東日本大震災の後、私は福島県に入り、関西への疎開サポートや炊き出しセットの避難所への設置、ローラー調査等様々なプロジェクトを立ち上げ、必死になってやっていました。4月の上旬頃、そんな私に一本の電話がかかってきました。
「たけちゃん、福島の帰りに一回東京に寄ってくれへんか?」
東京タワーの一階で待ち合わせしたのは、元・神戸元気村代表の山田バウさん。阪神淡路大震災で7年半支援活動をされた方です。
「今避難所にいる方々は、もうすぐ仮設住宅に移る。そしたら行政主導で自治会が作られ、自治会長ができる。その自治会長に仮設でのカーシェアリングを提案する準備を今からやってみたらどうや?」
私は、その時初めて『カーシェアリング』という言葉を知りました。津波でむちゃくちゃになったたくさんの車を現場で見てきた私はその『仮設住宅でのカーシェアリング』という言葉が心に響き、
「わかりました。引き受けます」
と、自分の活動をそこに集中させていく事にしました。
私が最初に手に入れたのは、一冊の『会社四季報』。当時、私は大阪市内のビジネス街「堺筋本町」にある会社に机を間借りして医療関係のプロジェクトの事務局スタッフをやっていました。その会社四季報に掲載されている一部上場企業を自転車で近い所から順番に訪問していきました。内線で秘書課に連絡し、「被災地でカーシェアリングをやるために車を譲ってもらえないか社長に伝えてほしい」と企画書を渡していきました。駐車場に社用車をたくさん停めてある会社を見つけると訪問し、同じように内線を鳴らす、そんなことを徹底的にやっていきました。
見事なまでに断られ続けたのですが、そのうちいろんな方が私に人を紹介してくださるようになっていき、やがて車を提供してくださる方が表れたのです。
6月、車の提供先を探すために、石巻に入りました。私は『車に関するアンケート』を作り、ボランティアベースに支援物資として届いていた手拭いを少し分けていただき、それを粗品として石巻中の仮設住宅を一人でアンケート調査と称して訪問していったのです。実は私は、アンケートの中身にはそれほど関心はありませんでした。私が取り組んでいたのは『人探し』。アンケートを口実に色んな会話を行いながら、一緒にカーシェアリングを取り組んでくれる方を探していったのです。『人柄』を丁寧に確認しながら。すると仮設万石浦団地に見つかったのです。いい人が。
7月、組織を法人化して、最初の車を京都から石巻に届けテスト運行が始まりました。すると報道機関がそれを大きく取り上げてくださり、それを見た石巻警察署と宮城県運輸支局から連絡がありました。
「内容をもう一度確認したい」
私は事前に各機関に実施内容を報告していたのですが、もう一度説明に伺いました。テストを経て利用者の方々から正式に進めたいと意向を受け、車を登録しようとした8月下旬、宮城県警とのやり取りが本格的に始まりました。管理方法、契約書の内容、車庫証明の時に揃える書類についての細かい指導が入りました。県警側も初めてのケースで非常に慎重でした。しかし、私達の目的は石巻に『雛形』を作る事。ここはとても大切な時だと思い、根気よく、県警と現場の意見を確認しながら双方が納得できる型を丁寧に作っていきました。9月30日、私の34歳の誕生日についにOKの返事をいただきました。(OKをいただいた内容は、001の内容)その後車庫を仮設住宅敷地内に取得し、10月20日、無事仮設万石浦団地で正式に始める事ができました。
メディアの効果で車両提供や寄付の申し出を続々といただいたのですが、それ以上に利用希望者が表れ、車もお金も足りない状態になりました。そんな中、2012年1月、中古車販売のガリバーインターナショナル(株)から合計30台の中古車の寄贈を受けました。また友人達が寄付集めに動いてくれて、必要な資金もなんとか集まりました。お蔭様で、月10台位のペースでドンドン車を届けていく事ができました。この時、実質私ともう一人のスタッフの2人体制で説明会・登録・配車・利用者へのフォロー・車集め・資金集め・広報・経理の全ての業務に取り組んでいたのですが、それを石巻に集まった多くのボランティアの方々が手伝ってくださり、ジェットコースターのような日々をなんとか乗り越えていきました。
2012年2月、石巻市の仮設住宅担当課が取り組みの必要性を理解して頂き、『カーシェアリング・コミュニティ・サポートセンター』を市のサポート機関として設立し、私達がその運営を受託する事になりました。そして利用者の方々を雇い入れ、石巻市内のカーシェアリングサポートを地元の方々と共に行う今の基本的なスタイルができました。
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