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「カナダ・イヌイットの暮らし」バックナンバー

0042010.04.20UP現代的狩猟活動

狩猟採集民族?

静寂の海上でアザラシを探す
静寂の海上でアザラシを探す

 イヌイットは厳しい自然にかこまれて独自の文化、世界観を築いてきました。ツンドラ地帯のため農耕文化はなく、狩猟、漁撈、採集が彼らの生活基盤を支える必要不可欠な行為でした。主食であったカリブー、アザラシなどは食料になるだけでなく、衣服としても有効活用され、アザラシの脂は燃料としても使用されました。採集も短い夏を中心に、ベリー類、貝類などの食料を得るために必要でした。
 いまだに狩猟採集民族というイメージがつきまといますが、近年彼らの狩猟、漁撈活動はさまざまな要因で変化をよぎなくされてきています。【参考】

 本コラム第一回の「きれいな水に生命は宿る」に登場したホエール・コーブ村の住人を例に、イヌイットの狩猟活動の現代風景を見てみましょう。

現代の狩猟、漁撈活動

 マクパは20歳代の若者。定職にはつかず、国からの福祉金と両親の援助で生活しています。夏のあいだは父と叔父の狩猟のサポートをし、頼まれれば漁撈の手伝いをすることもあります。
 父親のダニエルは週5日、朝8時から夕方5時まで町役場が所有するガレージでエンジニアとして働いています。狩猟はおもに天候のいい土、日、または、仕事後に行われます。小型ボート、スノーモービル、銃など狩猟に必要な道具を所有しており、ガソリン、銃弾などの消耗品は生協で購入します。夏期はカリブー、アザラシ、ベルーガ(シロイルカ)、鳥類などを狩猟対象とし、肉は食料にしたり、近い親族と分け合ったりします。ただしアザラシは毛皮だけ剥ぎ、また、ベルーガも皮部分だけを食料とし、内部の肉は放置することが多々あります。これについては、海獣の肉部分に汚染物質が蓄積されているという報告もあり、好んで食べていないのかもしれません。

 マクパの叔父にあたるジェラルドはアルバイトでラジオのパーソナリティを務めています。現金収入はおもに妻によるものです。所有しているのは銃だけで、狩猟は誰かのボートに「相乗り」して行うことが多いです。
 親族のうち、漁師をしているのはジョージ。漁師になるにはライセンスが必要です。大量の氷を積載できるボート、大型ネットと漁場を持っていて、加工場から現金収入を得られるホッキョクイワナを獲っています。漁期はおおむね7月から9月中旬。ホッキョクイワナ以外は加工場で買い取ってもらえないので、捕獲しても川に投げ入れます。漁が行えない冬だけヘルス・センターで働き、現金収入を得ます。前はほかの狩猟も行っていましたが、漁師を始めてからは頻度が減り、親しい親族から分けてもらっています。
 狩猟を行わない人もいます。専門学校に行くため、ホエール・コープから大きな町に引っ越していったジョディーはホエール・コーブの親しい親族からカリブーの肉などを空輸で送ってもらっています。私が狩猟の様子の写真を見せると、「狩猟に行きたい。仕事をしながら、狩猟もやりたい」と何度も言ったのが忘れられません。

カリブーを見つけたジェラルド、ダニエル、マクパ(左から)
カリブーを見つけたジェラルド、ダニエル、マクパ(左から)

オレンジ色のホッキョクイワナ
オレンジ色のホッキョクイワナ

獲物を探すマクパ
獲物を探すマクパ

獲れたてのカリブーにかぶりつく
獲れたてのカリブーにかぶりつく

現代の狩猟の意味

アザラシ皮をなめす女性
アザラシ皮をなめす女性

 上記に挙げたのは、イヌイットの生活の一部の例に過ぎません。村によっても違いますし、それぞれの人によっても違うことはいうまでもありません。
 スーパーの事務員、建築現場の作業員、アーティスト、先生……狩猟、漁撈の代わりに新たな生業(なりわい)が生まれてきました。現在では狩猟、漁撈はレクリエーションであり、エスニック・アイデンティティを確認するためのものです。ただ、狩猟、漁撈がいまだに彼らの生活の一部となっており、微少ながらも現金収入を得ており、生活の糧になっているのも事実です。
 犬ぞり、カヤックからスノーモービル、ボートへ。弓矢から銃器へ。文明は狩猟を容易にし、狩猟は「生きる」ためだけのものではなくなりましたが、彼らが命を懸け、厳しい自然環境に立ち向かっていることは今も昔もかわりません。

ジョージの4輪バギーで乾かすアザラシ皮
ジョージの4輪バギーで乾かすアザラシ皮

村に帰ってくると子どもたちが集まってくる
村に帰ってくると子どもたちが集まってくる

参考

1)イヌイットの狩猟、漁撈活動に変化をきたすさまざまな要因
 欧米人との接触による交易の始まり、1960年代半ばの移動生活から定住生活への移行、1983年のヨーロッパ共同体によるアザラシ皮の輸入禁止、狩猟採集活動中心の生活から貨幣経済の移行、そして先住民運動による各協定の締結とヌナブト準州の誕生……さまざまな要素が彼らの生活に大きな影響を与え、狩猟、漁撈活動のあり方も大きな変化を遂げています。
2) 欧米人との接触による交易のはじまり
 探険家、捕鯨者、毛皮商人、宣教師などに代表される欧米人との接触は、11世紀ごろに確認されています。15世紀以降欧米人との接触は頻繁になります。1576年にはイギリス人の探検家マーチン・フロビッシャーがバフィン島の湾(その後、フロビッシャー湾と呼ばれるようになる)に到達し、上陸しました。そこで、彼は「皮で作った小舟に乗った男たち」と会い、若干の物資を交換したり、銃や鉄製の道具などを入手したりしていました【註】。しかし、これは一時的なものであり、幅広く異民族と交流するまでには至りませんでした。
 19世紀初頭、欧米人との間でそれまで散発的に行なわれていた交易が本格化します。1911年、チェスターフィールド・インレットにハドソン湾会社の交易所が開設されたのを皮切りに、20世紀なかばまでには現ヌナブト準州の各地に交易所が開設されます。
 このころから欧米人との交易が盛んになり、イヌイット達はホッキョクギツネの毛皮を交易所で売り、生活に必要なさまざまな品物を購入し始めました。第二次世界大戦後は1961年にノルウェーでアザラシ毛皮のなめし技術が開発されたため、主力交易品はホッキョクギツネの毛皮からアザラシの毛皮になりました。アザラシ毛皮の交易は、1983年にヨーロッパ共同体が輸入を全面的に禁止するまで続き、その後毛皮交易は実質的には行なわれなくなりました。
 連邦政府による定住化政策もこの時期に行なわれました。1950年代後半から1960年代なかばまでには、イヌイットのほとんどが定住化をよぎなくされ、この時期から各村に生活協同組合、医療所、学校などの施設が建設されるようになり、さまざまな「仕事」がイヌイット社会に存在するようになります。滑石彫刻の製作や販売が始まるのもこのころです。先住民運動が活発になったのもこのころで、カナダ政府との間で各協定が締結されました。
【註】
ドン・E・デュモン『ツンドラの古代人』、小谷凱宣(訳)、學生社、1982参照

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