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「館山まるごと博物館」バックナンバー

0032019.03.12UP『南総里見八犬伝』と房総の戦国大名里見氏

 江戸時代の長編小説『南総里見八犬伝』は、時代を超えて歌舞伎や映画、ドラマ、人形劇などに演じられ、親しまれてきました。現代では、マンガやアニメで国内外の人気を呼ぶ『ドラゴンボール』の7つのボールを集めるという設定の着想のきっかけになったと言われます。
 ところで、『八犬伝』のモデルとなった戦国大名里見氏が実在していたことは余り知られていません。15世紀半ばから170年にわたり、里見氏は安房国(千葉県南部)を支配していました。もともと上野国榛名(群馬県高崎市)の里見郷出身であったことから、里見姓を名乗ったと伝えられています。
 房総半島南端の館山平野を見渡せる丘陵地には、戦国大名里見氏の居城であった稲村城跡(館山市)があります。1996年に市道建設が計画されて、稲村城跡は破壊されそうになりましたが、貴重な文化遺産を守ろうと市民から声が上がりました。17年にわたる保存運動の末、稲村城跡は岡本城跡(南房総市)とともに里見氏城跡群として2012年に国の指定史跡となりました。

『南総里見八犬伝』

『南総里見八犬伝』

稲村城跡(遠景)

稲村城跡(遠景)

里見氏城跡群(MAP)

里見氏城跡群(MAP)

稲村城跡俯瞰

稲村城跡俯瞰

房総里見氏の登場

里見氏系図

里見氏系図

 室町幕府から関東の支配を任されていた鎌倉公方の足利氏と、それを支える立場にあった関東管領の上杉氏は、支配権をめぐって対立していました。2つの勢力が武力衝突したとき、房総里見氏は鎌倉公方側で大きな役割を果たしました。1454年の享徳の乱は、関東における戦国時代の幕開けとなる大争乱でした。
 安房里見氏の初代とされる里見義実は、鎌倉公方の命を受けて安房国に送り込まれ、勢力を広げていきました。上杉氏が掌握する交易の中心地は白浜の湊(南房総市)だったので、海から攻めたと思われます。白浜を足がかりにして館山平野へ進出した里見義実は、安房の国府を見下ろす稲村城を本城にしました。
 1533年の「天文の内乱」で甥が国主を討ち取り、稲村城は廃城となりました。家督は分家筋に引き継がれ、里見氏は上総国へと支配を広げていきました。さらに、内海(東京湾)の海上交易をめぐって三浦半島の北条氏と激突し、水軍による長い戦いが続きました。
 歴史研究者は、内乱以前を前期里見氏、以降を後期里見氏と呼んで区別しています。

海の戦国大名・里見氏

館山城跡と鏡ヶ浦と富士霊峰

館山城跡と鏡ヶ浦と富士霊峰

 そのころ、関西や東海方面からの多くの交易船は、内海の品川や金沢などの湊だけでなく、江戸川や利根川流域の水上交通とも結びついていました。そして、里見氏の支配下にあった商人や職人、海民たちとの間でも、活発な商業活動をおこなっていました。
 里見氏は、こうした交易船や海民の生活に強い影響をもっていた海賊とつながっていました。海賊はときに姿を変えて里見水軍となり、北条氏と互角に戦う大きな戦力でした。そのため北条氏は、わざわざ紀伊半島から海賊を雇って対抗したといいます。
 争いによって略奪され土地を荒らされた農民たちは、生き残りを図るため、北条氏と里見氏に半分ずつ年貢を納める「半手」という手法を双方の領主に認めさせました。同じように商人たちも、里見氏領で鋳物などを生産し、北条氏領で販売しました。どちらの大名が勝っても身を守れるよう、それぞれの領民は知恵を働かせていたのです。
 里見氏は房総半島全域に勢力を広げ、房総最強の戦国大名にのし上がりました。とくに北条氏との戦いでは、その背後にあった上杉謙信と軍事同盟を結んだり、ときには上杉氏と対立する武田信玄とも同盟を結んだりしました。こうして他の戦国大名と敵になったり味方になったりしながら、勢力を保っていったのです。
 やがて里見氏は北条氏に押され気味になり、1577年に北条氏と和睦を結びました。制海権をめぐり40年におよんだ戦いは、こうして終わりを告げました。海上交易は活発になり、里見氏と北条氏は和平外交のなかでともに国力を高めました。しかし北条氏は関東支配を広げていったものの、最後は豊臣秀吉に敗れ滅びました。
 一方、里見氏は、上総国にあった領地を豊臣秀吉に没収され、安房国の支配のみとなりました。そこで居城を館山城に移し、海とつながる川や沼を濠としました。山裾は敵の侵入を防ぐ切岸(垂直の崖)とし、周辺には寺院や家臣団の住居を置き、防御線を敷きました。城下町には多くの商人を集め、鏡ヶ浦(館山湾)内の高ノ島に湊をつくりました。海上交易をすすめ、新しい領国支配が始まりました。

