した際に「もったいない」という言葉に感動して発信したことで、「MOTTAINAI」という言葉が世界で理解されるようになりました。ワンガリ・マータイさんは「日本に“reduce, reuse, recycle(ごみを削減する、再利用する、再資源化する)”という概念を表す言葉はありますか」と聞いたそうで、その対話のなかで800年の歴史のある「もったいない」という言葉を知り、そこには日本人のモノに対する尊重の思い「Respect」に、つながっていると理解したそうです。
「もったいないからまだ使う」
「もったいないからごみは資源として市場に循環させていこう」
この「もったいない」という言葉、私たちにとって子どもの頃から身近です。私の亡くなった秋田の祖母も方言で「もったいねにゃ」と言って、出汁を取った昆布や煮干しを御飯のおともに佃煮にしたりして食品を最後まで使い切っていたことを思い出します。私の手元にある祖母の着物はすり切れた袖や裾をなんども糸で縫って補強してあります。「もったいない」からつながる思いは、循環・持続可能なことがらを指しています。
大正生まれの祖母の何度も繕われた着物。縁起が良いとされた
矢絣柄(やがすりがら)
こうしてみてみると「もったいない」は日本人の暮らしの中でいつもかたわらにあり、考え方や思いや、暮らしの構えを伝えてきた言葉だったんですね。
本来の姿ではない状態を、言葉にして表し、さらに欠けたモノを今あるもので埋め合わせて使えるようにする。そこには、もう一度使えること、生まれ変わったかのような姿に自然と感謝の念がわきあがり、ありがたく思う。そのモノを作った人への感謝や尊敬の思いもあるように感じます。
モノだけでなく、自分の「思い」も大切です。欲していたものが叶ったとき、欠けたものが埋め合わされて充足した(満ち足りた)ことへの感謝や畏敬の念、謙虚な気持ち、そんな思いが「もったいない」には込められてきたような気がしてなりません。
長い間、日本の暮らしは災厄に直面しながらも、自然の恵みを享受し、動物や虫と植物と共生してきました。人は苦しさや喜びを感じるとき、自然や神仏によりどころを求め、八百万(やおよろず)の神を感じる時代を過ごしてきました。その中で、人や自然とのかかわりをお祭りや年中行事に昇華させ、後の時代に伝えてきました。人だけが存在するのではない世界が、今もそこにあるはずです。
日本に、古来「持続可能性」という言葉そのものが無かったとしても、それを意味する言葉は確かにありました。しかもそれは、自然やほかの生き物、暮らし、生と死や心さえも包含した言葉でありました。
「感謝」や「怖れ」、「光」と「闇」。「ハレ」非日常と「ケ」日常。心の平穏を求める精神世界と、眼前にせまる困難がある現実世界。両方の世界を生きた人たちが願った再生の道。生きることも暮らすことも今よりもずっと難しかった人たちが胸に抱き続けた「勿体無し」が、今の私たちに再生の道を静かに教えてくれているようです。
持続可能な開発のために必要な「サステナビリティ持続可能性」を広めた、およそ40年前のブルントラント報告書。持続可能な開発の実現のためには、人間の幸せウェルビーイングの視点が必要であると言います。そこには、古くから日本で使われてきた「もったいない」と共通する意味がありました。そして、「もったいない」が持つ深淵。その融合に次の世界の共創の光が見えるように思えませんか。
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