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「島と自然と生きる人びと」バックナンバー

0012016.08.02UP人間を拒絶し続けた無人島・南硫黄島で12日間の自然環境調査!


南硫黄島全景

 この数年、離島ブームが続いています。「島」はなぜこんなに人を惹きつけるのでしょうか? 1つには海で隔絶している分、島それぞれは1つで完結した世界を持っていて、独自の歴史や風習がカプセルのように閉じ込められているからではないでしょうか。つまり、1つ1つ全く違う世界がそこにあること。旅人は、島を訪れるたび、まるで宝箱のようにそのカプセルを開き、未知の世界に出会うのです。
 日本の有人島の数は約420と言われています。その1つ1つのカプセルの中に、それぞれの島の自然とそこに生きる人びとのストーリーがあります。この連載では、私が出会った魅力的な島の自然と、そこに寄り添って生きている人びとの暮らしについてご紹介したいと思います。

 第1回目となる今回はちょっとイレギュラーな島の登場です。何しろ、有史以来、ずっと無人島だった島なので、「人の暮らし」は語れません。ところがそんな島に12日間暮らした男たちがいました。残念ながら私自身は上陸したことはありません。この原稿は、当時の調査隊員から聞いた話を元に構成しました。

掛け値なしの最後の秘境・南硫黄島


上陸した研究者、サポート隊ふくむ隊員。

 ほとんど人間が立ち入ったことがない南硫黄島に12日間調査で滞在できる! 調査の見込みが立ったとき、話を聞いた関係者は色めき立ちました。北緯24度13.7分、東経141度27.7分。行政区分としては小笠原村に属する無人島です。小笠原諸島の中心となる父島自体、東京から南南東に約1000キロ、南硫黄島は父島からさらに約300キロ南にある正真正銘“絶海の孤島”です。
 小笠原諸島は独自の自然を持ち、主要な島では自然に関する調査も進んではいたものの、南硫黄島は、1936年と1982年の2回しか調査が行われていません。研究者たちにとっては「いつか、絶対に調査したい島」でした。
 下見を経て調査は2007年6月16日からの12日間に決まりました。総合的に自然環境を調査するため、選ばれたのは今まで小笠原諸島で調査研究を重ねていた鳥類、ほ乳類、昆虫、植物、地質、海洋生物、陸産貝類の研究者たちと、そのサポート隊(荷揚げやルートの設営補助など)、そして道なき道を切り開いて小笠原諸島の最高峰である916mの山頂までのルートを作るプロの登山家たち、くわえて父島から南硫黄島まで彼らを運び、調査中は沖で待機する漁船の船長も含めた23名でした。
 新発見が相次いだ調査の概要や成果についてはとても書き切れないので、下記の関連リンク(「南硫黄島自然環境普及啓発事業報告書」と「首都大学東京機関リポジトリ 小笠原研究第33号」)をご覧下さい。この原稿では、人為の影響がほとんどない無人島での調査生活がどのようなものだったのか、短期ながら島で過ごした彼らの暮らしに焦点を当てたいと思います。

経験したことがない険しい環境に絶句

「おいおい、この島、いったいなんなんだ……?」
 上陸の時に思わず隊員から声が出ました。島の周囲には砂浜が皆無。海岸部はすべてゴロタ石に覆われています。
 調査隊の面々は、父島からの漁船から乗り換えたゴムボートで島に限界まで近づいて海に飛び込んで上陸を試みました。なんとか泳ぎ着いて、これから登りはじめる島の全景を見ようと島を見上げたときに、冒頭の言葉が思わず漏れました。あまりの垂直さに、いくら顔を上げても頂上が見えないのです。

「この島、壁じゃん!」。


月に照らされる岩陰。明かりは緊急時に備え起きで停泊中の漁船。

 小笠原の島々はどれも“海洋島”です【1】。海のただ中にぽつんと存在するため、世界で小笠原にしかいない生物がたくさんいます。それは、どこの陸地からも遠く離れた島にどうにかこうにかたどり着いた生きものたちが、限られた環境の中で適応しながら独自の進化をとげていった結果なのです。
 1830年に父島に人間が住み着いてからはいろいろな生物が入り込んできましたが、今でも小笠原には独自の生態系があり、その価値を認められて2011年には世界自然遺産に登録されています。人間の行き来がある父島や母島でさえ世界的な価値があるのですから、一度も人が定住したことのない南硫黄島は、まさに小笠原の原生的自然が残る地です! 調査隊メンバーは期待に胸をふくらませました。