八犬伝のふるさと?里見のまち・館山

 関ヶ原の合戦で徳川家康側についた里見氏は、恩賞3万石が加増され、関東最大の12万石の外様大名になりました。ところが1614年に突然、里見氏は改易を言い渡されました。館山城は破却され、濠は埋められました。伯耆国倉吉(鳥取県)に国替となった里見忠義は、29歳で亡くなりました。近年、倉吉の神社から発見された棟札には、安房の領民を心配する元領主の想いが書きつけられていました。
 東京湾の入口にあたる館山は、古くから軍事的に重要な拠点でした。17世紀はじめ、強力な水軍をもって館山を支配していた外様大名の里見氏は、徳川幕府から様々な口実をつけられ、国替させられたのです。その後、安房国は幕府の直轄領となりました。里見氏の子孫や家臣らは、苗字をかえ、あるいは農民に身をやつし、全国に散り散りとなり、里見氏の歴史は幕を閉じました。
 それから200年を経た1814年から28年かけて、曲亭馬琴は長編小説『南総里見八犬伝』を創作しました。江戸のベストセラーとなり、再び里見氏に光が当てられました。長い間、多くの人びとは里見氏の歴史小説だと誤認してきました。館山生まれの私も、子どもの頃から城山公園で遊び、『八犬伝』は知っているけれど、里見氏の歴史を学んだことはありませんでした。館山市民でさえ、長い間、架空の物語と混同していたのです。
 標高74mあった館山城跡は、アジア太平洋戦争のときに高角砲設置のために約10m削られました。戦後は頂上広場に展望台が造られ、市民の憩いの城山公園となりました。館山城跡は館山市指定史跡となり、現在は麓に館山市立博物館、頂上広場には天守閣型の八犬伝博物館があります。
 稲村城跡の保存運動によって里見氏の研究や様々な文化活動がすすめられた結果、ようやく房総里見氏の歴史が広く知られるようになりました。公共事業による破壊を免れた稲村城跡が国指定史跡となった2012年は、奇しくも里見氏改易から400年、『八犬伝』から200年を目前にひかえたときでした。
 房総里見氏の史跡をたずねて歩くと、不思議なほど『八犬伝』を彷彿とさせる場所に多く出会います。馬琴は一度も安房を訪れたことがないといいますが、まるで千里眼のようですね。館山まるごと博物館は、里見ワンダーランドです。

曲亭馬琴

曲亭馬琴

八犬伝博物館と戦国コスプレ大会(NPOフォーラム主催)

八犬伝博物館と戦国コスプレ大会(NPOフォーラム主催)

幟

紙芝居『八犬伝』(作画:愛沢彰子)

紙芝居『八犬伝』(作画:愛沢彰子)

紙芝居「八犬伝」でまちづくり

紙芝居「八犬伝」でまちづくり


参考文献

  • 『すべてわかる戦国大名里見氏の歴史』川名登編・国書刊行会2000年
  • 『市民読本さとみ物語』館山市立博物館2000年
  • 『里見氏稲村城跡をみつめて・第五集』里見氏稲村城跡を保存する会2012年
  • 『あわがいど?房総里見氏』NPO法人安房文化遺産フォーラム2015年

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このレポートへの感想

館山市と里見家と「南総里見八犬伝」との関係などがよく分かりました。
ちょっと気懸りな部分として、挿入画像の3枚目と4枚目の説明文が画像自体と逆になっているようです(※事務局注:修正しました)。記事の品質の観点から、正しく記載した方がいいと思います。
また、本文中で「南総里見八犬伝」の作者を「滝沢馬琴」と記載してありますが、滝沢は本名だと聞いたことがあります。小説の作者名としては「曲亭馬琴」が適当ではないかと思います。因みに、「曲亭馬琴」の画像には「曲亭馬琴」と説明が記載してありますので、その整合性からも作者名を統一した方がいいと思います(※事務局注:修正しました)。




(2020.09.09)

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