人間を拒み続けた島・南硫黄島

 南硫黄島は北硫黄島、硫黄島とともに“硫黄列島”の一員です。硫黄島は先の大戦の激戦地として知られ、今も自衛隊が駐留していますし、北硫黄島にはかつて村が2つありました。南硫黄島だけは、漂着で否応なしにたどり着いた人が短期間過ごしていた以外、住民がいたことは一度もありません。
 その地形は、まるで海上におにぎりを載せたような円錐形。そして島の傾斜は平均45度! 平地がほとんどなく、安定的に水が得られるような環境もありません。全域を調査したら何日かかるか分からないので、海岸部から頂上まで登るルートを定め、その要所要所で調査/採集を行うことになりました。
 ベースキャンプは頂上までのルートに近く、幅が割と広い海岸に設置されました。といっても地面は砂浜ではなく丸いゴロタ石です。マットを敷いたぐらいではとても眠れず、隊員たちは簡易ベッドを設置してようやく眠りにつきました。
 熟睡を阻害したのはそれだけではありません。
 「夜中、テントの後ろからパラパラパラと石の落ちている音がずっとしていました。テントのまわりには、崖の上から落ちてきただろう大きな石がいっぱい転がっていたので、自分の真上に落ちてきても不思議はないんだと思ったら初日は一睡もできませんでした」
 ある隊員のそんな証言の通り、四六時中続く落石はかなりの恐怖でした。遮るものが何もなく、落石が一直線に落ちてくるこの場所は、隊員たちに「死の廊下」と名付けられました。というわけで、ベースキャンプではどんなにくつろいで海パン一丁になったとしても、みんなヘルメットだけはかぶっていました。


ゴロタ石の海岸がベースキャンプ。ここにテントを張って2?3人ひと組で寝る。


少し離れてみるとベースキャンプに張ったテント(オレンジ色)の背後に巨大な壁のような崖がある。ここをのぼっていく。


 さて、滞在中の食事はどうしていたでしょうか。活躍したのはアウトドア用のガスコンロです。食物はレトルト食品やアルファ米、インスタントラーメンなどが主体。持ち込んだ水は2リットルペットボトル552本でした。たまに、緊急事態に備えて沖で待機している漁船からの差し入れで、釣りあげた魚の刺身が提供されたほかは、ほぼ生ものはなし。日中はベースキャンプに戻らないので、行動食としてスティックタイプの栄養補助食品や柿の種、お昼ごはんはゼリー飲料や魚肉ソーセージでした。ベースキャンプには、おやつ類やインスタントコーヒー、紅茶も用意され、ベースキャンプにいるときは好きに食べられるようになっていました。


ベースキャンプでの食事。パックゴハンとレトルトが多い。


日中の行動食(昼飯)。


「持ち込まない・持ち帰らない」をここまで徹底

 野営すれば当然ゴミが出ます。しかし、この調査ではゴミは全て持ち帰ることを原則としていたため、埋めたり燃やしたり、海に捨てたりは一切行われませんでした。南硫黄島は人間の影響を受けていない島。調査をすることによって外来種が持ち込まれたり、逆に調査目的以外で島の自然が持ち出されたりすることは避けなければなりません。唯一海に流したのはベースキャンプ滞在時の「うんち」です。それさえも、山頂に泊まるときは簡易トイレで排泄し、持ち帰ってきています。万が一、島内に排泄物が落ちた(?)場合のことも考えて、隊員は出発の数週間前から種のある植物を食べることは禁じられたというから徹底しています。

 「人為をできるだけ持ち込まない」取り組みは、父島を出発する前にすでに始まっていました。南硫黄島に持ち込む全ての荷物は換気扇や窓のすき間まで徹底的に目張りした室内で殺虫剤燻蒸を行いました。装備品は燻蒸の前に消毒したテーブルの上で細かくチェックされます。隊員はみんな日頃あちこちのフィールドに出ているので、衣類やポーチなどを裏返してよくチェックすると植物の種などが付着していたりしました。それらは当然持ち込み却下。
 もちろん「持ち出さない」も徹底されました。南硫黄島の生物を運搬してしまわないように、ゴミは父島到着後、大型冷凍庫でマイナス20度以下にして一晩冷凍し、冷凍できないものは出発前に荷物の燻蒸に利用した部屋に運び入れました。開封するときには植物の種や生物が入り込んでいないか目でしっかり確認。ここまで徹底してようやく「持ち込まない・持ち出さない」が可能になったわけで、普段、観光客や仕事の人の出入りがひんぱんな父島・母島はいかに外来種侵入の危険にさらされているかが想像できます。


出発前、殺虫剤燻蒸のために専用の部屋に入れられた荷物。


父島帰島後、冷凍庫でゴミを一晩冷凍。


南硫黄島の10年後、20年後を見続けたい。

 「もちろん新発見を目指していたし、新種の発見は目標でしたけど、あの島から生きて帰ること、それが最大のミッションでした」
 当時をふり返って隊員たちはそういいます。ある隊員は結婚を控えていましたが、南硫黄島調査が終わるまで(=生きて帰るまで)結婚式を延期したそうです。緊張と恐れ、隊員の誰にもそれが胸の中にあったようです。しかし、それを超えてでも「一生に一度のチャンスが来たのなら、行きたい!」「人間が入っていない島にどんな自然があるのか調べたい!」その熱い思いが12日間を支えました。
 過酷な環境下での調査は苦しくもあったけれど、心を揺さぶるような驚きや感動があった日々でもありました。まったく明かりがない夜に、山頂近くで見た煌々と輝く月の大きさと明るさ。標高900m以上で設営した夜、巣へと戻ってくる海鳥たちがテントの屋根にぶつかっては慌てふためく音。さらには、遠く見える硫黄島から聞こえた掃海訓練の腹に響く地響きなど……。今も隊員たちの胸には使命感とともに感動も消えず残っています。
 ともかく、12日間の彼らの痕跡は島にありません。そしていまもあの島では、誰一人見ることがなくても、オオコウモリのエサを取り合う鳴き声が響き、500m以上に広がる雲霧林帯がしっとりと霧に覆われ、この島でしか確認されていないエダウチムニンヘゴの葉を濡らしているのでしょう。

 来年で調査から10年が経ちます。そろそろ、自然の変化を確認する時期ではないでしょうか? 今までに調べられたルート以外での調査や、時間切れで調べきれなかったこともあるはずです。10年という時間は、おそらく装備類の進化ももたらしているはずです。次の調査では島でどんな生活が刻まれることになるのか? 続きを聞きたいところです。
 2007年の隊員たちは未来の隊員に語りかけています。
 「私たちが調べきれなかったことを君たちの手で調べて下さい。南硫黄島の未来は君たちに受け継がれます」

※原稿・写真協力:南硫黄島自然環境調査隊【2】


脚注

【1】海洋島
 海洋島とは、ほかのどこの大陸からも離れており、地殻変動による隆起や沈降によってほかの大陸とつながったことがない、生まれながらの“孤島”のこと。
【2】南硫黄島自然環境調査隊 メンバー一覧 (肩書きは当時のもの)
加藤英寿(隊長・植物班・首都大学東京理工学研究科)
朱宮丈晴(副隊長・植物班・兼ルート工作班・(財)日本自然保護協会)
藤田卓(植物班・九州大学理学部)
高山浩司(植物班・千葉大学大学院理学研究科)
鈴木創(副隊長・動物班・ほ乳類・鳥類・(特非)小笠原自然文化研究所)
千葉聡(動物班・陸産貝類・東北大学大学院生命科学研究科)
川上和人(動物班・鳥類・森林総合研究所鳥獣生態研究室)
苅部治紀(動物班・昆虫・神奈川県立生命の星・地球博物館)
松本浩一(動物班・昆虫・神奈川県立生命の星・地球博物館)
堀越和夫(動物班・は虫類・海洋生物・(特非)小笠原自然文化研究所)
佐々木哲朗(動物班・海洋生物・(特非)小笠原自然文化研究所)
中野俊(地質班・産業技術総合研究所地質情報研究部門)
宗像充(ルート工作班・日本山岳会青年部)
天野和明(ルート工作班・日本山岳会青年部)
金子隆(ルート工作・調査サポート・ソルマル)
島田克己(ルート工作・調査サポート・ボニンブルーシマ)
渡貫洋介(海洋作業サポート・(株)シータック)
山田鉄也(海洋調査・海洋作業サポート・小笠原海洋開発(株))
伊藤弥寿彦(記録班・アクアサービス(株))
柳瀬雅史(記録班・(有)ヤナセ映像企画)
柳川智己(調査サポート・地質・環境省小笠原自然保護官事務所)
千葉勇人(調査サポート・鳥類・地質・小笠原村役場)
中野秀人(監督員・調査サポート)
このほかに執行部があり、全体統括や会計、庶務などのサポート部隊がありました。

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このレポートへの感想

そのうち、吐く息までOut。細菌ウィルスモも持ち込ませないになるのでしょうか?
宇宙服着るしかなくなりますね( ̄□ ̄;)
(2020.09.09)

川上先生のご本に載っている南硫黄島からこちらにたどり着着ました。
こんなに大変な探検を、ただ知りたいという欲求で成し遂げるとは、人間て凄い。
環境保全を考えると、人間て汚染元なんですね。
素敵なリポート、ありがとうございました。
(2020.09.09)

2018年8月29日にご質問いただいた方へ。
北硫黄島で行う調査でも同様の処置が取られ、また近年火山活動で島が大きく変化した西之島でも同様です。
父島や母島周辺の属島(無人島)などについて調査に行く人に聞いてみましたが、これらは日帰りで、ゴミは持ち帰り、排泄物も簡易トイレを持っていきますが、よほどでないと行く前・帰ってからトイレに行くそうです。
極力、自然への影響がないように配慮しているとのことでした。
(2018.09.11)

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